2009年09月26日
怒 懲りないウイルスバスタ
ついさっき またもトレンドマイクロからウイルスバスターの勧誘
どうしようもない会社だ。
今回のキャンペーンは、15%割引だという。
昨年までは、期間延長サービスだったが、これが今年から値引きに変わった。
多分、公正取引委員会から指摘を受けての改変だろう。
私に対して サービス延長期間で延長なしの返金をしたことを
私が、公正取引委員会に提訴した。
公正取引委員会は、「返金の際の計算についての不記載」という解釈が成り立つといっていたから、その線に沿った勧告か指導をしたと思われるのが。。。。。
実際はどうだか分からないが、
どっちにしても、サポート拒否をしておきながら、未だに登録メンバーとして案内を送りつけてくるのは、どうしようもない会社の証明だ。
お使いにならない方が良さそうです。。。
実は、ちょっとあることでバスターの話をしていたら、システムをいじるので、アプリケーションの組み合わせによっては不具合が出ると聞いてきた。このアプリ、某メーカーの開発用の純正品名なんですが。話が間違っていないなら、バスターはチェックしていない可能性がある。(一般の人で使う人は少ないから)
2009年09月26日
伊勢湾台風 一月後・長島へ
伊勢湾台風に被害は、日が経つにつれどんどんどの大きさがしれてきて、かなりな死者を出していることが分かってきた。
確か、高校の先輩が行方不明になったままではないかと記憶している。
弥富方面は水が引いていないことは知っていた。近鉄もか国鉄関西線も水没したまま動いていない。変わりと行ってはなんだが、国道一号線をバスは走っていることも分かった。
私の小学校の3年と4年に授業を持ってもらった恩師が、長島に住んでおられた。どうされておられるのか心配していたが、とにかく連絡の取りようもないので、台風から一月経った日に訪ねる決心をして、名古屋駅からバスに乗って長島まで行った。
途中の蟹江から弥富の辺りは一面海だったように覚えている。一月も海水の中なのだ。
長島について、どこどう歩いたのかは記憶がないが、確か一号線から右に行ったと思うので、川上に向かって歩いたのだろう。とにかく先生のお宅に着いたが・・・・
幸いに先生もご一家もご無事でしたが、周囲はそれはそれは大変だったそうです。ものすごくたくあんの方が亡くなられて、死体の収容と、その始末が大変だったことをお聞きした、何でも遺体の焼却する場所がないので、あちこちに穴を掘り、ガソリンをかけて焼かれたと言うことだった。とにかく悲惨な状況であったことをお聞きした。
当日は、先生の安否を知るだけのために出かけたので、手土産もなかったが、後日小包で臣内を送ったと記憶している。
いまTVで『天変地異』と言う番組やっているが、あの当時の悲惨さを記憶している人がいなくナウ前に、この先に起きるであろう、大地震の際の防災に付いての啓蒙をしておいて欲しいものだ。
自然とは、なんとむごいかを教えられた災害だった。
確か、高校の先輩が行方不明になったままではないかと記憶している。
弥富方面は水が引いていないことは知っていた。近鉄もか国鉄関西線も水没したまま動いていない。変わりと行ってはなんだが、国道一号線をバスは走っていることも分かった。
私の小学校の3年と4年に授業を持ってもらった恩師が、長島に住んでおられた。どうされておられるのか心配していたが、とにかく連絡の取りようもないので、台風から一月経った日に訪ねる決心をして、名古屋駅からバスに乗って長島まで行った。
途中の蟹江から弥富の辺りは一面海だったように覚えている。一月も海水の中なのだ。
長島について、どこどう歩いたのかは記憶がないが、確か一号線から右に行ったと思うので、川上に向かって歩いたのだろう。とにかく先生のお宅に着いたが・・・・
幸いに先生もご一家もご無事でしたが、周囲はそれはそれは大変だったそうです。ものすごくたくあんの方が亡くなられて、死体の収容と、その始末が大変だったことをお聞きした、何でも遺体の焼却する場所がないので、あちこちに穴を掘り、ガソリンをかけて焼かれたと言うことだった。とにかく悲惨な状況であったことをお聞きした。
当日は、先生の安否を知るだけのために出かけたので、手土産もなかったが、後日小包で臣内を送ったと記憶している。
いまTVで『天変地異』と言う番組やっているが、あの当時の悲惨さを記憶している人がいなくナウ前に、この先に起きるであろう、大地震の際の防災に付いての啓蒙をしておいて欲しいものだ。
自然とは、なんとむごいかを教えられた災害だった。
2009年09月26日
伊勢湾台風 翌日と翌々日
台風翌日の日曜日は、何もすることがなくくれていったように思う。とにかくラジオテレビからは停電のために情報が何も入ってこないので惨状をほとんど知ることが出来ていなかったから。
ただ阿、車で行き来する人の話から、南の方ではとにかく水につかってしまって車がマトモに走れないという程度のことしか聞こえてきていない。
何にしても、我が家が、被害がなかったと言うことが、他のところの被害の思いを思うなんて言うことはなったようです。
夜は、電気も付かないから、試験中という身でありながら何できなかったよなぁ。。。
翌日(台風の翌々日)は月曜日。期末試験中の学校に行った。
確かバスで行ったのだが、名駅へ行くバスは動いていたのだろう。ただ、中川運河にそったコースだから、どの辺りまで水没していたのか?当時は、中川橋までと昭和橋までだったと思う。多分、昭和橋辺りまでは動けたのかもしれない。
学校に来てみると、友人が出てきていない。かなりな数の友人の顔が見えないのだ。学校全体では相当数の数になっていたらしい。ということで期末試験は延期となった。
そこで、生徒会室に行って、援護活動をしようと言うことになり、先輩に伴って名古屋市役所に行った。しかし、市役所は、まだ支援体制が出来ていなかった。では致し方ないと、愛知県庁へ。ここでもまだ支援体制は完全に立ち上がっていなかったが、それでも自衛隊(当時はひょっとしたら防衛隊)が救援物資を運んでくるからその荷下ろしの手伝いをしてくれと言うことになり、今の体育館辺りか名城公園辺りに行って、自衛隊のヘリコプターが来るのを町、そしてやってきヘリから毛布を降ろす手伝い、そしてトラックに積み込む手伝いをしたと記憶している。
しかし、回数はそんなに多くなかったなぁ。。。物資の数が少なかったのかもしれない。
へりの来る間は何もすることがなく、ボケーとしていたように思うけど。そこに毎日新聞の記者が来て分子を運んでいる写真を撮りたいという。へりはいないよ。それにトラックもいないよ。ただ、トラックが車での間毛布が積んであるだけ。
その毛布を移動させているところを取るから、やってくれって。まぁ、一種のヤラセだなぁ。多分夕刊位には載ったのかな?
その日は、そんな記憶位しか残っていない。
ただ阿、車で行き来する人の話から、南の方ではとにかく水につかってしまって車がマトモに走れないという程度のことしか聞こえてきていない。
何にしても、我が家が、被害がなかったと言うことが、他のところの被害の思いを思うなんて言うことはなったようです。
夜は、電気も付かないから、試験中という身でありながら何できなかったよなぁ。。。
翌日(台風の翌々日)は月曜日。期末試験中の学校に行った。
確かバスで行ったのだが、名駅へ行くバスは動いていたのだろう。ただ、中川運河にそったコースだから、どの辺りまで水没していたのか?当時は、中川橋までと昭和橋までだったと思う。多分、昭和橋辺りまでは動けたのかもしれない。
学校に来てみると、友人が出てきていない。かなりな数の友人の顔が見えないのだ。学校全体では相当数の数になっていたらしい。ということで期末試験は延期となった。
そこで、生徒会室に行って、援護活動をしようと言うことになり、先輩に伴って名古屋市役所に行った。しかし、市役所は、まだ支援体制が出来ていなかった。では致し方ないと、愛知県庁へ。ここでもまだ支援体制は完全に立ち上がっていなかったが、それでも自衛隊(当時はひょっとしたら防衛隊)が救援物資を運んでくるからその荷下ろしの手伝いをしてくれと言うことになり、今の体育館辺りか名城公園辺りに行って、自衛隊のヘリコプターが来るのを町、そしてやってきヘリから毛布を降ろす手伝い、そしてトラックに積み込む手伝いをしたと記憶している。
しかし、回数はそんなに多くなかったなぁ。。。物資の数が少なかったのかもしれない。
へりの来る間は何もすることがなく、ボケーとしていたように思うけど。そこに毎日新聞の記者が来て分子を運んでいる写真を撮りたいという。へりはいないよ。それにトラックもいないよ。ただ、トラックが車での間毛布が積んであるだけ。
その毛布を移動させているところを取るから、やってくれって。まぁ、一種のヤラセだなぁ。多分夕刊位には載ったのかな?
その日は、そんな記憶位しか残っていない。
2009年09月26日
伊勢湾台風 その日と翌日
今日は9月26日 伊勢湾台風から50年目、奇しくも同じ土曜日である。
当時の私は、高校1年生。まだ先の世なんて自分の人生が思うとおりにすんなりといくと思っていた頃。 そして、前期期末試験の最中だったのだ。(高校が2期制だったのです)
当日は、夜に惨劇が起きるなんて誰も予想していなかったかに思う。
当時の土曜日は、今のような休日ではなかったから多分午前中は試験をして帰宅してから家で勉強でもしていたのかと思う。
夕方になって、父親が帰宅して、台風に備えて、雨戸を閉めて板を釘付けして窓を封鎖した。かなり遅い時間になって、どうしても補強が必要と言うことで、父と外に出た。
そのとき、かぶっていた帽子が飛ばされたのだが、風で道路に押しつけられ遠くに飛ばなかった。未だに、何故と思う位風が強かった。そして、南の空で、イヤ空だけでなく指呼し高いところで風が待って火花を散らしていたのを覚えている。
その時刻は台風最接近の2時間位前だったのだろうか。。。
家はかなり揺れた。自宅は風をまともに受けたら潰れると以前から思っていた。対分の進路によっては最枠のことになるかもしれないのだが、名古屋の西を通ってきているとは当時の予報にはなかったのではないかと思っている。(最近の新聞では、予報されて多様に書かれているが)
夜中に、台風が通過するまでの間の恐怖は、実は記憶にない。 自分でも ん???? ただ、万汁もしなくて通過を待ったことだけは確かだ。
台風が通り過ぎ、静かになってから多分熟睡したのだと思う。
翌(日曜日)朝起きて、我が家が潰れていない子に安堵。そして、被害はなんととたんが1枚飛ばされただけですんでいたのは本当に奇跡としか言いようがない。
外はどうかと、通りに出て行った。猿子橋の中川運河の景色が変わっていた。橋の横がなにやら見晴らしがいいのだ。近所の人たちも出てきてざわざわしている。最初は何が起きたのか分からなかったが、当時木造だった倉庫が潰れていたのだ。完全にぺしゃんこになっていた。
そして中川運河にはたくさんの金魚が泳いでいた。まさか弥富の金魚が流されてきているとは思いもしなかったのだが。そして、近くの運河から遠く離れているところが完遂していた。
中川運河の近くは、特に橋の近くは盛り上がっているので完遂の心配は少ないが、橋と橋の間、小栗橋と縁故橋の間なら運河神社の辺りは一番低いところだが、この辺りは多分高潮のせいだろうが、完遂した。
電気が止まっていた。だから何も分からない。名古屋やその西の惨状などは全く知らないでいたのだ。
それからずいぶん長い間停電が続いたような記憶だが、炊事はどうしたのかな?ガスや水道が止まった記憶はないから、炊事だけは出来たのかもしれない。
当時の私は、高校1年生。まだ先の世なんて自分の人生が思うとおりにすんなりといくと思っていた頃。 そして、前期期末試験の最中だったのだ。(高校が2期制だったのです)
当日は、夜に惨劇が起きるなんて誰も予想していなかったかに思う。
当時の土曜日は、今のような休日ではなかったから多分午前中は試験をして帰宅してから家で勉強でもしていたのかと思う。
夕方になって、父親が帰宅して、台風に備えて、雨戸を閉めて板を釘付けして窓を封鎖した。かなり遅い時間になって、どうしても補強が必要と言うことで、父と外に出た。
そのとき、かぶっていた帽子が飛ばされたのだが、風で道路に押しつけられ遠くに飛ばなかった。未だに、何故と思う位風が強かった。そして、南の空で、イヤ空だけでなく指呼し高いところで風が待って火花を散らしていたのを覚えている。
その時刻は台風最接近の2時間位前だったのだろうか。。。
家はかなり揺れた。自宅は風をまともに受けたら潰れると以前から思っていた。対分の進路によっては最枠のことになるかもしれないのだが、名古屋の西を通ってきているとは当時の予報にはなかったのではないかと思っている。(最近の新聞では、予報されて多様に書かれているが)
夜中に、台風が通過するまでの間の恐怖は、実は記憶にない。 自分でも ん???? ただ、万汁もしなくて通過を待ったことだけは確かだ。
台風が通り過ぎ、静かになってから多分熟睡したのだと思う。
翌(日曜日)朝起きて、我が家が潰れていない子に安堵。そして、被害はなんととたんが1枚飛ばされただけですんでいたのは本当に奇跡としか言いようがない。
外はどうかと、通りに出て行った。猿子橋の中川運河の景色が変わっていた。橋の横がなにやら見晴らしがいいのだ。近所の人たちも出てきてざわざわしている。最初は何が起きたのか分からなかったが、当時木造だった倉庫が潰れていたのだ。完全にぺしゃんこになっていた。
そして中川運河にはたくさんの金魚が泳いでいた。まさか弥富の金魚が流されてきているとは思いもしなかったのだが。そして、近くの運河から遠く離れているところが完遂していた。
中川運河の近くは、特に橋の近くは盛り上がっているので完遂の心配は少ないが、橋と橋の間、小栗橋と縁故橋の間なら運河神社の辺りは一番低いところだが、この辺りは多分高潮のせいだろうが、完遂した。
電気が止まっていた。だから何も分からない。名古屋やその西の惨状などは全く知らないでいたのだ。
それからずいぶん長い間停電が続いたような記憶だが、炊事はどうしたのかな?ガスや水道が止まった記憶はないから、炊事だけは出来たのかもしれない。