2011年02月27日
大河ドラマ『江』 第8回 初めての父
江{上野樹里}は、母・お市{鈴木保奈美}や姉二人とともに母の嫁ぎ先新発田勝家の居城。北の庄に向かう。
***
ここで驚いたのは、北庄城がものすごく立派であったということ。この時代はもう天守閣を持つ城になっていたのだろうか?信長のところにいた宣教師ルイス・フロイトの残したものには北庄城が立派であったと知るさrていると、番組の最後にいっていた。
**
さて、この城に入っても娘たちは勝つ家に反発のしどうしである。市がたしなめてもそれは変わらず。それも無理からぬところがある。勝家が、市を始め娘たちに遠慮したものいいと、粗忽なふるまいが娘たちが勝つ家をバカにするわけと言えるか。。
ある日、江がいつものように馬番の止めるのも聞かずに馬で出かけたが、道に迷ってしまい、帰るに帰れず大騒ぎとなった。なんとか帰っては来たものの、位置や姉との会話ではいつものようにイケシャァシャァとしたことを言っていた。これに対して勝家が江を張り飛ばし、厩の近くに連れて行った。
そこでは馬番が土下座して江が無事に帰ったことを喜んでいたが、勝家は江を座らせ『謝れ』と命令する。そしてさらに『馬番は江が戻らねば首をはねられていた』ともいう。これで、やっと江は自分のしたことの重さを知り土下座して謝罪をする。そのあとで、勝家は江にけががなかったかを聞き、しっかりと抱きしめる。
この勝家の取った行動で、市親子の勝家に対する思いは完全に変わり、父として尊敬することになる。
さて、こうした市たちの動きの裏では、羽柴秀吉が「勝家が邪魔」とばかりに勝家を焚きつける方法を模索している。そして、それは信長の葬儀を催すということで・・・・・
**
今回は、どれだけの史実が元になっているのか知らないが、親の権威、親奈緒思いやりということがテーマなのかな?親子の絆がどうやって築かれるのかの一面を言いたかったのだろうと思う。
特に実の親子でない場合、再婚で親子になった間柄というものは無つましいものがある。甘やかしてもいけない、きつくしても行けない。甘やかしていれば『親が違うから』とバカにし、きつくすれば『他人さまは怖い』ということになってしまう。
そうしたことで、本当の親子のごとく絆を作るには、お互いあが心底相手を思いやることが必要になってくる。しかし、これは本当に難しいこと。
**
さて来週は、勝家と秀吉の争いになる。史実としてはもうわかっていることなので、家族がいったどういった気持ちでいるのかというところは、史実にはないだろうけど、それの描き方を見るということになりそう。
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ここで驚いたのは、北庄城がものすごく立派であったということ。この時代はもう天守閣を持つ城になっていたのだろうか?信長のところにいた宣教師ルイス・フロイトの残したものには北庄城が立派であったと知るさrていると、番組の最後にいっていた。
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さて、この城に入っても娘たちは勝つ家に反発のしどうしである。市がたしなめてもそれは変わらず。それも無理からぬところがある。勝家が、市を始め娘たちに遠慮したものいいと、粗忽なふるまいが娘たちが勝つ家をバカにするわけと言えるか。。
ある日、江がいつものように馬番の止めるのも聞かずに馬で出かけたが、道に迷ってしまい、帰るに帰れず大騒ぎとなった。なんとか帰っては来たものの、位置や姉との会話ではいつものようにイケシャァシャァとしたことを言っていた。これに対して勝家が江を張り飛ばし、厩の近くに連れて行った。
そこでは馬番が土下座して江が無事に帰ったことを喜んでいたが、勝家は江を座らせ『謝れ』と命令する。そしてさらに『馬番は江が戻らねば首をはねられていた』ともいう。これで、やっと江は自分のしたことの重さを知り土下座して謝罪をする。そのあとで、勝家は江にけががなかったかを聞き、しっかりと抱きしめる。
この勝家の取った行動で、市親子の勝家に対する思いは完全に変わり、父として尊敬することになる。
さて、こうした市たちの動きの裏では、羽柴秀吉が「勝家が邪魔」とばかりに勝家を焚きつける方法を模索している。そして、それは信長の葬儀を催すということで・・・・・
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今回は、どれだけの史実が元になっているのか知らないが、親の権威、親奈緒思いやりということがテーマなのかな?親子の絆がどうやって築かれるのかの一面を言いたかったのだろうと思う。
特に実の親子でない場合、再婚で親子になった間柄というものは無つましいものがある。甘やかしてもいけない、きつくしても行けない。甘やかしていれば『親が違うから』とバカにし、きつくすれば『他人さまは怖い』ということになってしまう。
そうしたことで、本当の親子のごとく絆を作るには、お互いあが心底相手を思いやることが必要になってくる。しかし、これは本当に難しいこと。
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さて来週は、勝家と秀吉の争いになる。史実としてはもうわかっていることなので、家族がいったどういった気持ちでいるのかというところは、史実にはないだろうけど、それの描き方を見るということになりそう。
2011年02月27日
遺恨あり と 死刑
昨夜録画しておいた「遺恨あり」を改めて見た。
最初の部分は、事件の発端、主人公臼井六郎(藤原竜也)の父が暗殺される前後の話。この段階では本人は仇となる人間をも駆使していないが、下女だった”なか”(松下奈緒)がげ主任・小沢征悦)であったことを目撃していた。
主人公11歳、なか10歳。
中盤は、主人公の六郎の剣術修行と仇討の機会を狙うストーリー。ここで剣術指南は山岡鉄舟(北大路欽也)で、六郎に徹底的に殺しのテクニックを教えているように思えるのだが。。。。
ここで私は39年近く前にしていた剣道の稽古を思い出した。ある稽古で有段者を相手に向かいあうことがあった。この時私は人生初めて『殺気』を感じたのだ。この時以外剣道をしていても殺気を感じることはなかった。
今になった私は以下のように思った。
剣道というのは、実際に相手を殺すわけではないが、相手を打ちこまない限り勝ちはない。つまり疑似的にであろうとも”殺す”ことをイメージしない限り勝てないと思う。そんな残酷なものなのだ。
私は人を殺すなんて言うことは考えたことはない(死んでほしいと思うことはあっても)。だから剣道のけいこのときでも相手を殺すなんて考えないから、相手はおそらく殺気を感じることはなかっただろうと思う。だから弱かっただろう。。。。
後半の1時間近くが 仇討の本懐達成とその事件の処理と関係者の思惑の話。
下女の”なか”は、「ご本懐を遂げられおめでとうございます』といっている。まだ武士の家に住んでいた人間には『仇打ち=殺人』という感覚はないかも。これは山岡鉄舟も同じ感覚で話をしているが、現実の山岡鉄舟はそのように行ったのだろうか??
裁判の話になるが、判事が中江正嗣(吉岡秀隆)で、彼は武士の特権である仇討として裁くのではなく殺人事件として裁くといっている。そして『計画的、残忍なので第一級殺人で死刑が相当』といってるのだが、もう一つ彼は「どんな殺人も許すことができない」とも。
判決は「死罪に相当」といいながらも『終身刑』を言い渡す。(理由が聞き取れなかった)
私は『死刑』というものに疑問を持つ。といって反対を論ずることはしないが。。
なぜ疑問を持っているか。それは、死刑を実行することはそれはにとが人を殺す”殺人”そのものに変わりはないからなのだ。この辺りが論じられることを私は知らないのは私の単なる無知なのだろうか?
**
昨日書いたように、かなり重い話で、辛いものがある。
”殺人”というものはどんな時であろうとも、その時の人は狂気の中にいると私は思っている。それが通常の生活の中での殺人であろうとも、戦争という環境中であろうとも、死刑という制度での処刑であっても、その瞬間は狂気の中だと思う。なにも、心神耗弱がどうのということではないと思う。
人間としてまともな神経、精神状態の中にあれば、相手、人を殺するとい瞬間にとどまっていいのではないのか?とどめられないこと自体が、すでに人間としての正常な精神状態にあるとは思えないのだ。
今の法律の、心神耗弱云々にも大きな疑問も感じている。
最初の部分は、事件の発端、主人公臼井六郎(藤原竜也)の父が暗殺される前後の話。この段階では本人は仇となる人間をも駆使していないが、下女だった”なか”(松下奈緒)がげ主任・小沢征悦)であったことを目撃していた。
主人公11歳、なか10歳。
中盤は、主人公の六郎の剣術修行と仇討の機会を狙うストーリー。ここで剣術指南は山岡鉄舟(北大路欽也)で、六郎に徹底的に殺しのテクニックを教えているように思えるのだが。。。。
ここで私は39年近く前にしていた剣道の稽古を思い出した。ある稽古で有段者を相手に向かいあうことがあった。この時私は人生初めて『殺気』を感じたのだ。この時以外剣道をしていても殺気を感じることはなかった。
今になった私は以下のように思った。
剣道というのは、実際に相手を殺すわけではないが、相手を打ちこまない限り勝ちはない。つまり疑似的にであろうとも”殺す”ことをイメージしない限り勝てないと思う。そんな残酷なものなのだ。
私は人を殺すなんて言うことは考えたことはない(死んでほしいと思うことはあっても)。だから剣道のけいこのときでも相手を殺すなんて考えないから、相手はおそらく殺気を感じることはなかっただろうと思う。だから弱かっただろう。。。。
後半の1時間近くが 仇討の本懐達成とその事件の処理と関係者の思惑の話。
下女の”なか”は、「ご本懐を遂げられおめでとうございます』といっている。まだ武士の家に住んでいた人間には『仇打ち=殺人』という感覚はないかも。これは山岡鉄舟も同じ感覚で話をしているが、現実の山岡鉄舟はそのように行ったのだろうか??
裁判の話になるが、判事が中江正嗣(吉岡秀隆)で、彼は武士の特権である仇討として裁くのではなく殺人事件として裁くといっている。そして『計画的、残忍なので第一級殺人で死刑が相当』といってるのだが、もう一つ彼は「どんな殺人も許すことができない」とも。
判決は「死罪に相当」といいながらも『終身刑』を言い渡す。(理由が聞き取れなかった)
私は『死刑』というものに疑問を持つ。といって反対を論ずることはしないが。。
なぜ疑問を持っているか。それは、死刑を実行することはそれはにとが人を殺す”殺人”そのものに変わりはないからなのだ。この辺りが論じられることを私は知らないのは私の単なる無知なのだろうか?
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昨日書いたように、かなり重い話で、辛いものがある。
”殺人”というものはどんな時であろうとも、その時の人は狂気の中にいると私は思っている。それが通常の生活の中での殺人であろうとも、戦争という環境中であろうとも、死刑という制度での処刑であっても、その瞬間は狂気の中だと思う。なにも、心神耗弱がどうのということではないと思う。
人間としてまともな神経、精神状態の中にあれば、相手、人を殺するとい瞬間にとどまっていいのではないのか?とどめられないこと自体が、すでに人間としての正常な精神状態にあるとは思えないのだ。
今の法律の、心神耗弱云々にも大きな疑問も感じている。