2009年07月02日

五木寛之 親鸞 やはり名前が善信に・・

 五木寛之氏の小説・親鸞

 7月2日分で 「新しい名前をいただき・・」という記述になった。やはり予想とおりに「善信」を「綽空」後の名前にするのだろう。

 どうも新宗教団の中にも、五木氏の親鸞像には疑問もあるようだ。確かに公文書には姿を見せない親鸞なので、書きたいように書けばいいのだが、これまで言われてきた逸話を完全に無視している部分も多くあるし、どこにも書かれていない幼名を用いるなど、困ったものだということだ。

 特に、奥さんとしての「玉日」というキーワードが全く出てこないのは、一番の問題。それに加えて九条兼実も一度も顔を出していないように思う。法然門下に名を連ねているのだから、法然の絶対的な支持者である兼実が登場しないのも何となく釈然としない。
 特に、妻帯に際しては兼実が絡んでいるのではないかと取りざたされているのだが、そういったことは無関係なようだ。何となく五木氏は権力から親鸞を遠ざけようとしているのではないかとすら思える。

 生まれが貧乏貴族。とはいえ、ストーリーのように子供の頃日野にいたら、それら貧乏貴族だったかどうか。あの日野の法界寺は信長の焼き討ちに会うまではそれなりの規模があったと聞いている。


 歴史上の人物を書くときの、時代考証などの難しさがあるだろうが、チョットなぁ。。。。。
 現実にゆかりの地を歩くといろんな事に気づくと思うけど。もっtもそのゆかりの地を記述している書物を無視すると違った解釈にはなるけどねぇ。  

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2009年06月27日

五木寛之 親鸞 綽空から善信へ

 五木寛之氏の小説「親鸞」。やっと「選択集」の書写の許可が出た。

 それにしても何でこんなややこしい筋にせんといかんの?
 預けたときは「見る、読むべからず」で、まるで親鸞を試すかのごとく。門外不出を親鸞に預けたことがばれるような筋だし。いったい何を狙っているのか理解に苦しんでいる。

 ここの新しいサブタイトルは「綽空から善信へ」なのだが。これは多分私の思いとは真っ向から違うことになると思う。
 タイトルから想像できることは、「綽空」という名前が「善信」に変わると言うことを意味していると思われる。一般に「善信」とは親鸞の一時期の名前をとらえられている。多分にその線に沿った筋になるかと思うのだが、
 実は私は、「善信」は名前=僧名と考えていないのだ。僧名ではなか卯、「房名」と考えている。その理由は、多くの僧が、○○房○○ (たとえば、法然房源空) と房名と僧名がある。法然の場合には源空という僧名よりも法然という房名が有名である。
 親鸞の場合には、いろいろ読みあさった書籍の中には、房名が存在していないのだ。「範宴」という幼名、叡山を降りてからの「綽空」、そして流罪になってからの「親鸞」と名乗っているのだが、この中に「善信」も含まれいている雰囲気にある。
 しかし私は、綽空の僧名の上に「善信房」がついていたのではないかと思っているのだ。法然門下の多くの僧が房名と僧名を持っているからには、親鸞であってもそのように房名僧名を持っていても不思議ではないし、あることの方が自然な気がしているからなのだが。

 「善信」という言葉は、親鸞の三夢記の中に記載されている言葉。私は、その記載されたものの意味から僧名の上に自分の房名として、ひょっとしたら「綽空」の名をもらったときに同時に法然から与えられているかもしれないと。。。。
 そんな夢が私の見ているものなのかもしれない。  

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2009年06月23日

五木寛之 親鸞 つぶての弥七


 黒面法師や遵西に捕まった親鸞と恵信姉妹の三人。目を潰されそうになっていたところに救いの神現れる。小さい頃から親鸞の守り神みたいな集団。「つぶての弥七」、まるでテレビの「水戸黄門」の「風車の弥七」である。どこからとなく黄門様を守護している。多分にTVドラマを意識しているとしか思えないぞ、五木さん。

 今日6月23日では、3人は弥七のおかげで助けられ、呪縛から解き放たれたのだが。。。いかがなものでしょうねぇ。。。
 黒面法師側の打ち出す矢で弥七の手下が数人倒されたようだが、彼らはどうなった?そんなことお構いなしに、「悪人でも往生する」と・・・・

 チョット意味が違うんだけどねぇ。悪人往生は。


 そういえば、昔この近辺(名古屋の近くかな)では、困ると「オウジョウこくわ」という言葉が発せられた。ここで言う「オウジョウ」とは何だったのだろう。
 「往生」とは、「行って生まれる」、もしくは「行って生きる」なのだろうが、いわゆる向こうの世界に行くこと=死を意味する。「オウジョウ」が「往生」なら、「死ぬほど困る」と言うことなのだろうか?
 今は死語化しているらしく、もう聞いたことはないし、知っている人がどれだけいるのかとすら思う。

 死んでいく言葉、言葉は生きているから死もあると言うことか?
  

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2009年06月18日

五木寛之 親鸞 捕まる

 五木寛之氏の小説『親鸞』
 承元の法難を前にして、恵信の妹を助けるべく恵信がみをなげ出して、そこへ綽空(親鸞)がやってきて3人が縛られてしまった。それをしたのが綽空の先輩になる遵西等々、黒面法師と言われる後白河法皇ゆかりとかいう(小説のストーリーの中)輩が絡んでのことだ。
 でもなぁ、承元の法難の原因とされているのが、この遵西の所行。といっても小説に書かれているものではなく、多分後に出てくるのかもしれないけど、後鳥羽上皇の女官、鈴虫、松虫のお泊まり外出が遵西と・・・という事というのが一般的に書かれていることの一つ。なので、この小説のストーリーのようなことをやっていては、変な噂も広がるだろうし、それに多くの人間を相手にしているから、こんな細かいことしている暇ないだろうに・・・ それに、このストーリーのような人物なら、法然門下にいられたのかという疑問もある。門下の高僧としての不埒な所行は、門下にいられたとしたら、法然の監督不行届と言うことになるのだが。
 小説のストーリーでは、綽空が持っている法然上人の「選択集」を差し出せといっている。ん???遵西って、『選択集』の執筆に関わった一人ではないのか?わざわざ綽空から取り上げる必要もないだろうに。

 いくら小説とはいえ、このあたりは矛盾というか何かいやなものを感じる。確かに、昔々のことであり、何が本当のことかも分からない、しかも公文書に顔を出さない親鸞の人仏像だから、何を書いてもいいようなものだが、史実に名の残る人間を描くときは、少しはそれに沿ってほしいと思う。


 前にも書いたが、恵信は京都の三善家の奉公人になっているが、多く言われていることは『越後の三善ため乗りの娘』である。これは正式に証明刷るものはないが、後々の恵信の晩年の姿を見ると単なる奉公人とは思えないのだ。
 それにしても、妹の鹿野はいったいどんな立場で京に来たのだろう。まだ二十歳前後と思われるが、彼女は自由奔放に生きていけた境遇にあったのだろうか?  

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2009年06月10日

五木寛之 親鸞 選択本願念仏集

 五木寛之氏の小説・親鸞。
 
 法然上人から託された選択本願念仏集(通称・選択集)。それを狙うやからが出てきた。
 それにしても、見ること読むことアタワズで、上人は何を狙ったということにするのか?不気味だなぁ。いずれ書写を許可してもらわないと歴史上の事実とあわなくなるので、どのタイミングで書写が許可されるのか楽しみに待つことにする。 でもなぁ。。。。。

 と、ここで、予想通りに奥さん恵信の妹『鹿野』の名前が出てきた。しかも、とんでもない境遇におかれていることになっている。何のためにこんなストーリーにしたのだろう?しかも、親鸞が彼女を捨てたことになっている。どうして?
 親鸞も恵信も探したという話はストーリーにはない。しかし、どうも都にいるようなので、うわさくらいは流れてきてもよさそうだし、親鸞の取り巻きには裏の世界の人間もいるのだから、そうしたところからの話も出てこないとは、なんとなく矛盾を感じて呼んでいる。

 このストーリーが多くの地方新聞に連載されているようなので、大手を振って歩くことになると、これまた困ることになると思うけど。まぁ、小説の段階はいいとしても、絶対にこれをドラマ化しないで欲しいと思っている。

 そういえば、子供はまだできていないのかな?もうできていてもいい頃だけど。(読み落としたかな?)
 
 それにしても、親鸞の精神的な葛藤などの動きが書き込まれていないのが気になる。なんとなく、周りのざわつきを脚色しているだけのように思えて。
 確かに、もうじき承元の法難に行き着くわけだけど、それまでには選択集の書写を許されて、その書写に対して法然が署名をすることになるけど。なんとなく時間経過に無理が出てきそうな感じがしないでもないが、そこは小説うまくまとめるのでしょうが・・・・・

 どうも、ストーリー好きになれない。いくら一つの見方とはいえ。  

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2009年06月04日

五木寛之・親鸞 七箇条誓文

 五木寛之氏の小説『親鸞』
 ストーリーは、法然が書いたとされる『七箇条誓文』に入っている。しかし、この誓文を書かねばいけなくなった経緯が、どうもはっきりとせず。これから出てくるのか。実は出ているようにもとれるのだが、何となく噂の段階のような気がしている。
 この誓文には親鸞は『綽空』のなで署名をしている。ということは、親鸞にしてみれば噂の段階ではないと思うのだが。それに一番の問題は、比叡山からの抗議文がまだ書かれていない。この抗議文に対して法然が回答する訳なので。。。
 
 しかし、先週あたりは、よからぬ連中の謀議が書かれていたが、その謀議の延長で誓文になったようになると疑問だよなぁ。。なんて思ったりもする。

 それと、ここのところ法然の著書『選択本願念仏集』が話題になるが、この書物は門外不出であるはず、ちまたで噂になっているのであれば、門が不出の意味がない。それが不逞の輩の話題に上るとなると、どこかで漏れてしまっていることになる。という前提に立つと、もっともっと奈良やら比叡山(これらを南都北嶺)から猛抗議を受けていいはずなのだ。
 何となくこのあたりのちぐはぐさが気になる。
 『選択本願念仏集』に関しては、いずれ明恵の批判受けることになるので、どこかで漏れていたことは確かだが、ではいったい誰が漏らしたのか?本来は、法然の信頼厚い弟子だけが見る、読むことができた書物である。まさか、書くことを望んだ九条兼実や、親鸞が漏らしたのでは?なんてねぇ。。
 そんなストーリーにはしないでよ。

 しかし、小説とはいえ、不逞の輩の動きは、どっからの発想?いずれ斬首刑に処せられる先輩がその仲間に加わっているわけだが。。。。しかし、それが原因で斬首になったわけではあるまい。

 この先には、もうほんの少しで『承元の法難』が待っている。
 
 何となく、そこに行方不明になっている恵信(親鸞の奥さん)の妹が出てきはしないかと。
  

Posted by 生田 at 17:01Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2009年05月31日

駄作?

 私は、かなりたくさんのサスペンスの本を読んでいる。一般的な小説もたまには読むが、なんと言ってもサスペンスの数が圧倒的に多い。
 小学生の時にシャーロックホームズを読んでいるのが最初。たしか5年生くらいだった。ただ、シャーロックホームズは好きではない。理由は、謎解きがあまりにも飛躍する。論理的と言われている割には非論理的な感じがしていたから。
 中学生の時に、「オペラ座の怪人」の作者、ガストン・ルルーの「黄色い部屋の謎」に出会った。イギリスの次がフランスだ。これで謎解きのおもしろさにはまり込んで、中学の3年くらいかな、エラーリー・クインの虜になった。これで、アメリカに渡ったことになるのだが。
 それ以来、いろんな外国の推理小説(当時はまだ探偵小説と呼んでいた)を読みあさった。そして高校1年の時に松本清張の「点と線」が発表された。しかし、清張は読むものの、ほかの作家のものはあまり読んでいない。

 外国のものでも、正直イギリスのものは好きではない。理由は、日本の横溝正史のものと同じようにどろどろ、じめじめで気持ちが悪いから。その点、エラリーは結構からっと読んでいた。
 これが大学を卒業するまで、いや卒業してからもかなり続いた。月刊誌だったか「エラリークインマガジン」もほとんど欠かさず読んでいたっけなぁ。
 結婚してからは、出張で全国を旅することになったので、これまた列車の中で読むためにいろいろ。。。しかし、勤め先を変わり名古屋に移り住んで、子供が生まれてからは、そんな時間もなくなったかのように・・・ エラリーからも遠ざかった。マガジンが廃刊になったこともあるかな。

 子供が大きくなって、私の仕事も変わり、東京と名古屋を往復する機会が多くなって、新幹線の中で読める本と言うことで、駅で売っているサスペンスに手を出した。そこで出会ったのが、内田康夫、斉藤栄、西村京太郎、島田荘司、夏樹静子、山村美紗。
 新幹線の中で読むには手頃なものが多いが、島田荘司、夏樹静子はそうはいかないものが。

 この中で、読むということに残っていったのは数人で、ある作家に関しては家の中に60冊以上くらいあるのではないかと思う。
 先日この作家のかなり最近の作品を読んだ。つまんないものだなぁ。。。かなり売れっ子なのだが、時折駄作がある。新聞の連載の時もそうだったが、なにやらけったいな終わり方をしていた。先日読んだものも、謎解きとしてのおもしろみもなかったし。。。。。

 有名な作家の作品が、いつもいつもすばらしいとは限らない。もっとも、その作品が読者との相性が悪いと言うこともあるのだろうが、一概にそうともいえないだろう。特にサスペンスとなると、プロットの構成で単純に先が読めてしまったり、解決に無理がありすぎたり、そういった問題があるかだろう。
 同じ作家のものをたくさん読んでいると、癖を読むようになって結論がわかってしまうことも多いもの。それを作家側が避けるために奇をてらって、とんでもないプロットにすると無理なものになる可能性も多い。

 有名な作家。作家だけではなく、音楽の世界でもそうだと思うが、一つヒットした後のものが必ずしもすばらしいものとは限らない。長く続いてい作家にはそれなりのものはあるとは思うものの、いつもすばらしいものとは限らない。

 しかし、ヒットを続けるということは、作家によって大変なことであろうが、今の時代は多くがマスコミがそれを作っている面もある。特に映画やポピューラーソングにはTVでの宣伝の力が大きい。これは本当の作品の力とはいえないだろう。
 新聞の連載小説、最近大きく話題になるものがない。一時、日本経済新聞で「化身」や「失楽園」なんていうのが話題になったが、それ以降大きく話題になるものを耳にしていないなぁ。
 
 今中日新聞などで連載中の「五木寛之・親鸞」はどのくらいの話題なのだろう? あまり他のマスコミで取りざたされていないようにも思うのだが。
 親鸞750大遠忌に向けての話題作りだろうが、ストーリーがなぁ。。。。。。  

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2009年05月10日

五木寛之・親鸞 妻をめとって

 長いこと五木親鸞のことを書かなかった。どうしたものかとの思いとどう展開するのかを見ていたのだが。
 この間に親鸞は、恵信と再開して、結ばれてしまった。そこには法然も九条兼実も介在していない。つまり、多くいわれていることと違った展開をしていることになる。そして、前にも書いたが、九条兼実ゆかりの「玉日」の登場はとうとうない。それに、赤山明神の不思議な女の登場もない。
 玉日に何することは、どうしても「正明伝」という書物が前提となることになるらしいので、五木氏はそれを完全に無視する形になっている。

 小説だから、それでいいのだろう。しかし、一般の人は「親鸞」という実在の人物について書かれていることをどう受け止めるだろうか?

 ストーリーでは、恵信=紫野の妹・鹿野が行方不明のまま放置されている。過去には不思議な女を殺しているし、鹿野を行方不明に放置していることが、この先の何かの伏線なのだろうか?わからない・・・・

 目下のところ、親鸞は法然門下の先輩たちから、過去のスパイ行動と現在もその延長かという疑いをかけられている。途中で、「一念義」「多念義」の論争も出てきたが、これも法然が絡まないところでの話になっている。そして、結論を出させていない。ただ、疑問を呈してそのままという印象がする。


 親鸞の妻、というのは、私は2人説を描いているので、当然ストーリーは変わる。これは、「正明伝」の記述と実際に歩いてみて思ったことからだ。
 僧たるものが、妻をめとること自体まだ公にすることができない時代。単純に結ばれているにしても、師の法然の言葉を自ら先んじることを彼はしたのだろうか?私は、やはり兼実や法然から迫られた上での公という気がしている。師の教え、許可を請うべきだったのではないかと思うから。それまでは、公然という形は取らせたくないなぁ。。。
 
 今の流れだと、「女犯偈」の意味が薄くなってしまうような気もしている。


**
哲学者・梅原猛さんも最近になって「正明伝」に注目しているらしい。彼は、親鸞よりも法然のほうが詳しいみたいだけど。  

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2009年04月16日

五木寛之・親鸞 念仏弾圧

 何やら私には訳のわからないストーリーになってきた。

 姉さんの紫野が病気で越後に帰って死に掛けているといったと思えば、それがウソで、しかもその妹・鹿野にいいよられて逃げ出して・・・・ それで綽空(親鸞)は、幼いころ世話になっていた下人のところの相談に行く。そしてそこでお叱りを受けて・・・・
 ここで、『念仏がやばいことになっている』と教えられる。へぇ?綽空と名乗ってから、親鸞は、7か条の誓文に署名をしている。申していてもいいはずなのに、下人から教えられる?
 (お断りしておきますが、『下人』は当時の身分的な差別言葉で、私がさげすんで書いているわけではないので)

 もう、このころになると、比叡山やら、奈良の寺から攻撃を受けているはずなので、それを知らずに親鸞はのうのうとしていたと採られかねないのが残念。
 会いk氏、ここで法然の『悪人往生』の話が出てきた。悪人の解釈が、私とは少しずれている。なんか、すっきりしないよ。  

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2009年04月05日

五木寛之・親鸞 承元の法難前夜

 五木寛之氏の小説「親鸞」は、もう承元の法難に向かっている。
 法難で、処刑される先輩の名が出てきている。

 その事件に、恵信尼の妹を絡めるとは。。。。紫野から恵信と名を変えた姉は、越後で病気療養中。いやはや。
 親鸞は、ストーリーでは、33歳くらいになっている。まだ結婚してないよなぁ。。。
 承元の法難では、妻帯していたことが話題になったといわれていると記憶しているのだが。いやはや。

 でも、とうとう、キーワード「玉日」は出てこない。このまま法難に遭遇すると、玉日がないまま越後に流されることになる。

 先日のストーリーで、念仏のレベルの話しがあったけど、これまで見聞きしてきたストーリーとは違って、法然が問いかけている。これまでは草庵の中での討論の中でのテーマーで、そこに法然が登場だったのだが。しかし、もう一つある、信仰上のちょいとむつかしい用語の論争は避けたのかな?
 
 さてさて、恵信尼とはこのストーリーで行くと、法難にあって越後に流されて、そこで再会?かなぁ・・
 (越後での再会は、私の書いたのと似ているけど、違うよね。私のストーリーは既に玉日と結婚してるしな)  

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2009年03月30日

五木寛之・親鸞 法然批判

 五木寛之氏の連載小説『親鸞』は目下 吉水草庵で親鸞と法然が対面している。

 **ここで書く『批判』とは、学者の間での論文の評価をするときの用語のようなもの。けなす意味での批判ではない。**
 
 ここで親鸞は、法然教えは危険であると説いている。
 確かに、法然の教えは、当時では危険極まりない教えである。法然が認めたように、法然自身の中の矛盾を突いていると書いているが、正直法然の教えは、そこまでぶれていたのだろうか?私は、五木氏と宗教観が違うせいからかも知れないが、そうは思っていない。法然の教えは、ぶれているのではなく、説く相手により話し方が異なるのでぶれているように思えるかもしれない。(『方便』という見方。しかし、それは、釈迦の説く話そのものにもあることだと思っている私である。)

 念仏(正式には『称名念仏』かな?)は、仏説無量寿経の第18番の願を特に取り上げて説いている。法像菩薩が悟りを開いて阿弥陀如来になったときの四八願のうちの十八番。法然の気持ちの中にぶれが有れば、これだけとはいえないと私は思っているが。。。

 実は、法然の説く教えの危険性は、誤解を名招く恐れが有るという点では、確かにそのとおり。法然の説く教え、それを危険と説いた場合には、親鸞が小説の中で法然に向かって話した『女犯偈夢告』の方がもっと危険なはずなのだ。しかし五木親鸞にはそのことが触れられていない。これから触れるというとなると疑問を感じるのだ。自分の体験した(危険な)話を先にしたうえで、法然の教えを危険と後に言うのは、私ならば耐えられない。

 自力・他力の話は、私は非常に単純に考えている。
 浄土に生まれるために、一生懸命修行して、考えて、善を積んでという立場の自力の人と、阿弥陀さんの力で浄土に迎えてもらおうと思う他力の人。ということではなく、仏説・無量寿経の法像菩薩が阿弥陀如来になるための四八願は、法像菩薩が阿弥陀如来となった(悟りを開いた)のだから、それは全ての願が成就したことを示している。ならば、人は誰でもみな(どうも一部除外されるものがあるようだが)浄土に迎えられるはずなのだと。他力、自力を云々する必要はあるのかと思っているのだ。(これを他力といわれてしまうとどうしようもないけど)
 多分に、お叱りを頂戴する考えだろうと思う。この考えで行くと、宗教団体の意味がなくなりそうだから。

 こうした、観点に立っている私なので、小説の中に出てくるものにどうしても違和感を感じざるを得ないのだ。
 一番違和感を感じているのが、親鸞の女性観なんだけど。目下、吉水草庵にいるということは、もう赤山明神の逸話は出てこないだろう。その代わりに葛城山の女が出てきたのかもしれないが、『玉日』という親鸞にとって切り離せないキーワードがか無視されてしまっているところが、このまま行くと最後まで違和感を引きずることになると思う。

 宗教の教えって、私には矛盾がいっぱいなような気ががしている。でも、信仰は、人それぞれです。  

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2009年03月08日

五木寛之・親鸞 吉水に入る

 五木寛之・親鸞が、今日法然上人のいる吉水に入った。

 六角堂からどこをどう歩いていったのやら。
 吉水の法然上人がいたといわれるところは、円山公園の東、今の安養寺だといわれている。
 今の時代に六角堂から歩くとすると、六角通をまっすぐ東に行くいって、寺町通もしくは新京極を南に下って、四条通で東にとってまっすぐ八坂神社に。そして八坂神社の北側を東に。多くぃ対そんな方向。どのくらいかかるかな?30分くらい、せいぜい40分か。早足ならそんなにかからないも知れない。
 しかし、鎌倉時代の四条通はどこにあったのやら。三条通は昔のままと聞くが五条通はかなり違うのはわかっている。地図で見る限り三条通と五条(現在の松原通)の中間が四条とおりだからこれでいいのかな?それなら、時間的にはそんなに狂いはないだろう。

 ただ、法然上人のいたところは、吉水のほかに『黒谷』現在の金戒光明寺ともいわれている。こことなると、ちょいと北に行かねばならない。もう一つ、近年は紅葉で有名になってしまった法然院という話も。ここだと、もう銀閣寺の近くだ。

 昨日だったか、衣を脱いで『僧ではなくなった』ようなことがかれていたが、後に法然門下の僧の名が並ぶところに『僧綽空』と出てくるところから行くと、僧籍はまだ残っていたはずなんだよなぁ。。
 まぁ、気持ちの上での話しなのかと解釈せんといかんのか・・・
 
 浄土宗も、法然常任の生前と没後ではかなり違うという話も聞いている。どんな話になるんでしょう??紫野は、どこに行ったのかな?彼女に引っ張られるようにして吉水に行く親鸞だが、『自分の気持ちではなく・・・』と他力をいいたいのだろうなぁ。。。。。
 
 五木さんは、最近『他力』の話をあちこちでしているようだけど、私とはちょっと違っているみたい。ちょっとではないかも。  

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2009年03月03日

五木寛之・親鸞 とうとう『女犯偈』を

 3月3日 新聞連載半年を過ぎ、親鸞の人生転換期の話になっているが・・・・・

 今日は、その最大イベント通帳『女犯偈夢告』といわれている話だが・・・
 小説の今日のストーリーでは、紫野なる女性(多分に三善ため範の娘、将来の親鸞の妻。恵信尼)が親鸞の前に立ち、如意輪観音の化身のごとくかかれている。そして、ストーリーに書かれている偈文はひらがな。。。。 耳で聞いたのだから。漢字でなくてもいいのだが。
 この話は、親鸞没後に詰め・恵信尼が娘・覚信尼に送った手紙(『恵信尼消息』)の中にはっきり書かれている部分のことだ。その手紙には、ストーリーの紫野が将来の恵信尼ならば、自分が親鸞の前に立って偈文を読んだと書かないか?もっとも書けないかな?
 しかし、どうもその恵信尼野手紙と、この小説のストーリーでは違和感が大きすぎる。親鸞29才、恵信尼19才か20才なったところ。前から思っていることだが、恵信尼野方が親鸞を超えているのだ。
 今日も最後のところで、『吉水へおいで』と法然のところに来る誘いをしている。

 恵信尼は、娘への手紙の中で「との」(=親鸞)を観音菩薩と書いている。そういったへりくだりをする人だから、手紙の中に書かなかったのか?
 手紙の中(第3通)には、「しやうとくたいしのもんをむすひて」とある。ここの「もんをむすび」には諸説あるが、聖徳太子ノン魔にかが絡んだことは間違いないが、ストーリー出は飛ばされたのか???
 いくら小説とはいえ、未来の妻が救世観音観音(六角堂の本尊は如意輪観音だったと記憶)に成り代わって、親鸞を口説いているように思えて。

 これで、近々吉水の法然商人のところに行くことになるのだろうが。紫野とは今後どうなるの??


**途中で書いたアドレスは、上越市板倉にある「えしんの里」の公式ページです。**  

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2009年02月28日

五木寛之・親鸞 また未来の奥さん出現

 ここ数日、親鸞は誘惑されたり、襲われて、誘惑していた女が殺されたり、その女が加茂川に流されたのを探しにいったりと、お子守を忘れた行動だったが、今日28日には最後のほうでまた未来の奥さんと思しきとが出てきた。そして、それが95日目と書いてある。

 95日目は、親鸞最大の分岐点「女犯偈夢告」の日。まさか夢の話を、奥さんを立てるのではないだろうなぁ。。。明日になればわかることかもしれないけど。それは勘弁してよ。その話を書いたのは今も残る手紙を書いた本人を立てたのでは、話が合わなくなる。

 実は、この親鸞を呼んで生きつつ思うことがある。時折、話の筋に矛盾があったりするから。細かいことだけど、親鸞少々の遊び場が参上に近い場所のように書いたところがあった。しかし、小説の冒頭は日のに住んでいることになっていた。
 こんな混まない矛盾を未定いて、過去中日新聞などに連載されていた遠藤周作さんの遺作(途中で絶筆)となったものを思い出したのだ。その小説の筋はもう頭から消えているが、とにかくだんだんつじつまが合わなくなっていったのを見ていて、『おかしい』と心底思ったのだが、その結果が遠藤さんの入院、死去に繋がっていった。

 そんなことを思わせないでほしい。。。。  

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2009年02月10日

五木寛之・親鸞 将来の妻と出会う

 少し前から親鸞は、頂法寺六角堂に毎日比叡山から通っていることになっている。現実問題これを100日間(親鸞は95日で終わるはずだが)実行するとなると、命がけで、実際は無理ではないなぁ?と、私は雲母坂(きららざか)を歩いて思ったものだが。

 この参詣で、数日前から一人の女性と話をするようになった。多分に将来の奥さん。恵信尼との出会いだろうとおもっていたら、今日になって『越後の三善』という家の名前が出てきた。となるとナンやら珍しく世に一般的に言われている筋に近い登場人物になってきた。

 ただ、小説を読む限り、年の差がさほどあるようには受け取れないのだ。親鸞29歳であるが、このときの恵信尼は19歳のはず。女のほうがいくら先を行くとはいえ・・・
 五木氏は、親鸞聖人正明伝を無視したのか、赤山明神の不思議な女人との出会いが登場しなかった。これからか?
 この赤山明神の出来事から3年であろか、結婚するかなのだが。

 結婚=妻帯は、法然と九条兼実のはかりごとということになっている面もあるのだが、今日のストーリーでは恵信尼=紫野はその九条家で働いていることになっている。となると、このまま先に進むのだが・・・
 しかし、名前が『紫野』とは・・・ 大徳寺近辺、堀川通と北大路の交差点近辺の土地の名前。どこから出てきたのか、恵信尼の名前が・・

 サテ、一つ問題が残った。親鸞には『玉日姫』という、五木親鸞にはまだ登場していない、九条家ゆかりの女性が過去のいろんな書物に登場するのだが、五木氏はどう処理をするのだろうか?
 このまま無視かなぁ????

 玉日さんは、東福寺(九条ゆかりの寺)の片隅のゆかりの寺(今は片隅なんてとても思えない)、西岸寺に墓もあるし、栃木県にも墓があるんだよねぇ。。。 恵信尼の墓といわれているのは現在は上越市になった板倉町の現『えしんの里』の近くといわれているけど。。。

 まぁ、今日のストーリーは、私の思いとちょっとだけ同じところがあったので、『へぇ~』と思った。
 五木・親鸞で、恵信尼は親鸞が九条家に来たときの印象を語るが、親鸞には記憶がない。私は、少し違って、もうその当時(親鸞が九条家に通った頃)から、お互いに知っており、付き合いがあったと思っているが。
 まさか、私の書いた小説『親鸞と真佛』みたいに、この後恵信尼が越後に帰って、親鸞は玉日と結婚なんてことになるのか? なら、勘弁してくれよ。そのストーリーは、まだ誰も書いてないことだぞ。  

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2015大津・京都の旅
1泊2日のドライブ旅行
2015北海道・道東の旅
1週間870kmのドライブ旅行
大学OB会と
50年ぶりの鎌倉
OB会の後に鎌倉と横浜に行ってきました
15年年頭 広島宿泊の旅
鞆の浦、竹原、宮島に行きました
14年秋 京都宿泊の旅
久しぶりに新幹線に乗りましたが・・・
13年秋 京都ドライブ旅
京都の紅葉の名所・毘沙門堂に行きました
12年秋 室生寺ドライブ旅
すてきな観音様と再会です
室生寺五重塔
12年秋 京都ドライブ旅
1年ぶりの京都です
三千院
10年秋 平泉ドライブ旅
4泊5日 2000キロの一人旅です
平泉・わんこそば
   
10年夏 室生寺 日帰り旅
素晴らしい観音さんに出会いました
室生寺・五重塔
10年初夏 宇治・長岡 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに黄檗山満福寺・六地蔵・法界寺谷寺・長岡天神
布袋さん
09年秋京都 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに 紅葉がきれいな京都
南禅寺の紅葉
08年秋京都 日帰り旅
08年11月25日貧乏・一人・日帰り旅の記録です。
鳳凰堂を望む
観光シーズン 京都の歩き方
京都市・地下鉄 東西線沿線
09年浅草と川越
浅草観音
07年信州の旅
上田城内
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プロフィール
生田
生田
 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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