2007年12月27日
京都の思い出 嵐山・天龍寺
これから、遠い過去の思い出を自分のために、少しでも記憶のあるうちに残しておこうと思って、記憶を辿りつつ書いていきます。何せ40年以上も前の話もあるので、、現在の京都とはかなり違うと思うし、私の記憶違いもあるかと思います。
もし、お気づきの点あれば、ご教授いただけると幸いです。
その1:天龍寺
ここ天龍寺を訪れたのは、2度あるのだが、一度は全く記憶に残っていない。理由はわからないが、とにかく大学でありながら「修学旅行」のあるところだったので、その1週間のうちのほんの短い時間だからかもしれない。
もう一度は、大学1年のときの正月2日、一人で大阪の親戚に予告もなく押しかけて、そこを根城に神戸、須磨と京都を歩き回った時に、行っている。
大学1年というと、もう45年も前になるのかな? とにかく、一人で京都に行った初めての事で、小学校の修学旅行と、中学、孝行での遠足(当時は、名古屋からバスではなくて、国鉄で教徒まで、そして京都の観光バスを使った)で2回か3回来ているらしいが、その記憶も遠すぎて書こうにもかけない。
親戚の家を朝出て、梅田から阪急で桂まで行き、桂から嵐山に行き、渡月橋を歩いて渡っている。その日はものすごく寒く(昔はさむいのがあたりまえ)雪がちらついた記憶がある。嵐山のどこに何があるのやらさっぱりわからず、歩いていった先の左側に大きな寺があったので入り込んだら天龍寺だったと行ったところ。
寺の中には何があったのかの記憶はない。ただ、本堂の北側だと思うが、何代かの天皇さんの陵があったと記憶している。今でもアルバムを開けば、その陵の写真があるはず。
最近、ここ10年くらい嵐山に行ったことがない、いったときも車で近くを走り回っただけで、天龍寺には入っていない。
TVなどでの中継を見ると、今の嵐山は観光客、それも修学旅行生相手の変なものがいっぱい出来て私の持つイメージとはかなり違うようだ。
天龍寺など(ダケではないが)は、私が行ったときは、正月でありながら人はほとんどいなかったように思う。
天龍寺を出てからの記憶が・・・・・・・
大覚寺に行ったことは記憶しているが、バスに乗ったのか、歩いたのか、ただただ大覚寺には池のほか何もなかったという記憶なのだ。(ドラマ「暴れん坊将軍」などで出てくるところらしいが、見た覚えは全くない)
京都は、観光地であることは確か。しかし、それでも昔は、現在のように京都駅でバスに乗れないなってことはなかったと思う。今は、みんなが行き過ぎる。もっと他に行こう・・・・・
もし、お気づきの点あれば、ご教授いただけると幸いです。
その1:天龍寺
ここ天龍寺を訪れたのは、2度あるのだが、一度は全く記憶に残っていない。理由はわからないが、とにかく大学でありながら「修学旅行」のあるところだったので、その1週間のうちのほんの短い時間だからかもしれない。
もう一度は、大学1年のときの正月2日、一人で大阪の親戚に予告もなく押しかけて、そこを根城に神戸、須磨と京都を歩き回った時に、行っている。
大学1年というと、もう45年も前になるのかな? とにかく、一人で京都に行った初めての事で、小学校の修学旅行と、中学、孝行での遠足(当時は、名古屋からバスではなくて、国鉄で教徒まで、そして京都の観光バスを使った)で2回か3回来ているらしいが、その記憶も遠すぎて書こうにもかけない。
親戚の家を朝出て、梅田から阪急で桂まで行き、桂から嵐山に行き、渡月橋を歩いて渡っている。その日はものすごく寒く(昔はさむいのがあたりまえ)雪がちらついた記憶がある。嵐山のどこに何があるのやらさっぱりわからず、歩いていった先の左側に大きな寺があったので入り込んだら天龍寺だったと行ったところ。
寺の中には何があったのかの記憶はない。ただ、本堂の北側だと思うが、何代かの天皇さんの陵があったと記憶している。今でもアルバムを開けば、その陵の写真があるはず。
最近、ここ10年くらい嵐山に行ったことがない、いったときも車で近くを走り回っただけで、天龍寺には入っていない。
TVなどでの中継を見ると、今の嵐山は観光客、それも修学旅行生相手の変なものがいっぱい出来て私の持つイメージとはかなり違うようだ。
天龍寺など(ダケではないが)は、私が行ったときは、正月でありながら人はほとんどいなかったように思う。
天龍寺を出てからの記憶が・・・・・・・
大覚寺に行ったことは記憶しているが、バスに乗ったのか、歩いたのか、ただただ大覚寺には池のほか何もなかったという記憶なのだ。(ドラマ「暴れん坊将軍」などで出てくるところらしいが、見た覚えは全くない)
京都は、観光地であることは確か。しかし、それでも昔は、現在のように京都駅でバスに乗れないなってことはなかったと思う。今は、みんなが行き過ぎる。もっと他に行こう・・・・・
2007年12月26日
京都への思い入れ 修学院の隣 赤山明神
実は、昨年ハンディPC Sony Clie を落としてしまった。
その中には、いくつか書きかけの旅行記が入っていたはず。今、見つかったとしても、電池切れで、メモリが消えてしまっているだろうから、旅行記はなくなってしまっているはず。
その中の一つに、『赤山明神』へ行ったときのものが含まれている。
「赤山明神」は、東山の来た、宮内庁管轄の『修学院離宮』の隣にある。ごく一般の方にはメジャーなところではないのだが、親鸞の話を知る人には、必ずといっていいほど出てくるところなのでご存知の方も多いことと思う。
奥の緑の木立の壁、右側は修学院離宮である。
この『赤山明神』と親鸞のかかわりは、親鸞が比叡山の修行僧であったときに、京に降りてきて帰るときに立ち寄ったとき、不思議な女性に出会い、「玉」をもらっている。そしてそれは、いずれ結婚したといわれる「玉日姫(九条兼実の娘といわれる)との出会いを暗示したものということになっている。
この話は、親鸞の『妻帯』という大きな問題に繋がることとして、有名な逸話である。
こうした下地があるので、昨年8月の非常に暑い日に行ってきた。
この明神は、きらら坂(雲母坂)を少し入ったところにある。五条からバスを乗り継いでいったのだが、降り立ったところは白川通りの『修学院』で、きらら坂を経由して明神までは、日陰がなく本当に汗びっしょりでたどり着いた。
きらら坂から明神の鳥居を望む
しかし、明神の中に入り込むとそこは鬱蒼とした木立の中、涼しかったと記憶している。
**ここで、名古屋語出身の女性にお会いした。京都に嫁ぎ、生活されているとのこと。そして、赤山明神のお札などを売る係りをされていた。***
明神とは言うものの、神様というよりも仏教の関係の修行道場ということであったということだが・・
親鸞がこの地で不思議な女性とであったのは、多分夜ではないか?私は、真昼間だものなぁ。。 あの名古屋出身の女性のような・・・ 茂、夜ならば、わかる気もせんでもないが。何か、得ることがあるかと思ったが、その日は結局何も感じることもなく、魔よけのお札を買って帰ってきた。
もう一度、暑くもなく。寒くもない季節に訪れてみたいと思っている。
**
御所、赤山明神、比叡山 この線は京都の鬼門の方角ということだそうです。
**
その中には、いくつか書きかけの旅行記が入っていたはず。今、見つかったとしても、電池切れで、メモリが消えてしまっているだろうから、旅行記はなくなってしまっているはず。
その中の一つに、『赤山明神』へ行ったときのものが含まれている。
「赤山明神」は、東山の来た、宮内庁管轄の『修学院離宮』の隣にある。ごく一般の方にはメジャーなところではないのだが、親鸞の話を知る人には、必ずといっていいほど出てくるところなのでご存知の方も多いことと思う。
奥の緑の木立の壁、右側は修学院離宮である。
この『赤山明神』と親鸞のかかわりは、親鸞が比叡山の修行僧であったときに、京に降りてきて帰るときに立ち寄ったとき、不思議な女性に出会い、「玉」をもらっている。そしてそれは、いずれ結婚したといわれる「玉日姫(九条兼実の娘といわれる)との出会いを暗示したものということになっている。
この話は、親鸞の『妻帯』という大きな問題に繋がることとして、有名な逸話である。
こうした下地があるので、昨年8月の非常に暑い日に行ってきた。
この明神は、きらら坂(雲母坂)を少し入ったところにある。五条からバスを乗り継いでいったのだが、降り立ったところは白川通りの『修学院』で、きらら坂を経由して明神までは、日陰がなく本当に汗びっしょりでたどり着いた。
きらら坂から明神の鳥居を望む
しかし、明神の中に入り込むとそこは鬱蒼とした木立の中、涼しかったと記憶している。
**ここで、名古屋語出身の女性にお会いした。京都に嫁ぎ、生活されているとのこと。そして、赤山明神のお札などを売る係りをされていた。***
明神とは言うものの、神様というよりも仏教の関係の修行道場ということであったということだが・・
親鸞がこの地で不思議な女性とであったのは、多分夜ではないか?私は、真昼間だものなぁ。。 あの名古屋出身の女性のような・・・ 茂、夜ならば、わかる気もせんでもないが。何か、得ることがあるかと思ったが、その日は結局何も感じることもなく、魔よけのお札を買って帰ってきた。
もう一度、暑くもなく。寒くもない季節に訪れてみたいと思っている。
**
御所、赤山明神、比叡山 この線は京都の鬼門の方角ということだそうです。
**
2007年12月25日
京都への思い入れ 北大路
京都への思い入れは、前回書いた「親鸞研究」の他にもう一つあります。
若いころ そう、大学を卒業して就職したのが大阪。
名古屋生まれで育ちも名古屋。東京で5年過ごして、身についている文化は、名古屋と東京の下町。
大阪の河内に住み着いたものの、文化の違いには戸惑いも多く、勤めの人間関係もいろいろストレスになって、時折京都の、人があまり来ないお庵でボォ~~としていたことが何度となくある。
そのボォ~~としていた寺がわからなくなってしまった。いや、寺そのものはわかっている。その寺の中の一つの庵なのだが、それがわからない。もう40年にもなるので、庵の中にいた僧職の方々もほとんど変わってしまったので、訪ね歩いてもわからなういという返事ばかりだ。
3回ほど寺に通い、たずねることが出来る庵は全部訪ねたのだが、拝観拒否の庵まではやはり遠慮してしまう。ひょっとしたらその拝観拒否の庵の中の一つなのかもしれないのだが。
今でも、情景は頭の中になるのだが。その情景に会うところが見つからない。
40年という年月の流れが、庵の立替もあったという。
そういったことから、私の思い出の場所が、いまだに見つかっていない。機会があるごとにたずねて、何とか見つけたいとは思うのだが。
寺は、大徳寺。おそらく『大仙院』という庭園で有名な寺としてご存知の方も多いと思います。
この寺の中にあった小さい庵で、いくたびにお話したのが、黒い袈裟を召された尼さんだったのです。大徳寺で尼さんという記憶を持つ人に出会っていないのです。
その庵の入り口には、与謝野晶子の詩を書いたものがありました。
手がかりは、これだけです。
藁をもつかみたい心内です。
若いころ そう、大学を卒業して就職したのが大阪。
名古屋生まれで育ちも名古屋。東京で5年過ごして、身についている文化は、名古屋と東京の下町。
大阪の河内に住み着いたものの、文化の違いには戸惑いも多く、勤めの人間関係もいろいろストレスになって、時折京都の、人があまり来ないお庵でボォ~~としていたことが何度となくある。
そのボォ~~としていた寺がわからなくなってしまった。いや、寺そのものはわかっている。その寺の中の一つの庵なのだが、それがわからない。もう40年にもなるので、庵の中にいた僧職の方々もほとんど変わってしまったので、訪ね歩いてもわからなういという返事ばかりだ。
3回ほど寺に通い、たずねることが出来る庵は全部訪ねたのだが、拝観拒否の庵まではやはり遠慮してしまう。ひょっとしたらその拝観拒否の庵の中の一つなのかもしれないのだが。
今でも、情景は頭の中になるのだが。その情景に会うところが見つからない。
40年という年月の流れが、庵の立替もあったという。
そういったことから、私の思い出の場所が、いまだに見つかっていない。機会があるごとにたずねて、何とか見つけたいとは思うのだが。
寺は、大徳寺。おそらく『大仙院』という庭園で有名な寺としてご存知の方も多いと思います。
この寺の中にあった小さい庵で、いくたびにお話したのが、黒い袈裟を召された尼さんだったのです。大徳寺で尼さんという記憶を持つ人に出会っていないのです。
その庵の入り口には、与謝野晶子の詩を書いたものがありました。
手がかりは、これだけです。
藁をもつかみたい心内です。
2007年12月24日
京都への思い入れ 三条
毎年、数回訪れているにもかかわらず、今年は京都を訪れたのは2度だけだった。
一度は、3月に孫と一緒に 日野の法界寺に行った。
(この寺、NHKの『仏像』にも紹介されていた国宝の阿弥陀如来がある。)
その後は、ばたばたとしていて、10月の大阪での仕事の際に前日に歩いただけだった。
私が、京都に行くのは、それなりに思い入れがあるからだ。
ちょっとした縁があって『親鸞研究』に足を踏み込んだことが原因。もう10年くらいになるが、日野の法界寺に行くのも、その延長でもある。行くたびに、いろいろなものを見、いろんなところを歩くのだが、特に三条通りは河原町から堀川までを何度となく歩いている。
三条通りというのは、どうも昔から人通りの多い通りだったと思われる。今の京都の条の通りは平安京の条通りとはかなり違っていると聞くが、三条通りは平安京のときのままの位置でもあるという。
実は、親鸞が入滅したところが、いろんな説があり、その中の一つに「三条富小路」という地名がある。この地には、親鸞の弟の庵があったところで、その場所で親鸞は息を引き取ったといわれている。
この地名の『富小路』を捜し求めていたのだが、なかなか私のイメージする場所にたどり着くことが出来なかった。
今年の10月のときにも、三条通りを東洞院通りから河原町まで歩いているが、もう私のイメージするところは判別が出来ないのだろうとあきらめかけている。写真は、現在の三条富小路の交差点北西角にあるビルだ。
あきらめかけていたのだが、先日ネットでいろいろ京都の通りの名の由来を探していたら、「富小路」は昔と今では1本ずれているというのを見つけた。昔は、一本東、現在の『麩屋町通り』であったということなのだ。地図をじっくり見てみると交差点の北東に寺もある。この辺りに寺が残るのは少ない、その一つだ。
来年は、この辺りをもう一度、じっくりと歩いてみよう、と思ったものだ。
一度は、3月に孫と一緒に 日野の法界寺に行った。
(この寺、NHKの『仏像』にも紹介されていた国宝の阿弥陀如来がある。)
その後は、ばたばたとしていて、10月の大阪での仕事の際に前日に歩いただけだった。
私が、京都に行くのは、それなりに思い入れがあるからだ。
ちょっとした縁があって『親鸞研究』に足を踏み込んだことが原因。もう10年くらいになるが、日野の法界寺に行くのも、その延長でもある。行くたびに、いろいろなものを見、いろんなところを歩くのだが、特に三条通りは河原町から堀川までを何度となく歩いている。
三条通りというのは、どうも昔から人通りの多い通りだったと思われる。今の京都の条の通りは平安京の条通りとはかなり違っていると聞くが、三条通りは平安京のときのままの位置でもあるという。
実は、親鸞が入滅したところが、いろんな説があり、その中の一つに「三条富小路」という地名がある。この地には、親鸞の弟の庵があったところで、その場所で親鸞は息を引き取ったといわれている。
この地名の『富小路』を捜し求めていたのだが、なかなか私のイメージする場所にたどり着くことが出来なかった。
今年の10月のときにも、三条通りを東洞院通りから河原町まで歩いているが、もう私のイメージするところは判別が出来ないのだろうとあきらめかけている。写真は、現在の三条富小路の交差点北西角にあるビルだ。
あきらめかけていたのだが、先日ネットでいろいろ京都の通りの名の由来を探していたら、「富小路」は昔と今では1本ずれているというのを見つけた。昔は、一本東、現在の『麩屋町通り』であったということなのだ。地図をじっくり見てみると交差点の北東に寺もある。この辺りに寺が残るのは少ない、その一つだ。
来年は、この辺りをもう一度、じっくりと歩いてみよう、と思ったものだ。
2007年12月20日
京都 本能寺の近辺、雑考
この記事は、フォトラバのテストのために書いているものです。
いい加減な話も多々あるので、ご了承ください。
本能寺は、今現在存在する寺町御池にある『本能寺』と、信長が死んだとされるいわゆる「敵は本能寺にあり」の『本能寺』は全く場所が異なる。
京都現在の地図を見ると、「元本能寺町」という場所がある。南は堀川高校のグランドの北、蛸薬師通りから北は三条通りまでの間が、これに当たるらしい。ということは、かなり大きな寺であったと思われる。
現在の寺町への移転は、おそらく豊臣秀吉の京都再開発、都市計画、区画整理の賜物、寺町に多くの寺を集めたときに行われたものと思われる。
**「寺町」という考え方は、その後の城下町を作るときのベースになっているように思われる。多くの城下町に寺町があるが、逆に寺町のあるところは新しい城下町ともいえるかもしれない。
『元本能寺』の町は、堀川高校の東に『本能寺小学校』(中学校だったかな?)という名前の学校があったが、数年前に消滅した。京都の小中学校は、特に中京区の場合、生徒数の減少に伴って統廃合が行われている。
この小学校の角に「本能寺後」の石柱があった。
堀川高校の東となりには『空也堂』もあるが、筆者は中に入ったことはないので、何があるか不明。
**蛸薬師通りは、堀川通でいうと、堀川高校とその北にある交番の間の道。堀川高校の南には、錦小路がある。
**秀吉の区画整理は、かなり大掛かりなもので、京都を聚楽第を城とした城郭に仕上げたようで、『土居』もあちこちに存在する。
**秀吉の区画整理のお蔭で、平安京の最初の条と名のつく通りの多くが位置が変わっている。
本来の五条通りなどは、現在の松原通りにあったという。
三条通りは、数少ない昔のままの通りの一つとのことである。
いい加減な話も多々あるので、ご了承ください。
本能寺は、今現在存在する寺町御池にある『本能寺』と、信長が死んだとされるいわゆる「敵は本能寺にあり」の『本能寺』は全く場所が異なる。
京都現在の地図を見ると、「元本能寺町」という場所がある。南は堀川高校のグランドの北、蛸薬師通りから北は三条通りまでの間が、これに当たるらしい。ということは、かなり大きな寺であったと思われる。
現在の寺町への移転は、おそらく豊臣秀吉の京都再開発、都市計画、区画整理の賜物、寺町に多くの寺を集めたときに行われたものと思われる。
**「寺町」という考え方は、その後の城下町を作るときのベースになっているように思われる。多くの城下町に寺町があるが、逆に寺町のあるところは新しい城下町ともいえるかもしれない。
『元本能寺』の町は、堀川高校の東に『本能寺小学校』(中学校だったかな?)という名前の学校があったが、数年前に消滅した。京都の小中学校は、特に中京区の場合、生徒数の減少に伴って統廃合が行われている。
この小学校の角に「本能寺後」の石柱があった。
堀川高校の東となりには『空也堂』もあるが、筆者は中に入ったことはないので、何があるか不明。
**蛸薬師通りは、堀川通でいうと、堀川高校とその北にある交番の間の道。堀川高校の南には、錦小路がある。
**秀吉の区画整理は、かなり大掛かりなもので、京都を聚楽第を城とした城郭に仕上げたようで、『土居』もあちこちに存在する。
**秀吉の区画整理のお蔭で、平安京の最初の条と名のつく通りの多くが位置が変わっている。
本来の五条通りなどは、現在の松原通りにあったという。
三条通りは、数少ない昔のままの通りの一つとのことである。
2007年11月17日
京都の紅葉 勧修寺3
勧修寺
2004年11月 撮影
色づきの悪い年でしたが、
逆に、緑とのコントラストは、
いつもの年とは違った趣もあります。
紅葉の季節は、何も
紅や黄色だけということでなく
コントラストをも楽しむ目を持ちたい。
2007年11月16日
京都の紅葉 詩仙堂2
詩仙堂
2002年撮影
詩仙堂の下、一乗下り松は、宮本武蔵の決闘の場所の一つとして有名ですが、本来その場所は「きらら坂」のにあり、比叡山への登っていく道の入り口(ではないが)ともいえることろ。
ちなみに「きらら」とは、この辺りで取れたといわれる「雲母」を意味しているとか。
「下り松のバス停から詩仙堂に向かう一つ来たの交差点に「キララ漬け」を商っていたと記憶。
関連HP:http://homepage2.nifty.com/cub/niwa/sisendo.htm
足: 市バス 一乗下り松町 (一日乗車券適用外別途100円必要)
雲母坂(きららざか)を歩き、途中で分かれて山手に上ります。
近くに 紅葉で有名な金福寺、宮元ゆかりの八大神社があります。
来たには、以前紹介した園光寺、蔓殊院があります。
2007年11月15日
京都の紅葉 南禅寺
南禅寺
山門と本堂の間で2004に撮影
説明の必要のない
紅葉だけではnく
京都の観光スポット
初めて訪れたのは
大学の1年の正月
もう40数年前の話。
その当時は正月といえ
そんなに人は多くなかった。
今は、
人を見に行くようなもの
になってしまった。
公式HP : http://nanzenji.com/ 地図はこちら
足 : 市バス 南禅寺・栄観堂道 下車
地下鉄 蹴上 下車
シーズン中の市バスは、乗れない と覚悟が必要。
地下鉄がいいのではないかと思います。
JR京都駅から烏丸御池乗り換え東西線で蹴上
JR山科から東西線で 蹴上
**バス地下鉄 一日乗車券 1200円
コースとしては、
地下鉄で蹴上へいき、歩いて
南禅寺、永観堂、若王子神社から
疎水(哲学の道)に沿って北上し 法然院、銀閣までがお勧め。
この逆も同様にお勧め。
ただし、週末、祝祭日は人を見て歩くことになる覚悟が必要。
2007年11月14日
長野県から発信 信州の紅葉はすばらしい
つい30分前に 長野県上田のホテルに到着
なんと14時間
最初の2時間は真っ暗
次の1時間は霧
その後は すばらしい紅葉を見てきました。
食事の後で、カメラからPCの画像を移して
いいものがあったら アップします。
期待しないでください。
なんと14時間
最初の2時間は真っ暗
次の1時間は霧
その後は すばらしい紅葉を見てきました。
食事の後で、カメラからPCの画像を移して
いいものがあったら アップします。
期待しないでください。
2007年11月14日
2007年11月13日
京都の紅葉 場所は明かさず
場所はあえて書きません。
この寺は、出来たら静かにしておきたい。
観光寺になってほしくない。
そんな私の思いです。
こんなきれいな写真を撮らせてくれました。
感謝 (「お蔭様」ということがぴったりかもしれません)
**マップのトラバの位置は「京都」を示しただけです。**
2007年11月12日
京都の紅葉 東福寺
東福寺
2004年撮影
京都の紅葉では
説明の必要のないくらい有名な寺
観光ポスターにもたくさん使われています。
私の訪れた年は色付きが悪くいいものは取れませんでした。
しかし、人人人で、下の写真のごとく押すな押すなでした。
お出かけの際には覚悟が必要です。
足:JR/京阪 東福寺 から徒歩
公式HP:http://www.tofukuji.jp/index2.html
2007年11月11日
京都の紅葉 日野・誕生院
山科区 日野 誕生院
2005年撮影
ここは、西本願寺の管理される 親鸞誕生の地といわれるところに建てられている「誕生院」で、春は桜、秋は紅葉で目を楽しませてくれます。
ただ、観光寺ではなく、しかも交通の便に問題があるのでシーズンでも訪れる人はまばらです。
足: JR/京阪 六地蔵から 京阪バス 誕生院 行き終点
京都市営地下鉄 石田 で京阪バス 誕生院行き に乗り換え
醍醐に行かれたついでに寄られるときは、
三宝院前から京阪バス六地蔵行きで 石田大山 で下車
誕生院行き 京阪バスに乗り換え(バス停の場所が違うので注意)
**石田大山から徒歩 15分~20分**
2007年11月10日
京都の紅葉 勧修寺
勧修寺
2004年11月撮影
この勧修寺は、交通の便の問題か、あまり話題になることのない寺のように思えます。行って見て、他の寺とは違った趣のある紅葉でした。
これだけの色の織り成すものは、過去私が訪れた中では最高のところでした。
足: 京都市営 地下鉄 小野 下車 徒歩・ちょっとありました
参考HP:http://homepage2.nifty.com/cub/niwa/kansyuji.htm
2007年11月09日
京都の紅葉 詩仙堂1
詩仙堂
庭園として有名なところです。
夏に訪れても、
その緑のきれいさに感動する
ところではないかと思います。
私が、初めてここを訪れたのは
大学3年の夏。もう42年も前です。
紅葉もきれいで、
方丈から見る庭園の南側に
柿、もみじなど紅くなる木がたくさんあります。
紅葉のシーズンは、入り口で行列が出来、
はいるのも大変かもしれません。
関連HP:http://homepage2.nifty.com/cub/niwa/sisendo.htm
足: 市バス 一乗下り松町 (一日乗車券適用外別途100円必要)
雲母坂(きららざか)を歩き、途中で分かれて山手に上ります。
近くに 紅葉で有名な金福寺、宮元ゆかりの八大神社があります。
来たには、以前紹介した園光寺、蔓殊院があります。