2010年05月02日
イ・サン 第38回 息子からの手紙
王様の認知症のせいで、イ・サン=世孫は身分剥奪の寸前までいく。父の名を聞かれ、罪人として処刑された父の名を言ったことが王様の怒りを買うことになったのだが。
王様に認知症をいかに伝えるべきかとセゾン周辺は慌ただしいが、何ともかんとも手だてがなく。そんな所偽孫は一人こもっている所で、父から与えられた水墨画を思い出しそれを眺めるも、父の言葉『これを王様に見せれば・・』の意味が分からない。そこでその江をソンヨンに解析させることにした。
ソンヨンも解析が難しい状態にあったが、水墨画の厚みが厚すぎることから何かが挟まれているとそれを取り出すこと考え、描かれた絵の示す所からせ孫の父の最後の手紙を見つけ出す。
その手紙を世損に届けようとしたものの警備が厳しくかなわない。そこで何を考えたか、王様に直手渡すことを思いつき実行。そして王様にそのて手紙を読ませ、王様に過去の行いが誤りであったことを気づかせることに成功。
王様は、翌日息子で遺産の父のはかに網で謝罪する。そして世孫を呼び、認知症であることを認め、身分剥奪の名の謝罪をし、自分が引退して世孫=イ・サンを王にすることを宣言する。
とまぁ、こんなストーリーダタのだが、相変わらずの荒いストーリーであることには変わりはない。
だいたいが、ソンヨンが手紙を見つけるのはかまわないが、それを直接王様に見せる下りは、いくら何でもセキュリティーを考えたら無理だろうよ。それに、引き返せ孫の周りの警備の厳重さ。この差はいったいなんなのだろうかと。。。
話の途中で、王妃が王様に近づこうとするが、心の変った王様は体よく拒否する。この話しも、記憶の定かでないことの扱いが、二重人格のような描き方をしたりしていることが混乱を招いている。新しい記憶をなくすということと、古い記憶が頭をもたげるということは意味が違うように思うのだが、実際の認知症では確かに新しい記憶がなくなるとは言うものの、古い記憶で何かを処理しようとするものなのだろうか???
このドラマを見ていて、どうも認知症の症状を勉強しなくてはと思うようになった。
王様に認知症をいかに伝えるべきかとセゾン周辺は慌ただしいが、何ともかんとも手だてがなく。そんな所偽孫は一人こもっている所で、父から与えられた水墨画を思い出しそれを眺めるも、父の言葉『これを王様に見せれば・・』の意味が分からない。そこでその江をソンヨンに解析させることにした。
ソンヨンも解析が難しい状態にあったが、水墨画の厚みが厚すぎることから何かが挟まれているとそれを取り出すこと考え、描かれた絵の示す所からせ孫の父の最後の手紙を見つけ出す。
その手紙を世損に届けようとしたものの警備が厳しくかなわない。そこで何を考えたか、王様に直手渡すことを思いつき実行。そして王様にそのて手紙を読ませ、王様に過去の行いが誤りであったことを気づかせることに成功。
王様は、翌日息子で遺産の父のはかに網で謝罪する。そして世孫を呼び、認知症であることを認め、身分剥奪の名の謝罪をし、自分が引退して世孫=イ・サンを王にすることを宣言する。
とまぁ、こんなストーリーダタのだが、相変わらずの荒いストーリーであることには変わりはない。
だいたいが、ソンヨンが手紙を見つけるのはかまわないが、それを直接王様に見せる下りは、いくら何でもセキュリティーを考えたら無理だろうよ。それに、引き返せ孫の周りの警備の厳重さ。この差はいったいなんなのだろうかと。。。
話の途中で、王妃が王様に近づこうとするが、心の変った王様は体よく拒否する。この話しも、記憶の定かでないことの扱いが、二重人格のような描き方をしたりしていることが混乱を招いている。新しい記憶をなくすということと、古い記憶が頭をもたげるということは意味が違うように思うのだが、実際の認知症では確かに新しい記憶がなくなるとは言うものの、古い記憶で何かを処理しようとするものなのだろうか???
このドラマを見ていて、どうも認知症の症状を勉強しなくてはと思うようになった。
2010年05月02日
龍馬伝 第18回 海軍を作ろう
山内容堂には脱藩の許しをもらえなかった龍馬だが、確実に勝海舟の門下となって海軍を作ることに参加をしたようだが・・・ なんかうれしくてしょうがなく、おっちょこちょいに描かれているけど、これのいいのか悪いのか。
目下の所、龍馬のいる所は大阪。だから舞台は大阪で、通常日本史を学ぶときにはでてこないシチュエーション。この時代にここまで大阪が注目されていたのか。。 海軍を作る基盤が大阪だったといわれればそうなんだろうが。
今回は、武市半平太がとうとうというか、やっとというか前の土佐藩主山内容堂に面会する。しかし、ここで一括されてしまうのだが、容堂はやはり武一がきらいだからいたし彼方ない。これが先々、武市切腹につながるのだろう。
実際に武市は、容堂から切腹を命ぜられるのだが、この武市の死を容堂後になって悔やむという話しだ。しかし、このドラマに描かれている武市そのままならば、私はこの世から抹殺されてよかったのではないかと思う。私にはドラマの武市はあまりにも人間規模が小さく、見る目の幅が狭いとしか思えないから、明示以降に生きていたとすれば、世の中ひどく変ったように思う。このドラマではその辺りを、先々どう描くのだろうか?
ドラマの舞台が大阪、京都に来てしまっているので、土佐の話しがない。だから岩崎弥太郎の話しがない。ちいと偏り過ぎ。
武市の話しに戻ると、容堂から一括されて戻ると回りには誰もいなくなっている。はかられたようだ。実験は部下の平井に動いたような。これは、容堂の仕組んだことか、土佐勤王等の解決を仕組んだのだろうが、実際には土佐勤王等は、武市の死をもって壊滅となると思うのだが、少々早いなぁ。。
武市のは以下の糸切り人間。勝海舟の暗殺に出かけて、そこで龍馬に出会い、勝海舟の話を聞いて丸め込まれて。。 これで生き方が変わるのかな?
今回かは、何となく、私の頭の中で筋がバラバラになっている。理由が分らない。
さて、ここの何回か書いていることだけど、時代の変革期のカリスマ性リーダーの話し。
やっぱり今の日本は、カリスマ性のある人物が政界にも経済界にもいないと私は思う。居運昼のNHKの番組に大阪万博の当時の話しがあったが、その当時の経済界にはカリスマ性のある経営者が多かった。だからこそあの万博が成功したと思える。愛知万博はかなり規模が小さかったし、成功は大々的な成功とはいいがたいが、これにはやはり今の日本のカリスマ欠如があると思うのだ。
不況という最中のために、企業が守りに入ってしまった。カリスマ性のある経営手法はリスクが大きいから排除される方向にあるのだろう。
新聞におる戸、一昨日か、セイコーHDに政変があった。一時排除されていた操業家・服部家がまたトップに返り咲いた。セイコーグループはここ数年の間に服部色を排除する方向に阿多のだが、それによって経営が下降になったということなのか?
服部色の排除は、グループ内の勢力争いなのだが、この争いはいずれもっと大きくなりそうな気がしている。
松下がパナソニックになって、松下色をなくした。これも時代の流れかもしれないが、幸之助イズムが亡くなる戸、本当の松下の伝統が死ぬだろうし、私からみたらしんだといえるかもしれない。そして、経営に陰が・・・ 服部色もそうなのか?
創業時のカリスマ性は、それなりの理由と必要性があるのだが、それと生まれ変わって行くときの、整合性を誤るとその組織は潰れて行くのではないかと思っている。
目下の所、龍馬のいる所は大阪。だから舞台は大阪で、通常日本史を学ぶときにはでてこないシチュエーション。この時代にここまで大阪が注目されていたのか。。 海軍を作る基盤が大阪だったといわれればそうなんだろうが。
今回は、武市半平太がとうとうというか、やっとというか前の土佐藩主山内容堂に面会する。しかし、ここで一括されてしまうのだが、容堂はやはり武一がきらいだからいたし彼方ない。これが先々、武市切腹につながるのだろう。
実際に武市は、容堂から切腹を命ぜられるのだが、この武市の死を容堂後になって悔やむという話しだ。しかし、このドラマに描かれている武市そのままならば、私はこの世から抹殺されてよかったのではないかと思う。私にはドラマの武市はあまりにも人間規模が小さく、見る目の幅が狭いとしか思えないから、明示以降に生きていたとすれば、世の中ひどく変ったように思う。このドラマではその辺りを、先々どう描くのだろうか?
ドラマの舞台が大阪、京都に来てしまっているので、土佐の話しがない。だから岩崎弥太郎の話しがない。ちいと偏り過ぎ。
武市の話しに戻ると、容堂から一括されて戻ると回りには誰もいなくなっている。はかられたようだ。実験は部下の平井に動いたような。これは、容堂の仕組んだことか、土佐勤王等の解決を仕組んだのだろうが、実際には土佐勤王等は、武市の死をもって壊滅となると思うのだが、少々早いなぁ。。
武市のは以下の糸切り人間。勝海舟の暗殺に出かけて、そこで龍馬に出会い、勝海舟の話を聞いて丸め込まれて。。 これで生き方が変わるのかな?
今回かは、何となく、私の頭の中で筋がバラバラになっている。理由が分らない。
さて、ここの何回か書いていることだけど、時代の変革期のカリスマ性リーダーの話し。
やっぱり今の日本は、カリスマ性のある人物が政界にも経済界にもいないと私は思う。居運昼のNHKの番組に大阪万博の当時の話しがあったが、その当時の経済界にはカリスマ性のある経営者が多かった。だからこそあの万博が成功したと思える。愛知万博はかなり規模が小さかったし、成功は大々的な成功とはいいがたいが、これにはやはり今の日本のカリスマ欠如があると思うのだ。
不況という最中のために、企業が守りに入ってしまった。カリスマ性のある経営手法はリスクが大きいから排除される方向にあるのだろう。
新聞におる戸、一昨日か、セイコーHDに政変があった。一時排除されていた操業家・服部家がまたトップに返り咲いた。セイコーグループはここ数年の間に服部色を排除する方向に阿多のだが、それによって経営が下降になったということなのか?
服部色の排除は、グループ内の勢力争いなのだが、この争いはいずれもっと大きくなりそうな気がしている。
松下がパナソニックになって、松下色をなくした。これも時代の流れかもしれないが、幸之助イズムが亡くなる戸、本当の松下の伝統が死ぬだろうし、私からみたらしんだといえるかもしれない。そして、経営に陰が・・・ 服部色もそうなのか?
創業時のカリスマ性は、それなりの理由と必要性があるのだが、それと生まれ変わって行くときの、整合性を誤るとその組織は潰れて行くのではないかと思っている。
2010年05月02日
市内・結構車多いなぁ。。
今日はゴールデンウィークの中程。
孫が野球の試合にでているというので見に行った。4年生の野球は久々に見た。孫は途中交代して活躍の場がなくなった。他に容を持っていたので、そこで観戦は打ち切り。
車を実家には向けて走らせた。結構車多いんだよなぁ。連休中は市内は空いているかと思ったのだけど。ひょっとして平日はもっともっと多いのだろうか?最近走っていない所を走ったのでそう思っただけなのかもしれない。
それにしてもいい天気で。家の中でくずぶっているのがもったいない気がせんでもない。
用を済ませて帰って来て、また木彫りの続き。もうこれ以上の細かいことが無理かなぁ。。。
孫が野球の試合にでているというので見に行った。4年生の野球は久々に見た。孫は途中交代して活躍の場がなくなった。他に容を持っていたので、そこで観戦は打ち切り。
車を実家には向けて走らせた。結構車多いんだよなぁ。連休中は市内は空いているかと思ったのだけど。ひょっとして平日はもっともっと多いのだろうか?最近走っていない所を走ったのでそう思っただけなのかもしれない。
それにしてもいい天気で。家の中でくずぶっているのがもったいない気がせんでもない。
用を済ませて帰って来て、また木彫りの続き。もうこれ以上の細かいことが無理かなぁ。。。
2010年05月02日
名古屋を歩く 米野から太閤、名駅へ 3
広小路通りの延長は、「太閤通り」というのかな?ということだと昔々、祖父は私に嘘をついたことになるのかも。
わたった交差点は、笈瀬通りの一つ西らしい。(これをかきながら地図を眺めてわかった)
笈瀬通りの名前の由来は、昔この通りは川で、それが南に流れて行き、今の中川運河を突っ切っておいたらしい、そうした川があったので、前に紹介した中川区月島にある運河神社が名古屋城の石垣の石切り場ということもうなづけるかもしれない。
中川運河ができて、その笈瀬川は埋め立てられて道路になったと聞く。実家の近くの寺の住職も昔その寺の横を川が流れていたことを言っていた。(本人私より若いから先代もしくはその先代に聞いたことだろう)
このあたりも迷路だ。何せ東海道線の西は、昔は閑散としていたけど、その昔はとにかく畑や田んぼが広がっていたから、その畔道がそのまま道になったということなのかな?
小学校の南の公園にでくわした。この公園には石碑が建っている。出征兵士を送りだした記念のようだ。その送りだした兵士のどのくらいが帰還できたのだろう?私の肉親は、いまだに帰還していないのだが。。。。
小学校の横を北に上がっていく。「椿神社」に行きついた。この道を右に曲がれば寝小屋駅の太閤口に行きつく。
と、その前に、この椿神社に入り込んだ。
この辺りは、昔は闇市でごった返していたところではないかと思う。今でこそ名駅・太閤口という名前で知られているが、新幹線ができるまでは、「駅西」と言って結構こわがられた土地と記憶している。その中心に「椿神社」があったというあいまいな記憶。ご近所方申し訳ないけど、そういったことを私は昔は吹きこまれていたのです。
なんとなく昔はもっと大きく立派な神社だったと思っていたのだけど、今はだれも音連れる人もいないのか、荒れてるなぁ。。。。
ここでも、狛犬の写真を載せておきます。
さて、この椿神社の東の道が笈瀬通りのようだ。そちらに出ようと鳥居を見たら、なんとなんとまぁ今になってこんな言葉「皇紀」を見つけるとは。戦争のさなかのものらしい。
この日の歩きは、戦争で焼けなかったらしい地区のいろんなものを見た気がした。古い家並み、そして、お寺、神社、祠。焼けていたら残っていなかったかもしれない。
ただ、京都のような繁華街が焼けなかったのとは様子が違う。京都に言う町屋的な家がないのだ。
この地区の少し西には昔、遊郭があったところだ。遊郭は繁華街から離れたところが多い。つまり、今回の歩いたとこは、江戸期の繁華街ではなく・・・・・ といったところかなぁ?
郷土歴史家ではない私には、論評できるはずもなく。
つが気神社を後に、名駅に向かって歩き、名鉄のホテルを過ぎて、左に入ってカメラを物色して、そして地下に降りて、地下鉄に。
この日の歩きは終わった。1時間20分の歩きだった。
わたった交差点は、笈瀬通りの一つ西らしい。(これをかきながら地図を眺めてわかった)
笈瀬通りの名前の由来は、昔この通りは川で、それが南に流れて行き、今の中川運河を突っ切っておいたらしい、そうした川があったので、前に紹介した中川区月島にある運河神社が名古屋城の石垣の石切り場ということもうなづけるかもしれない。
中川運河ができて、その笈瀬川は埋め立てられて道路になったと聞く。実家の近くの寺の住職も昔その寺の横を川が流れていたことを言っていた。(本人私より若いから先代もしくはその先代に聞いたことだろう)
このあたりも迷路だ。何せ東海道線の西は、昔は閑散としていたけど、その昔はとにかく畑や田んぼが広がっていたから、その畔道がそのまま道になったということなのかな?
小学校の南の公園にでくわした。この公園には石碑が建っている。出征兵士を送りだした記念のようだ。その送りだした兵士のどのくらいが帰還できたのだろう?私の肉親は、いまだに帰還していないのだが。。。。
小学校の横を北に上がっていく。「椿神社」に行きついた。この道を右に曲がれば寝小屋駅の太閤口に行きつく。
と、その前に、この椿神社に入り込んだ。
この辺りは、昔は闇市でごった返していたところではないかと思う。今でこそ名駅・太閤口という名前で知られているが、新幹線ができるまでは、「駅西」と言って結構こわがられた土地と記憶している。その中心に「椿神社」があったというあいまいな記憶。ご近所方申し訳ないけど、そういったことを私は昔は吹きこまれていたのです。
なんとなく昔はもっと大きく立派な神社だったと思っていたのだけど、今はだれも音連れる人もいないのか、荒れてるなぁ。。。。
ここでも、狛犬の写真を載せておきます。
さて、この椿神社の東の道が笈瀬通りのようだ。そちらに出ようと鳥居を見たら、なんとなんとまぁ今になってこんな言葉「皇紀」を見つけるとは。戦争のさなかのものらしい。
この日の歩きは、戦争で焼けなかったらしい地区のいろんなものを見た気がした。古い家並み、そして、お寺、神社、祠。焼けていたら残っていなかったかもしれない。
ただ、京都のような繁華街が焼けなかったのとは様子が違う。京都に言う町屋的な家がないのだ。
この地区の少し西には昔、遊郭があったところだ。遊郭は繁華街から離れたところが多い。つまり、今回の歩いたとこは、江戸期の繁華街ではなく・・・・・ といったところかなぁ?
郷土歴史家ではない私には、論評できるはずもなく。
つが気神社を後に、名駅に向かって歩き、名鉄のホテルを過ぎて、左に入ってカメラを物色して、そして地下に降りて、地下鉄に。
この日の歩きは終わった。1時間20分の歩きだった。