2008年09月29日
萩津和野殺人事件
今29日夜9時40分 TVで、内田康夫の『萩津和野殺人事件』(沢村一樹=浅見光彦)をやっている。
ちょうど津和野のところだが、太鼓谷稲荷が出てきている。これは数年前に行ってきたところ。そして、上の写真は、稲荷の反対側の山にある鳥居で、私が初夢で見たものと・・・
旅行の案内などでも、「萩・津和野」とセットになっていることが多いけど、もしくるまでお行きになるんでしたら、気をつけたほうがいいですよ。萩は山口県。津和野は島根県と件が違うし、交通の便も違う。萩から津和野へ行くには山道をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしなければならないのです。
ドラマは、これから マリア堂などが出てくるはず・・・
一度は行ったことがあるところが、こうしてドラマなどに出てくると、懐かしいものですね。
***
初夢のあの大鳥居はばっちり出てきたけど、
マリア堂 出てきませんでしたねぇ。。。。
尼僧が出てきたのにねぇ。
小説の筋の記憶違いかな??
ちょうど津和野のところだが、太鼓谷稲荷が出てきている。これは数年前に行ってきたところ。そして、上の写真は、稲荷の反対側の山にある鳥居で、私が初夢で見たものと・・・
旅行の案内などでも、「萩・津和野」とセットになっていることが多いけど、もしくるまでお行きになるんでしたら、気をつけたほうがいいですよ。萩は山口県。津和野は島根県と件が違うし、交通の便も違う。萩から津和野へ行くには山道をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしなければならないのです。
ドラマは、これから マリア堂などが出てくるはず・・・
一度は行ったことがあるところが、こうしてドラマなどに出てくると、懐かしいものですね。
***
初夢のあの大鳥居はばっちり出てきたけど、
マリア堂 出てきませんでしたねぇ。。。。
尼僧が出てきたのにねぇ。
小説の筋の記憶違いかな??
2008年09月29日
小説『親鸞と真佛』(2)
とある日、私は三条通のまだ町家がたくさん残る西洞院から京都の繁華街河原町通に向かって歩いていた。肌を気持ちよい乾いた風がなでていく秋口の午後のことだ。京都の中央のメインストリート烏丸通りを少し過ぎて東洞院通りのあたりからなんとなく周りが薄暗くなってきた。曇ってきたというわけではない。空は青く晴れているというのに、町並みがだんだん灰色になっていくのだ。まるで薄暮の感じだが、それだけでなくだんだん周りの町並みが、その薄暮の中に消えていくのだ。あの三条高倉の文化博物館の赤いレンガの建物も消えていく。
三条通は、現代の京都の通の中で数少ない平安京のときの条通の名残の道で、東から西に立派に通り抜けている。戦争で焼かれなかったという京都は、結構時代的な建物を残しているが、三条通にはそうしたものが残されている。そんな建物が、今の私の目の前から消えていくのだ。といって原っぱになったわけではない、薄暮から霧の町の中にはいったといえばわかってもらえるだろうか。
どのくらいの時間がたったのだろう。霧の中といった状態の私の目の前に、また町並みが少しずつ現れてきた。霧が晴れ周りが見えてくる状況に近い。しかし、現れた風景は、見慣れた三条通の町並みではなく古い時代劇を見ているような町並み、いや現代で言うならばちょっとした寺の外塀といった感じの景色のように思われる。崩れてはいるが白塀だったと思われるちょっと長い塀がだんだん目の前にはっきりとしてきた。
私は、遠くまで歩いたというのではない。濃霧の中に紛れ込んだ状態で東と思われる方向に少し歩いたに過ぎないのだが。いったい私はどこに出たと言うのだろう。確かに京都の三条通を歩いているはずなのだが。今見る景色はこれまでの三条通では見たことがない。三条通で寺といって頭に浮かぶのは、はるか西の太秦の広隆寺くらいなのだが。
景色がはっきりとしてくると、歩いている人の姿も見えてくる。ああ、どうしたことか、まさか映画村のセットの中に紛れ込んだのだろうか。いや、どうもそうではないようだ。セットなら、それなりの雰囲気があろうというものだが、今目に入るものはそんな付け焼刃の景色ではない。どう見ても本物のようだ。
かなり時代がかった人たちが歩いている。人の流れは結構多いとは言うものの、現代よりは少ないかと思う。おおきな違いはせかせかと歩いていないということだ。まるで時の流れが三分の一くらいになったように、スローモーションの映画を見ているようでもある。
いったい私は、自分自身がどんな格好をしているのかと自分の服装を見たが、何にも変わってはいない。ごく当たり前の私の時代の服装だ。町を歩く人たちにはどう見えているのだろうかと思ったが、町を歩く人たちは私にはまったくの無関心、私は彼らには存在していないのだろうか。
**
ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
WEB公開していますが、著作権は放棄していません。
三条通は、現代の京都の通の中で数少ない平安京のときの条通の名残の道で、東から西に立派に通り抜けている。戦争で焼かれなかったという京都は、結構時代的な建物を残しているが、三条通にはそうしたものが残されている。そんな建物が、今の私の目の前から消えていくのだ。といって原っぱになったわけではない、薄暮から霧の町の中にはいったといえばわかってもらえるだろうか。
どのくらいの時間がたったのだろう。霧の中といった状態の私の目の前に、また町並みが少しずつ現れてきた。霧が晴れ周りが見えてくる状況に近い。しかし、現れた風景は、見慣れた三条通の町並みではなく古い時代劇を見ているような町並み、いや現代で言うならばちょっとした寺の外塀といった感じの景色のように思われる。崩れてはいるが白塀だったと思われるちょっと長い塀がだんだん目の前にはっきりとしてきた。
私は、遠くまで歩いたというのではない。濃霧の中に紛れ込んだ状態で東と思われる方向に少し歩いたに過ぎないのだが。いったい私はどこに出たと言うのだろう。確かに京都の三条通を歩いているはずなのだが。今見る景色はこれまでの三条通では見たことがない。三条通で寺といって頭に浮かぶのは、はるか西の太秦の広隆寺くらいなのだが。
景色がはっきりとしてくると、歩いている人の姿も見えてくる。ああ、どうしたことか、まさか映画村のセットの中に紛れ込んだのだろうか。いや、どうもそうではないようだ。セットなら、それなりの雰囲気があろうというものだが、今目に入るものはそんな付け焼刃の景色ではない。どう見ても本物のようだ。
かなり時代がかった人たちが歩いている。人の流れは結構多いとは言うものの、現代よりは少ないかと思う。おおきな違いはせかせかと歩いていないということだ。まるで時の流れが三分の一くらいになったように、スローモーションの映画を見ているようでもある。
いったい私は、自分自身がどんな格好をしているのかと自分の服装を見たが、何にも変わってはいない。ごく当たり前の私の時代の服装だ。町を歩く人たちにはどう見えているのだろうかと思ったが、町を歩く人たちは私にはまったくの無関心、私は彼らには存在していないのだろうか。
**
ここに記載している名前『村沢』は、私の小説の中に登場する人物で架空のものです。
また筋は、これまでに読んだ文献から作者自身の思いとして独自に組み立てたものです。
そのため、史実とは異なっているものと違っている可能性がかなり大きいとお考えください。
WEB公開していますが、著作権は放棄していません。
2008年09月29日
雨の中の移動・往復
朝から雨。昼ごろかな少しあがったようだけど、2時ごろからまた振り出して、夕方は結構な雨量ですね。そんな中をバスと電車で往復。
朝は、またバスが遅くなって地下鉄一本後のに乗る。時間が遅い分乗客の顔が違う。学生風の乗客が多くなってきた。この近辺の大学は2期制で、9月の前半はまだ夏休みが多いようだ。月末になって授業開始になったのだろう (私の受講しているのは先週からだから同じだな)
顔が変わっても、化粧をする人が毎度いるんだねぇ。。。 恥ずかしくないんだよな。
帰りは、雨ということで普通は皆さんでかけないけど、私は逆にお出かけをした。といっても遠くへ出かけたのではなく、名駅近くを歩いただけ。
あのねじれビルの地下。一見きれいだけど・・・・・・・ デザインの専門学校がある割には、なんか違うよなぁ。。と感じた。使い勝手の問題かな?それにバリアフリーではないような印象だった。
ねじれビルから笹島の交差点をくぐって三井のほうに。外に出るとエスカレータがあるけど、交差点からは遠くなる。変なの。交差点に一番近いのがエレベータ。乗ってみた。誰も乗らない。だって、気づきにくそうだから。それに狭いし。
広小路通を東に歩いていって、ちょっと用足し。このあたり昔と変わったなぁ。私の知るものは何もないや。ここ何十年と用のないところだったものな。
柳橋の交差点から北に上がって国際センターへ。途中EIDENによってちょっと遊んで。
笹島中学がなくなっている。目下なにかの工事をしている。もうこの辺りは子供がいないのだろう。卒業生は寂しいだろうな。
国際センターから地下鉄。5時を少し回った時間で、お勤め帰りがちらほら、まだどっと来る時間ではなさそう。でもキャリアお姉さんらしき人多かったな。(海の向こうで見たキャリアお姉さんとはかなり雰囲気違うけどね。ちょっと時間たちがうかな?)
地下鉄を降りたら、雨がちょっときつくなっていた。
朝は、またバスが遅くなって地下鉄一本後のに乗る。時間が遅い分乗客の顔が違う。学生風の乗客が多くなってきた。この近辺の大学は2期制で、9月の前半はまだ夏休みが多いようだ。月末になって授業開始になったのだろう (私の受講しているのは先週からだから同じだな)
顔が変わっても、化粧をする人が毎度いるんだねぇ。。。 恥ずかしくないんだよな。
帰りは、雨ということで普通は皆さんでかけないけど、私は逆にお出かけをした。といっても遠くへ出かけたのではなく、名駅近くを歩いただけ。
あのねじれビルの地下。一見きれいだけど・・・・・・・ デザインの専門学校がある割には、なんか違うよなぁ。。と感じた。使い勝手の問題かな?それにバリアフリーではないような印象だった。
ねじれビルから笹島の交差点をくぐって三井のほうに。外に出るとエスカレータがあるけど、交差点からは遠くなる。変なの。交差点に一番近いのがエレベータ。乗ってみた。誰も乗らない。だって、気づきにくそうだから。それに狭いし。
広小路通を東に歩いていって、ちょっと用足し。このあたり昔と変わったなぁ。私の知るものは何もないや。ここ何十年と用のないところだったものな。
柳橋の交差点から北に上がって国際センターへ。途中EIDENによってちょっと遊んで。
笹島中学がなくなっている。目下なにかの工事をしている。もうこの辺りは子供がいないのだろう。卒業生は寂しいだろうな。
国際センターから地下鉄。5時を少し回った時間で、お勤め帰りがちらほら、まだどっと来る時間ではなさそう。でもキャリアお姉さんらしき人多かったな。(海の向こうで見たキャリアお姉さんとはかなり雰囲気違うけどね。ちょっと時間たちがうかな?)
地下鉄を降りたら、雨がちょっときつくなっていた。
2008年09月29日
労働組合という組織
中山国土交通相の辞任の最終的な原因が『日教組をつぶす』ということなのだろう。
全部が全の先生が、日教組に参加しているわけでもないだろうし、参加していても全面的に賛成ということでもないだろう。
私は中学校から私学に行ってしまったので、公立の学校の教師の重いでは小学校だけになる。小学校のときの先生たちは、当時日教組に参加していたのだろうか?
日教組というのは、後々知ることになった組織だが、結構イデオロギー闘争をしていたように思う。戦後の労働組合は、イデオロギー闘争が多かった。公立の先生という職業は、本来公務員として労働組合が認められなかったと記憶しているが、自治体の役人同様にミリやり組合を組織していたのかな?これは私の記憶違いなのかな?
私は、就職して数年後に一時労働組合の役人にいた。ここで勉強をしたのだ。平の社員がなかなか勉強できないものが、組合にいることで勉強に行くことができたので、大いに利用させてもらったというところだ。そして労働組合の裏と、政治とのかかわりの裏も見せてもらった。
もっとも、共産党系、社会党系ではなかったので、さほどの過激さはなかったが、政治との辛味では『いい加減なものだ』と実感したものだ。
今でも、旧社系統系、共産党系の組合の延長にいるところでは、幹部が結構イデオロギーを表に出している印象だが、それは私の経験からすると建前に過ぎない人間が多いように思う。組合員のためを本当に思っているのかと、裏でどれだけ思ったことか。
話を本題に戻そう。
日教組というのは、教員の組合である。つかり先生という職業を持つ人の組合である。本来は、教育をいうものを真剣に考える立場にある人たちの集まりであるはずだ。しかし、組合の幹部は、教育の現場からかなり遠いのではないか?教育の本質を考えるのではなく、自分たちの立場だけ下考えていないように思われてしょうがないような、そんなイデオロギー闘争を延々としてきたように思う。
最近は組織も弱くなったと聞くが、それでも幹部は建前として、イデオロギー闘争をしているように思えてならない。
まぁ、こんなことは先生たちの組合だけではなく、自治体の役人の組合も、いかにサボタージュできる体制を勝ち取るかに腐心しているように思う。先日来書いた、区役所のテイタラクは、組合が勝ち取った、時間内労働の延長上にまだ乗っかっているのだ。公僕という気持ちはさらさらない。先生も同じ考えの人が多い。
大昔、『デモシカ先生』というこ言葉があった。それはいまだに生きているのではないかと思う先生も結構見かける。
先生は、もっと児童生徒のこと考え、役人は市民のことを心から考える組合つくりを考えてほしいもの。そうすれば『ぶっつぶす』なんて言葉は誰もはかなくなるだろう。
全部が全の先生が、日教組に参加しているわけでもないだろうし、参加していても全面的に賛成ということでもないだろう。
私は中学校から私学に行ってしまったので、公立の学校の教師の重いでは小学校だけになる。小学校のときの先生たちは、当時日教組に参加していたのだろうか?
日教組というのは、後々知ることになった組織だが、結構イデオロギー闘争をしていたように思う。戦後の労働組合は、イデオロギー闘争が多かった。公立の先生という職業は、本来公務員として労働組合が認められなかったと記憶しているが、自治体の役人同様にミリやり組合を組織していたのかな?これは私の記憶違いなのかな?
私は、就職して数年後に一時労働組合の役人にいた。ここで勉強をしたのだ。平の社員がなかなか勉強できないものが、組合にいることで勉強に行くことができたので、大いに利用させてもらったというところだ。そして労働組合の裏と、政治とのかかわりの裏も見せてもらった。
もっとも、共産党系、社会党系ではなかったので、さほどの過激さはなかったが、政治との辛味では『いい加減なものだ』と実感したものだ。
今でも、旧社系統系、共産党系の組合の延長にいるところでは、幹部が結構イデオロギーを表に出している印象だが、それは私の経験からすると建前に過ぎない人間が多いように思う。組合員のためを本当に思っているのかと、裏でどれだけ思ったことか。
話を本題に戻そう。
日教組というのは、教員の組合である。つかり先生という職業を持つ人の組合である。本来は、教育をいうものを真剣に考える立場にある人たちの集まりであるはずだ。しかし、組合の幹部は、教育の現場からかなり遠いのではないか?教育の本質を考えるのではなく、自分たちの立場だけ下考えていないように思われてしょうがないような、そんなイデオロギー闘争を延々としてきたように思う。
最近は組織も弱くなったと聞くが、それでも幹部は建前として、イデオロギー闘争をしているように思えてならない。
まぁ、こんなことは先生たちの組合だけではなく、自治体の役人の組合も、いかにサボタージュできる体制を勝ち取るかに腐心しているように思う。先日来書いた、区役所のテイタラクは、組合が勝ち取った、時間内労働の延長上にまだ乗っかっているのだ。公僕という気持ちはさらさらない。先生も同じ考えの人が多い。
大昔、『デモシカ先生』というこ言葉があった。それはいまだに生きているのではないかと思う先生も結構見かける。
先生は、もっと児童生徒のこと考え、役人は市民のことを心から考える組合つくりを考えてほしいもの。そうすれば『ぶっつぶす』なんて言葉は誰もはかなくなるだろう。
タグ :大臣辞任