2023年04月17日
仏像を彫る なぜ? その4・民間の仏像の造像と円空仏
前回書いてきたことは、貴族や有力武士という力も財力もある、ある種の官製で作られた仏像ということになるかと思います。
では、一般庶民の間では、どうだったのだろうかと思います。
もともと仏教は、伝来以来官制の寺や有力の貴族、豪族のもので僧侶は国から資格が与えられねばならなかったと聞いています。これは、承元の法難で流刑にあった際の親鸞が僧籍を剥奪され、僧侶ではなくなり一般民として流刑地に赴いているところから私は判断しています。
ということは 、力ないものは寺を持つこともなく、仏像など作る事はご法度だったのかもしれないなんてことを思ったりもしています。この辺りは、歴史学者ではないので、ただ単なる思いつき、妄想に過ぎません。
江戸時代になると、戸籍の管理のための檀家制度の流れで、どこかの寺の檀家ということになって、各家に仏壇らしきものが置かれたりもするようになったと思われるのですが、貧乏庶民には仏壇は難しかったのではないかと想像します。これは偏見とみられるものになるかもしれませんが、浄土真宗の法要を見ていると阿弥陀如来の仏像がなく、その代替えなのか、「南無阿弥陀仏」などの名号を書いた掛け軸に向かって正信偈や浄土三部経を唱えます。大きな仏壇のあるところは、中に阿弥陀如来立像があったりしますが、如来像がなく名号だけという仏壇も多くあります。
日蓮宗でも似ているのか、「南無妙法蓮華経」と書いた掛け軸に向かって、「南無妙法蓮華経」と唱和しているように思われます。
これは、庶民の財力に応じて考え出されたものだろうと思うのです。庶民でも、商家などで財力があれば、立派な仏壇を作って、如来像を安置していたのだろうとも思いますが、仏壇はともかくとして、大きな仏像を彫ってもらうなんていうことは財力的に難しいと思います。
ここでは、(浄土真宗の場合)仏像も六字名号も正信偈や三部経を唱えるためもののであり、個人個人の何かの祈念、祈り、祈願というものを込めたものではなさそうです。
私自身、円空仏を彫るようになって思ったことは、何故円空さんは16万体も彫ったのか?ということです。円空を研究する人からいろいろ言われています。人それぞれの考え、思いがあるのですから、いろんな見方があると思います。どれも否定されるものではないだろうとも思っています。
円空という人物は、僧侶だったことは確かかと思います。僧侶と言っても、いろんな立場があるようで、ひょっとしたら円空さんは”ひじり注1”ではなかったのかと私は思ったりもします。(実は、親鸞も「念仏聖」ではなかったかと言われる面もあるようです)
つまり、”ひじり”としてあちこち歩いて説教して仏の教えを説いていたのではないかと思うのです。”ひじり”の多くが行く先々の寺で宿泊することも多かっただろうし、一般民衆の中、特に庄屋レベルの財力、力のある所に宿泊したことも考えられます。
円空さんは、個人宅や寺院に一宿一飯(長期滞在も含めて)の恩義の返礼として仏像を彫ることも多かったのではないかと思います。
16万体という数は、荒子観音でみるように、大きな仏像造像で出る端材(=木端)に観音などの千体仏などを彫り込んでいることで可能だったのだろうと思っています。
円空仏には、個人蔵が多くあります。それは宿泊した先の個人宅で、返礼として、また依頼されたものとして彫ったのではないかと思っています。
円空仏の時系列的な流れから見ると、円空は仏像彫刻の当初はいわゆる一般の仏像を彫ろうとしたのではないかと思われるのですが、ある年に出かけた伊勢から奈良県天川経由で法隆寺に参拝していると思われるのですが、その法隆寺参拝後に大きく作風が変わっています。おそらく大きなショックを受けるものを見たのではないかと思うのです。そしてその形態を簡潔化に向かっていったのではないか。そしてその簡素化が多くを彫るという目的のために突き詰められていったのだろうと思うのです。
(私は、円空は夢殿の救世観音に接したのではないかと思っているのです。救世観音でないにしても、法隆寺には救世観音に似た衣の形式の間の仏像がたくさん存在しているので、それらに接したのかもしれないと思います。)
(救世観音は秘仏であったので拝観できなかったといわれそうですが、本当に岡倉天心、フェノロサの思いで開帳されるまで、見えなかったのでそうか?私は疑問視しています。)
そんな円空仏に対する私の思いは、あくまでも趣味としての形作りにしぎなかったのですが、前述しているように、ある年義弟の病回復を心底願って、願いは叶いませんでしたが一体彫っています。
その後、私が円空仏に限らず、仏像もどきを彫る際には、それなりの願いを込めて彫るようになりました。その中には私自身の末期癌克服の願いを込めているものもあります。そんな流れの現れが、薬師如来です。
一方で、円空さんにならって木端を使って小さいものもたくさん彫っていますが、そこにも私の祈りが込められています。そしてその中のいくつかが、私に関わりのある人の葬儀に際して、納棺の時に添えてもらっているものもあります。
信仰心はないという言葉と、仏像に祈りを込めるという矛盾した表現になっていますが、私自身の中にあは矛盾はなく収まっています。
こうして、私自身、仏像を彫るようになって、願いを込めるようになって、それから仏像を見る見方が少し変化しました。
「仏像を彫る なぜ?」というシリーズはこれで終わります。私は23年4月人工内耳装着種術ぬ向けて、怪我などしないようにしているために、円空仏を含め仏像やその他の彫刻を止めています。手術が明けて、体調が完全に戻ったところで、再開するつもりでいます。
人生初めての、全身麻酔での手術で、わつぁ日はその手術でどう変わるかわかりません。ましによる眠りの中で、何かを見るかもしれません。そしてそれが私のこの先の人生を変えるかもしれません。
こうしたことは、浄土教の教えでは「お陰様」と言います、生きているのも”お陰様”ということになるのですが・・・・
では、一般庶民の間では、どうだったのだろうかと思います。
もともと仏教は、伝来以来官制の寺や有力の貴族、豪族のもので僧侶は国から資格が与えられねばならなかったと聞いています。これは、承元の法難で流刑にあった際の親鸞が僧籍を剥奪され、僧侶ではなくなり一般民として流刑地に赴いているところから私は判断しています。
ということは 、力ないものは寺を持つこともなく、仏像など作る事はご法度だったのかもしれないなんてことを思ったりもしています。この辺りは、歴史学者ではないので、ただ単なる思いつき、妄想に過ぎません。
江戸時代になると、戸籍の管理のための檀家制度の流れで、どこかの寺の檀家ということになって、各家に仏壇らしきものが置かれたりもするようになったと思われるのですが、貧乏庶民には仏壇は難しかったのではないかと想像します。これは偏見とみられるものになるかもしれませんが、浄土真宗の法要を見ていると阿弥陀如来の仏像がなく、その代替えなのか、「南無阿弥陀仏」などの名号を書いた掛け軸に向かって正信偈や浄土三部経を唱えます。大きな仏壇のあるところは、中に阿弥陀如来立像があったりしますが、如来像がなく名号だけという仏壇も多くあります。
日蓮宗でも似ているのか、「南無妙法蓮華経」と書いた掛け軸に向かって、「南無妙法蓮華経」と唱和しているように思われます。
これは、庶民の財力に応じて考え出されたものだろうと思うのです。庶民でも、商家などで財力があれば、立派な仏壇を作って、如来像を安置していたのだろうとも思いますが、仏壇はともかくとして、大きな仏像を彫ってもらうなんていうことは財力的に難しいと思います。
ここでは、(浄土真宗の場合)仏像も六字名号も正信偈や三部経を唱えるためもののであり、個人個人の何かの祈念、祈り、祈願というものを込めたものではなさそうです。
私自身、円空仏を彫るようになって思ったことは、何故円空さんは16万体も彫ったのか?ということです。円空を研究する人からいろいろ言われています。人それぞれの考え、思いがあるのですから、いろんな見方があると思います。どれも否定されるものではないだろうとも思っています。
円空という人物は、僧侶だったことは確かかと思います。僧侶と言っても、いろんな立場があるようで、ひょっとしたら円空さんは”ひじり注1”ではなかったのかと私は思ったりもします。(実は、親鸞も「念仏聖」ではなかったかと言われる面もあるようです)
つまり、”ひじり”としてあちこち歩いて説教して仏の教えを説いていたのではないかと思うのです。”ひじり”の多くが行く先々の寺で宿泊することも多かっただろうし、一般民衆の中、特に庄屋レベルの財力、力のある所に宿泊したことも考えられます。
円空さんは、個人宅や寺院に一宿一飯(長期滞在も含めて)の恩義の返礼として仏像を彫ることも多かったのではないかと思います。
16万体という数は、荒子観音でみるように、大きな仏像造像で出る端材(=木端)に観音などの千体仏などを彫り込んでいることで可能だったのだろうと思っています。
円空仏には、個人蔵が多くあります。それは宿泊した先の個人宅で、返礼として、また依頼されたものとして彫ったのではないかと思っています。
円空仏の時系列的な流れから見ると、円空は仏像彫刻の当初はいわゆる一般の仏像を彫ろうとしたのではないかと思われるのですが、ある年に出かけた伊勢から奈良県天川経由で法隆寺に参拝していると思われるのですが、その法隆寺参拝後に大きく作風が変わっています。おそらく大きなショックを受けるものを見たのではないかと思うのです。そしてその形態を簡潔化に向かっていったのではないか。そしてその簡素化が多くを彫るという目的のために突き詰められていったのだろうと思うのです。
(私は、円空は夢殿の救世観音に接したのではないかと思っているのです。救世観音でないにしても、法隆寺には救世観音に似た衣の形式の間の仏像がたくさん存在しているので、それらに接したのかもしれないと思います。)
(救世観音は秘仏であったので拝観できなかったといわれそうですが、本当に岡倉天心、フェノロサの思いで開帳されるまで、見えなかったのでそうか?私は疑問視しています。)
そんな円空仏に対する私の思いは、あくまでも趣味としての形作りにしぎなかったのですが、前述しているように、ある年義弟の病回復を心底願って、願いは叶いませんでしたが一体彫っています。
その後、私が円空仏に限らず、仏像もどきを彫る際には、それなりの願いを込めて彫るようになりました。その中には私自身の末期癌克服の願いを込めているものもあります。そんな流れの現れが、薬師如来です。
一方で、円空さんにならって木端を使って小さいものもたくさん彫っていますが、そこにも私の祈りが込められています。そしてその中のいくつかが、私に関わりのある人の葬儀に際して、納棺の時に添えてもらっているものもあります。
信仰心はないという言葉と、仏像に祈りを込めるという矛盾した表現になっていますが、私自身の中にあは矛盾はなく収まっています。
こうして、私自身、仏像を彫るようになって、願いを込めるようになって、それから仏像を見る見方が少し変化しました。
「仏像を彫る なぜ?」というシリーズはこれで終わります。私は23年4月人工内耳装着種術ぬ向けて、怪我などしないようにしているために、円空仏を含め仏像やその他の彫刻を止めています。手術が明けて、体調が完全に戻ったところで、再開するつもりでいます。
人生初めての、全身麻酔での手術で、わつぁ日はその手術でどう変わるかわかりません。ましによる眠りの中で、何かを見るかもしれません。そしてそれが私のこの先の人生を変えるかもしれません。
こうしたことは、浄土教の教えでは「お陰様」と言います、生きているのも”お陰様”ということになるのですが・・・・
完
注1:”ひじり”について (参考出典=百科事典マイペディア)
仏教ですぐれた僧に呼称で、高徳の人、天文暦数に長じた人を言っているらしいが、寺院に属さぬ僧や官職につかぬ僧や、諸方に遊旅をして仏法を布教する僧などあり,阿弥陀聖、か勧進聖、高野聖などいろいろ存在していたといわれている。一説には、親鸞は「念仏聖」といわれ得ている面もあり、私個人としては「親鸞商人」の「聖人」はこの辺りから来ているのかもあなと思っています。
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仏像は何故彫られたか
仏像を彫る なぜ?
その1・仏教との出会い
その2・親鸞研究を経て円空仏との出会い
その3・官製の仏像の建立
その4・民間の仏像の造像と円空仏