2008年01月02日
年賀状の配達
今年は、年賀状が毎日配達される。
昨年までは、元日の配達があって、2日3日と休んでいたと思う。
我が家ではそんなイメージの配達だったが、
今年は、元日の配達に続いて、今日2日も配達されている。
昨年の暮れ30日に
ポストの前で、集荷の係りの人に出会って会話。
「今日は日曜日、もうこれが最後の集荷ですか?」
「いえいえ、年賀状があるので、いつもの通りですよ」
「へぇ。それは大変ですねぇ。」
「それが仕事ですので」
確かにお仕事ですが、
配達も正月なしの仕事。
ご苦労様です。
「いいお年を」と声をかけたら
「ありがとうございます」の声を残して、車に戻られた。
それにしても、毎日配達は、民営化のお蔭でしょうか?
昨年までは、元日の配達があって、2日3日と休んでいたと思う。
我が家ではそんなイメージの配達だったが、
今年は、元日の配達に続いて、今日2日も配達されている。
昨年の暮れ30日に
ポストの前で、集荷の係りの人に出会って会話。
「今日は日曜日、もうこれが最後の集荷ですか?」
「いえいえ、年賀状があるので、いつもの通りですよ」
「へぇ。それは大変ですねぇ。」
「それが仕事ですので」
確かにお仕事ですが、
配達も正月なしの仕事。
ご苦労様です。
「いいお年を」と声をかけたら
「ありがとうございます」の声を残して、車に戻られた。
それにしても、毎日配達は、民営化のお蔭でしょうか?
2008年01月02日
京都の思い出 知恩院
京都の思い出は、どのくらい私の頭の中に残っているか、その都度書いていかないとと自分自身でもわからないだろうと思う。何しろよく出かけているからだ。
といっても、高校までは、修学旅行やら、遠足(バスの日帰り旅行)で行ったくらいだが、それだけでもいろいろなことが頭の中に残っている。
知恩院に初めていったのは、小学校の修学旅行である。山門からあの段差のかなりある石段を上っていった記憶だ。そして、御影堂の屋根のひさしの「左甚五郎の忘れ傘」の話を、引率の先生だったかと思うが説明してくれたのを覚えている。そして、大きな梵鐘に驚き、とにかく境内の広さにも驚いたことも覚えている。
それから、中学校か高校のときに学校の行事で訪れている。学校行事で来ても、一般の生徒には余り興味がないのではないかと思う。私でも仏教そのものへの興味、好奇心は、まだその頃は生まれていない。(いや、潜在的にこうした行事が残って積み重なっていってはいるらしい)
高校のときの行事で来たときは、狩野派の襖絵を見せてもらったような記憶だ。ただ、これは大学の修学旅行(研修旅行)で来たときにも見ているので、記憶がダブっているか、いや2回見ているはずだ。御影堂(だったかの記憶)の北東の建物の普段は入れないところにあるものを見せてもらったという記憶だ。
中学、高校のときはバスツアーなので、境内はガイドさんの案内があったと思うが、御影堂などの案内は知恩院の係りの方がされたとおもう。狩野派の絵は、国宝だか重要文化財といわれても興味のない絵はなんともかんとも記憶には残らないもの。今でも、あの手の絵画は私の好みではないので、すばらしさ自体も不明である。(ただ、文化財としての価値は認めております)
一番最近の訪問は、紅葉を見に行ったのだが、そのときはなぜか山門の下を見ただけで帰っている。その前に訪れたのは、親鸞研究を始めたばかりの頃で、師匠である法然上人の寺に行かねばならぬという思いで行っている。お彼岸の中日、氷雨の中の、あの階段の上りはきつかったなぁ。そのときは、実は親鸞聖人の墓があったといわれている「崇泰院」をもたずねているが、現時点ではこの場所に親鸞聖人の墓なはい。疎水手、訪れるにhともまばらな庵になっている。
**「崇泰院」は、知恩院の敷地の中にあるということで、親鸞関連の史跡としての保存のようです。場所は、正面左(北)の駐車場の東側。ただし、最近行っていないので、どんなたたずまいであるかは不明**
訪れたときは、お年を召された女性の説明を受けた。親鸞の墓のあったところと、蓮如の産湯の井戸などの説明を受け、写真を撮ってきている。親鸞の障害の後にかかわる場所で、親鸞本人の研究には役立つということはないと今では思っている。
話を知恩院に戻して。
実際には、とにかく大きな寺であり、多くのものを見るには、それなりにじっくりと計画を立てて、出来れば寺務とお話をした上で見せてもらうのが良いかもしれない。昔は、文化財などを除いて、えっ光フリーな印象だったが、今はかなり軽微が厳しいように思える。殻がいうことを利くうちに、あの石段をもう一度上がって行きたいと思っている。
知恩院 公式HP:http://www.chion-in.or.jp/
崇泰院 参考HP:http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hi052.html
といっても、高校までは、修学旅行やら、遠足(バスの日帰り旅行)で行ったくらいだが、それだけでもいろいろなことが頭の中に残っている。
知恩院に初めていったのは、小学校の修学旅行である。山門からあの段差のかなりある石段を上っていった記憶だ。そして、御影堂の屋根のひさしの「左甚五郎の忘れ傘」の話を、引率の先生だったかと思うが説明してくれたのを覚えている。そして、大きな梵鐘に驚き、とにかく境内の広さにも驚いたことも覚えている。
それから、中学校か高校のときに学校の行事で訪れている。学校行事で来ても、一般の生徒には余り興味がないのではないかと思う。私でも仏教そのものへの興味、好奇心は、まだその頃は生まれていない。(いや、潜在的にこうした行事が残って積み重なっていってはいるらしい)
高校のときの行事で来たときは、狩野派の襖絵を見せてもらったような記憶だ。ただ、これは大学の修学旅行(研修旅行)で来たときにも見ているので、記憶がダブっているか、いや2回見ているはずだ。御影堂(だったかの記憶)の北東の建物の普段は入れないところにあるものを見せてもらったという記憶だ。
中学、高校のときはバスツアーなので、境内はガイドさんの案内があったと思うが、御影堂などの案内は知恩院の係りの方がされたとおもう。狩野派の絵は、国宝だか重要文化財といわれても興味のない絵はなんともかんとも記憶には残らないもの。今でも、あの手の絵画は私の好みではないので、すばらしさ自体も不明である。(ただ、文化財としての価値は認めております)
一番最近の訪問は、紅葉を見に行ったのだが、そのときはなぜか山門の下を見ただけで帰っている。その前に訪れたのは、親鸞研究を始めたばかりの頃で、師匠である法然上人の寺に行かねばならぬという思いで行っている。お彼岸の中日、氷雨の中の、あの階段の上りはきつかったなぁ。そのときは、実は親鸞聖人の墓があったといわれている「崇泰院」をもたずねているが、現時点ではこの場所に親鸞聖人の墓なはい。疎水手、訪れるにhともまばらな庵になっている。
**「崇泰院」は、知恩院の敷地の中にあるということで、親鸞関連の史跡としての保存のようです。場所は、正面左(北)の駐車場の東側。ただし、最近行っていないので、どんなたたずまいであるかは不明**
訪れたときは、お年を召された女性の説明を受けた。親鸞の墓のあったところと、蓮如の産湯の井戸などの説明を受け、写真を撮ってきている。親鸞の障害の後にかかわる場所で、親鸞本人の研究には役立つということはないと今では思っている。
話を知恩院に戻して。
実際には、とにかく大きな寺であり、多くのものを見るには、それなりにじっくりと計画を立てて、出来れば寺務とお話をした上で見せてもらうのが良いかもしれない。昔は、文化財などを除いて、えっ光フリーな印象だったが、今はかなり軽微が厳しいように思える。殻がいうことを利くうちに、あの石段をもう一度上がって行きたいと思っている。
知恩院 公式HP:http://www.chion-in.or.jp/
崇泰院 参考HP:http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hi052.html