2009年04月01日
親鸞の追っかけ そのきっかけ
私はこのブログ(だけではないけど)に、お寺の話や、宗教の話やら、親鸞の話を書いている。
お寺に行くのは信仰心が厚いと思われるかもしれないけど、私はまったく逆で、信仰心はないに等しい。正直申して仏壇はなくてもいいから、なんとかしたいとすら思っている。
ただ、親鸞に研究をしているのは、彼の生き様に興味を持ったのであり、本願寺の教えを信じているのではない。逆に、今の本願寺の言うことは半分以上否定しているといっても過言ではない。
私の母がなくなって25年家内の父親、母親がなくなって10年を過ぎている。大体○○忌法要なんていうのを繰り返していると、耳に経といわれるものが入ってくる。何回も聞いているとだんだん慣れてきて、渡される小冊子を見ながら聞いていると、だんだん意味も少しずつわかってくる。いくら漢文で書いてあっても、なんとなくではあるが分かってくる。
ある年の法要のとき、耳に『源空』という言葉が飛び込んできた。そのとき思ったのが、なぜ法要の席で、しかも浄土真宗の法要の席で詠まれる、それまでお経と思っていた『正信偈』に浄土宗の坊さんの名前が出てきたのだから、驚きだった。
もっとも、法然上人は、6年間の宗門の学校で週一回はいろんな法話の中で教え込まれているからそれなりの知識はあるものの、それが浄土真宗の法事の際に登場するなんて思いもよらないことだった。
と、そのときの驚きと疑問が、生来の私の好奇心を掻き立てることになった。それにもう一つ、ものすごく昔の話で、どこの方かは記憶に残っていないが、あるときお年を召した女性が、私に向かって『親鸞さんみたい』といわれた記憶が少し残っていたのだ。なぜそんなことを言われたのかも、何も覚えていない。ただ、いわれた言葉だけが頭の中に残っている。
世の中が、戦争がなかったとしたら、親戚筋から聞いた話では、私はある大きな(真宗の)寺のあとを継ぐことになっていたかもしれないともいわれている。
そんなことなどが重なって『親鸞とは何者』とばかりに、本を読み始めたのだ。そして、その次には、『親鸞は何が言いたかったのか?』と。そして挙句の果てに、浄土教の中の聖典といわれる浄土三部経をよんで(漢文ではなく日本語訳)、どうも親鸞の言おうとしていることと、本願寺の法要には差が有るのではないかと思い始めたのだ。そこで今度は、寺参りを始めたということ。
もっとも、寺参りは、中学・高校時代から、学校の行事でよく言っていたからあちこち知ってはいた。それに大学でも京都・奈良を1週間かけての修学旅行で沢山の寺参りをしたのだから、なれてはいたのだが。まぁ、宗教とは関係のない寺参りだった。
それは、今度は、親鸞のことを知るようになってからは、本願寺否定のための寺参りになってしまったのだ。真宗10派の本山といわれる寺は5派、そのほかに上越市の浄興寺、茨城県笠間市の西念寺、そして、下妻市のある小島草庵跡、親鸞そのものではないが歎異抄の著者ゆかりの報佛寺などなどを歩くことになってしまった。(あるときなど茨城・水戸からから上越市まで下妻市経由で日本縦断の強行をしたことがある。体壊したけど。)
こうしたことをしたのは、同じ場所に立って考えてみたかったから。でも、わからなかったけど。。。
他にも、ゆかりの地をいっぱい歩いて、私自身を親鸞としてものを見たときのことをいろいろ考えたわけです。そして、なんとなく、本願寺がやっていることが親鸞のいいたかったことは違うものだという理解をするようになった。
**
次は、気が向いたら聖書、お経について書くかもしれません
**
お寺に行くのは信仰心が厚いと思われるかもしれないけど、私はまったく逆で、信仰心はないに等しい。正直申して仏壇はなくてもいいから、なんとかしたいとすら思っている。
ただ、親鸞に研究をしているのは、彼の生き様に興味を持ったのであり、本願寺の教えを信じているのではない。逆に、今の本願寺の言うことは半分以上否定しているといっても過言ではない。
私の母がなくなって25年家内の父親、母親がなくなって10年を過ぎている。大体○○忌法要なんていうのを繰り返していると、耳に経といわれるものが入ってくる。何回も聞いているとだんだん慣れてきて、渡される小冊子を見ながら聞いていると、だんだん意味も少しずつわかってくる。いくら漢文で書いてあっても、なんとなくではあるが分かってくる。
ある年の法要のとき、耳に『源空』という言葉が飛び込んできた。そのとき思ったのが、なぜ法要の席で、しかも浄土真宗の法要の席で詠まれる、それまでお経と思っていた『正信偈』に浄土宗の坊さんの名前が出てきたのだから、驚きだった。
もっとも、法然上人は、6年間の宗門の学校で週一回はいろんな法話の中で教え込まれているからそれなりの知識はあるものの、それが浄土真宗の法事の際に登場するなんて思いもよらないことだった。
と、そのときの驚きと疑問が、生来の私の好奇心を掻き立てることになった。それにもう一つ、ものすごく昔の話で、どこの方かは記憶に残っていないが、あるときお年を召した女性が、私に向かって『親鸞さんみたい』といわれた記憶が少し残っていたのだ。なぜそんなことを言われたのかも、何も覚えていない。ただ、いわれた言葉だけが頭の中に残っている。
世の中が、戦争がなかったとしたら、親戚筋から聞いた話では、私はある大きな(真宗の)寺のあとを継ぐことになっていたかもしれないともいわれている。
そんなことなどが重なって『親鸞とは何者』とばかりに、本を読み始めたのだ。そして、その次には、『親鸞は何が言いたかったのか?』と。そして挙句の果てに、浄土教の中の聖典といわれる浄土三部経をよんで(漢文ではなく日本語訳)、どうも親鸞の言おうとしていることと、本願寺の法要には差が有るのではないかと思い始めたのだ。そこで今度は、寺参りを始めたということ。
もっとも、寺参りは、中学・高校時代から、学校の行事でよく言っていたからあちこち知ってはいた。それに大学でも京都・奈良を1週間かけての修学旅行で沢山の寺参りをしたのだから、なれてはいたのだが。まぁ、宗教とは関係のない寺参りだった。
それは、今度は、親鸞のことを知るようになってからは、本願寺否定のための寺参りになってしまったのだ。真宗10派の本山といわれる寺は5派、そのほかに上越市の浄興寺、茨城県笠間市の西念寺、そして、下妻市のある小島草庵跡、親鸞そのものではないが歎異抄の著者ゆかりの報佛寺などなどを歩くことになってしまった。(あるときなど茨城・水戸からから上越市まで下妻市経由で日本縦断の強行をしたことがある。体壊したけど。)
こうしたことをしたのは、同じ場所に立って考えてみたかったから。でも、わからなかったけど。。。
他にも、ゆかりの地をいっぱい歩いて、私自身を親鸞としてものを見たときのことをいろいろ考えたわけです。そして、なんとなく、本願寺がやっていることが親鸞のいいたかったことは違うものだという理解をするようになった。
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次は、気が向いたら聖書、お経について書くかもしれません
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2009年04月01日
やられた~~~April Fool
某さんとこのブログを見て、
タイトルドラッグしたら This Blig Has Hacked !! と赤い手のひらが出て、びっくり。先日私のブログがロシアからとんでもないことをされていたので、その延長で見てしまった。
コメントを書いた後に、その画像を保存して、開いてみたら本人の作品とサインが。
どうもエイプリル・フールのジョークのようでした。
やられたなぁ。。。。
タイトルドラッグしたら This Blig Has Hacked !! と赤い手のひらが出て、びっくり。先日私のブログがロシアからとんでもないことをされていたので、その延長で見てしまった。
コメントを書いた後に、その画像を保存して、開いてみたら本人の作品とサインが。
どうもエイプリル・フールのジョークのようでした。
やられたなぁ。。。。
タグ :エイプリル・フール
2009年04月01日
名古屋を歩く・八角堂
今日は、朝はちょっと寒かったけど、地下鉄を降りてから歩いたら、汗をかくほど暑くなって、午前中はなんだかあったかかったなぁ。だけど、昼くらいから日が翳って、風も出てきて結構冷たかった。
実家の中で仕事をしていたのだが、なんだか気分が欲求不満といった感じで、いつもよりも40分早く出てきた。そして、歩き始めた。江川線まで東に行き、そして水主町から高速の下を北に向かう。そして、高速の分岐のところで江川線の東側に渡った。
これには目的があったのだ。昔々、この江川線は市電が通っていた、そして、水主町と柳橋の間に『八角堂』という停留所があったはず。それを思い出したので、何かがあったか、有るだろうと思ったのだ。
少し北に行くと広い駐車場の北側にキンキラキンに光る擬宝珠が見える。そしてそこがお寺であることがわかった。ここを歩くのは初めてのこと。お寺自体がなんというものなのかもしれないし、これが八角堂なのかも知らない。ただ、八角堂というからにはお寺では以下という思いだけだった。
寺は、いつも開いているわけではなさそう。開いている日でも午後3時までのようだ。
門の奥の擬宝珠葉、勢が低い建物だが、形は八角堂のようだ。よく見えないのでなんともいえないが、屋根の形は八角堂、夢殿と同じ感じがするから、ここが探していた八角堂なのだろうと。
門の前の右に『八角堂』とかかれてものがある。50年以上かかってめぐり合えたといった感じかな?
その左に石柱があり、『藩学聖堂』地下かれている。江戸時代尾張藩のある種の学校でもあったのだろうか?
名古屋でも歩くとこうしたもの二でうことも出来るのだと。。。。いつもは京都ばかりを歩いていたが、こうして名古屋を歩くのもいいことかもしれない。
参考HP
http://www.aruku88.net/7fuku/09nagoya/tera/06/index2.html
実家の中で仕事をしていたのだが、なんだか気分が欲求不満といった感じで、いつもよりも40分早く出てきた。そして、歩き始めた。江川線まで東に行き、そして水主町から高速の下を北に向かう。そして、高速の分岐のところで江川線の東側に渡った。
これには目的があったのだ。昔々、この江川線は市電が通っていた、そして、水主町と柳橋の間に『八角堂』という停留所があったはず。それを思い出したので、何かがあったか、有るだろうと思ったのだ。
少し北に行くと広い駐車場の北側にキンキラキンに光る擬宝珠が見える。そしてそこがお寺であることがわかった。ここを歩くのは初めてのこと。お寺自体がなんというものなのかもしれないし、これが八角堂なのかも知らない。ただ、八角堂というからにはお寺では以下という思いだけだった。
寺は、いつも開いているわけではなさそう。開いている日でも午後3時までのようだ。
門の奥の擬宝珠葉、勢が低い建物だが、形は八角堂のようだ。よく見えないのでなんともいえないが、屋根の形は八角堂、夢殿と同じ感じがするから、ここが探していた八角堂なのだろうと。
門の前の右に『八角堂』とかかれてものがある。50年以上かかってめぐり合えたといった感じかな?
その左に石柱があり、『藩学聖堂』地下かれている。江戸時代尾張藩のある種の学校でもあったのだろうか?
名古屋でも歩くとこうしたもの二でうことも出来るのだと。。。。いつもは京都ばかりを歩いていたが、こうして名古屋を歩くのもいいことかもしれない。
参考HP
http://www.aruku88.net/7fuku/09nagoya/tera/06/index2.html
2009年04月01日
またくぐり
4月1日
ナナちゃん今日は
さほど寒くないだろう
またくぐりすると
何かいいことあるのかな?
**
レジャックの前で名駅方面にカメラ向けたけど、
詰まんない風景だなぁ。。。
と、撮ったものがあまりにひどいので
今日の名駅まえはhなしです。
2009年04月01日
いやぁ ご立派
今日から4月 新しい学期が始まるが、学校はまだお休み。入学式ってしないのかなぁ?
いつもの時間にバスに乗る。今日からバスのダイヤが少し変わったようなのだが、どこがどう変わったのやら分からない。いつもと同じ時刻にバスはやってきた。
あれぇ??? いつものようなジジ・ババ(私も含めて)がたくさんいないよ。バスの中がらがらだよ。どうしたんだろう??
バスの前方の席に一人の女性が、大きなかばんを窓際に置いて、がさがさと始めた。果ては、また化粧だなと思った。確かに。。しかし、びっくりしたよぉ。嘘からしか見えないから性格には分からないけど、手の動きは、化粧水を塗りつけているか、ファウンデーションを塗っている様子だよ。
バスは終点まで乗っていたが、なんとなく化粧は終わっていないように思えたんだけど。あれで、町の中を歩くの??次の地下鉄の中で続きをするの?
いやぁ。そのお気持ちには感心しました。ご立派です。
地下鉄を降りてから、今日は歩きました。バスのほうが早いかと思ったけど、運動しないといけないから、歩きました。いっぱい汗をかきました。
笹島ライブは何かしているのかな?親子連れが結構途中で折れていったよ。
いつもの時間にバスに乗る。今日からバスのダイヤが少し変わったようなのだが、どこがどう変わったのやら分からない。いつもと同じ時刻にバスはやってきた。
あれぇ??? いつものようなジジ・ババ(私も含めて)がたくさんいないよ。バスの中がらがらだよ。どうしたんだろう??
バスの前方の席に一人の女性が、大きなかばんを窓際に置いて、がさがさと始めた。果ては、また化粧だなと思った。確かに。。しかし、びっくりしたよぉ。嘘からしか見えないから性格には分からないけど、手の動きは、化粧水を塗りつけているか、ファウンデーションを塗っている様子だよ。
バスは終点まで乗っていたが、なんとなく化粧は終わっていないように思えたんだけど。あれで、町の中を歩くの??次の地下鉄の中で続きをするの?
いやぁ。そのお気持ちには感心しました。ご立派です。
地下鉄を降りてから、今日は歩きました。バスのほうが早いかと思ったけど、運動しないといけないから、歩きました。いっぱい汗をかきました。
笹島ライブは何かしているのかな?親子連れが結構途中で折れていったよ。