2011年01月20日

小説「親鸞」 激動篇19

 うわぁ。。。。 とうとう神がかりの話が出てきた。これだけはして欲しくなかったのに。

 今日のシーンでは、外道院の仲間というか配下というか手下というか、彦山房玄海という、これ坊主だろうなぁ、が郡司の部下にいう言葉、外道院が漏らした言葉
 「やつが立っている背後にいような雲が渦巻いていた・・」

 これでは、安倍清明ではないかぁ。歴史上の人物、それも今の世に厳然とその力が生きている人物に神がかりにしてはいかんと思う。
 この先どういったことが書かれるのか知らないけど、親鸞が入滅のおり、末娘・覚信尼は「高僧は死ぬと周囲にし運がたなびくといわれるが、父の場合はそれがなかった…』と嘆いている(これは母・恵信の手紙として事実残されている言葉)くらいなのだから、それを打ち消すようなことは避けてほしいよね。
 いくら小説でも、事実を曲げかねないことは疑問だなぁ。。。

 この小説を西本願寺の幹部が推奨しているらしいから困ったものだ。実際真宗の坊さんも困っている人もいるんだよ。今年は親鸞の750大遠忌、だからといってこのように神がかりにするのは疑問、もっと人間親鸞を・・と思うけど。
 
 どれだけの人がこれを読み、どのくらい信じるかは分からないけど・・・・  
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Posted by 生田 at 17:47Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2011年01月16日

小説「親鸞」 激動篇15

 外道院の行列も長次もいなくなって・・・ 海鳴り?ということは海岸に近いところ?いや、かすかに』とあるから離れているんだろうなぁ・・ しかし、どこなのだろう?現在と違って、そんなに家があったわけでもなからろうから、今よりも海鳴りは遠くまで聞こえるだろうから。どのあたりまで聞こえたものか?

 親鸞と恵信は、寄り添って。。。。仲のいいことで。(中のいいのは子供数を見てもわかるわなぁ。。6人くらいいたんではなかったっけ?(なぜか、信州の週初から子孫延々と子供が多いのだよね。だから勢力争いにもなったりして。寺の血縁の勢力争いって、みっともなくってね)

 今回の最後に『国司の館』と書かれている。たぶん流人監視を意味しているのだろうけど。個々の役人が、恵信の親だったという説があるで。。。
 しかし、恵信は、どうやってついてきた?里帰りしてきた?流人についてきた?(これはねぇ、考えにくいんだと思うけど) 親鸞は、ごく当たり前の流人とは違っているようで。(ただ、これらを示す古文書がない)

 さて、国司の館をできれば描写してほしいものだけど。  

Posted by 生田 at 23:44Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2011年01月14日

小説「親鸞」 激動篇13

 ゲドインの行列がどのくらいの長さで、どういった面々が行列しているのか描写がないのでとぎれとぎれでしかものが見えない。

 今回『聖者の行進13』の冒頭でいいことが書かれている。『魚、獣を殺すことだけが殺生でない、草花を切るのも殺生」と。
 この指摘は、本来その通りのはず、仏教の大本はそうだと私は多く菓子から思っていたのだが、日本の仏教はどこでどう変わったのか、動物だけを殺生の対象にしてしまっている。
 「いただきます」の食事前の言葉は、『あなたのお命いただきます』の短縮形。動物に限らず、農作物にも命があり、その命を食べさせてもらうことで生き延びるから感謝ということなのだけど。
 それが、仏教の法事のときには(最近あまりしないが)精進料理と称するものを食べるが、そこには動物淡白が全くなく、農作物だけで作られているが、これでは農作物には命がないということになってしまうのだ。

 どこかで、狂った日本の仏教。

 この冒頭の言葉とそれに続く話で、「あの者たちは皆、そなたたちの行を背負って苦しんでくれている・・・」と、まるでキリストが世の中の罪を背負って磔になったと同じような顔とを。
 実際、この先五木氏がどう書くかわからないけど、親鸞のいいたいこととキリストの言いたいことは結構類似点があるのだけど。特に女性解放に関しては。。。。
 (親鸞は、妻帯した。実はキリストも妻がいた、マグダナのマリアがその人といわれている。(ダ・ヴィンチコードの受け売りではありません)

 白覆面の男の言葉に『仏』が出てくるけど、この先の親鸞のいう「現世往生」とは意味が違うだろうなぁ。。  
タグ :小説・親鸞

Posted by 生田 at 20:40Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2011年01月13日

小説「親鸞」 激動篇12

 行列が外道院だけというのではなくて「こじき」の行列ときた。。。なんなのだろう?

 わからない。。。。わからない。。。。

 冬は山の中で過ごす乞食
 春になると里に下りてくる乞食

 わからんなぁ。。。


 この乞食の行列が出てきたということは春になっている。親鸞が流されて越後に着いたのがまだ寒い時期なので、この今の設定は親鸞流刑から1年を経過したということなのだろうな?
 
 それにしても、今は長次の記述はあるけど、一緒に出かけている恵信の話がない。いつ書かれるのだろう?この行列の反応が知りたい。  
タグ :小説・親鸞

Posted by 生田 at 16:55Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2011年01月12日

小説「親鸞」 激動篇11

 ははぁ・・・・・ 見事に裏切られた。

 外道院は親鸞の顔い知り出なかったと現段階では分かった。

 それにしても、なんともかんとも悲惨といわれる情景を描こうとしていうのだろう?確かにこの時代は平安末期からの末法思想の中で、飢饉やら戦乱などで荒れた世の中だったけど、鎌倉幕府ができて安定期に入っているころではないか?
 どうして、こう汚く書くのか?わからんなぁ。。。。親鸞が民衆の見方ということを描きたいのだろうか?親鸞は仏教の研修者。その後生きるためにいろいろやったという説もあり、勧進聖をしていた、そして越後だけではなく信州にも行っていたとも。(これを示すものはあるのか?公文書はないと聞いている)

 何度も書くけど、親鸞の越後での生活は、証明する古文書はないと聞いている。だから好きなことが書ける。

 私が、五木氏の小説に期待しているのは、いずれご赦免になって、どうするか?今日に行くのか行かないのか?そして、関東に移住するのはどうしてか?

 この二つを五木さんはどのように書くかなのだけど。
 ああ、もう一つあった。関東移住のとき、どこをどう通ったのだろう??誰と誰が一緒に歩いたのだろう??
  
タグ :小説・親鸞

Posted by 生田 at 20:00Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2011年01月11日

小説「親鸞」 激動篇10

 毎度、連載の小説の一回分にいちいちコメント書かなくてもいいようなものなのに。 ここにかいているのは、私の備忘録です。こうしたきっかけがないと、どこにも書き遺さないだろうから。

 今回は、名前を聞かれ一時迷っているが、なんで迷う?還俗させられて「愚禿親鸞」と名乗ると決めているのに。確かに理不尽と思っているのだろうけど、それは師の法然に対するもので本人にはどうかなぁ?当時なら妻帯の総は御法度でしょ?罰が下ってもしょうがないから、理不尽とは。。。

 こんなこと書くつもりでなかった。。
 今回は、最後にゲドエンを見て『ん?』といった感じになっているから、明日はその顔が誰かがわかるのかな?
 誰でしょう?6歳くらいの子供を抱いている?思い当たらないなぁ…まさか、同じ時に他に流された先輩でもあるまいが、、
  

Posted by 生田 at 18:30Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2011年01月10日

小説「親鸞」 激動篇9

 昨日の話は私が早とちり。親鸞に声をかけたのはゲドインではなくて先導する修験者のようだ。

 で、その修験者が親鸞に『なぜ立っておる』と聞く。ここで親鸞はたじろぐのだが、どうしてたじろいだのだろう。たじろぐような人間ではないと思うが。
 そして親鸞は『大権現様とは?』と質問をしている。これは、昨日かいたような疑問が残るが。この問いに答えたのが『即身成仏』である。ん???難しい話をいとも簡単に書いてもらって。
 この返答に対して親鸞は、「浄土に迎え入れられて初めて仏となる」と切り返している。ん??最終的な親鸞の言葉ではないから、この先変わるのだろうか?親鸞は、いつ頃からか『現世往生』を謳い始めている。つまりこの世で往生というのは、意味は違っても即身成仏と似てないかなぁ。。

 そして挿絵だけど、背景の大きな矢印はなんだろう??小さい左右に振る矢印は何を意味しているのだろう?あぁ・・こっちが親鸞かぁ。いやいやをしているのか。そして相手の立っている頭の湯気は怒っているのねぇ。しかし、大きい矢印がわからない。まさか親鸞が修験者を威圧している?
 しかし、ゆげあたまがあいてとすると、すたいるがしゅげんじゃでないねぇ。袈裟衣を着ている感じだけど。となると昨日の挿絵の修験者のスタイルとの兼ね合いは?
 この分で行くと、ゲドインは袈裟衣を着ているかもしれないなぁ。いつ出てくる?  

Posted by 生田 at 18:23Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2011年01月05日

小説「親鸞」 激動篇4

 今日で4回目。新聞連載はこま切れなので、きちんとこれまでのストーリーを覚えていないとわけがわからなくなるし、状況を読むのがかなりつらい。

 昨日まで気にしている『ゲドエン』は、今日のストーリーの中で疑問として書かれているようになった。今回の最後に親鸞が『ゲドエンとは何か」と問いかけているのだ。ということで、明日か明後日明らかになるかと想像している。

 さて、昨日(全会)から一人の関東者らしい男が登場しているが、このとこの描写が「いい男」になっている。ん??またいい男が登場か?と思う。過去の話、流罪になる前の話で比叡山にいるときに親鸞に思いを寄せるいいおことが登場している。また何をたくらんでいるのやら。それに、何を表現したのか、実は前の時もわからなかった。最後の最後までわからなかった。
 (ひょっとしちゃら、男社会の裏を見せたかったのかな?しかし、それでは証明できないのではないか。よくいわれるのは、比叡山に女はいたようなぁ。それに、僧でありながら女を囲うのは当たり前の時代だったのだから。)

 さて、今回は、この男恵信のことをいい女と表現した。そして、この男は『いい男』と書かれている。何の布石になるのか??小説家の頭の中はわからないので…・  
タグ :小説親鸞

Posted by 生田 at 19:54Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2011年01月04日

小説「親鸞」 激動篇3

 今日が3回目の話で、昨日の続きの行列。

 どうも昨日は、キーワードを『ゲドイン』として検索したらしいので、全く関係なかったようだが、今日のを呼んだら、あれ?『ゲドエン』となっている。目が変になのかなぁ?悲しいよ。
 で、今日が『ゲドエン』で検索。しかし、新潟や時代的なものに引っかかるものもなく、ただ韓国云々など数件しかない。ということは、これでも引っかかることがないということは五木氏の創作的なもの?どうもこのあたりが全く分からないし、理解もできない。何らかの説明がいずれ出てくるのか?

 実は、五木氏の小説は、大昔の『海を見ていたジョニー』を読んで、これは私が読む小説ではないし、畑違いの部類の小説を判断して、作者自体を拒否するようになっているので、どうしてもそういった先入観で読んでいるからかもしれない。

 今日の話の中で、親鸞は京ことばを使っているようだが、その行列の集団の言葉は越後訛とある。では越後訛とは???
 今回のストーリーの中では越後訛の言葉は出ていない、現在の標準で『いい女だなあ』と書かれているだけ。では、これを越後訛でいうとどうなるのだろう???

 私が数年前に、越後訛、いや上越方面の訛を調べようとしたことがある。これ尾は私が書いているものの中に必要だったので、何か書かなくては行けなくて、それで独特の言葉を探したのだ。なぜそんなことをしたのかといえば、今の上越(直江津、高田地域)の人との会話ではほとんど標準語に近い会話となって、いわゆる新潟の『ずうずう』が全くなかったから。私の経験では、青森秋田ではその『ずうずう』に悩まされたが、新潟、岩手では悩むことはなかった。青森秋田は学生で同級生もいたが、やはりかなり鉛はあったが、新潟{新潟市出資い}の女性は全くといっていいほどなかった。
 ということで、五木氏が何かそういった言葉を上越(上越市ではなく越後の中の上越地域)で見つけているのなら披露してほしいものと期待をしている。とはいえ、親鸞が流されたのは鎌倉時代、700年も昔の話、言葉は違うでしょうなぁ。それにその時代の古文書は上越地域には現存していないという上越市教育委員会の学芸員の話だけど。

 まぁ、この先どういったアレンジをされたのかを見ていくことで…  

Posted by 生田 at 17:44Comments(3)TrackBack(0)小説の話

2011年01月03日

小説「親鸞」 激動篇2

 昨日は新聞休刊日で連載は休み、ということで今日が第2回。

 なんやらあやしい行列が近付いてくる。それを恵信は『ゲドイン』と呼んだ。権現様に関係ありと。

 いったい何を指しているのかと、ネット検索してみたが、これといったものが出てこない。「ゲドインの末裔」なるアニメなんかが出てくるくらいで、何のことやら全く分からない。古来から存在する何かの集団なり風習ならネット検索で一つは引っかかるというものなのだろうが、それが全く見当たらないのだ。
 いったい、これは何を狙っているのか?

 権現は、神様に属するもので、本来の仏教のものではない。しかしこの時代は神仏が合体しているのであいまいにはなっているとされている。確かに、親鸞について書かれたものの中には、親鸞が京都の『関山明神』や茨城の『鹿島神宮』に詣でているとされているから、権現が出てきてもいいのだが、それにしてもいったい何を狙っているのか?
 また、前の辺のときのようにわけのわからない通商悪どもを登場させたり、葛城山で出会ったわけのわからん女や、わけのわからない行動をする妹『鹿野』のようなものを登場させようというのだろうか?

 抗した有名人の小説が新聞という不特定多数の人が読む者に連されると篇に信じ込む人も多いかと思うので、いか型とは思うけどなぁ。。。。  

Posted by 生田 at 16:48Comments(1)TrackBack(0)小説の話

2009年09月01日

五木寛之 親鸞 終了

 1年間の連載だったのだ・・・

 8月31日付をもって終了。何と最後の章は4回分で終わったのだ。ん????

 京都を発ってどんな旅をするのかと思いきや、いきなり直江津の居多ヶ浜に上陸となった。親不知子不知をどうやって越えたのでしょう?
 最後は船であがったにしても、あの難所を念仏を唱えながら歩いたのか、それとも船で行ったのか?

 さて、急遽終わった感じがする最後だが、恵信の妹はどうしたのだろう?結局、遵西の首を抱えていなくなってそのままになってしまった。何故こんな事をする必要があったのか?だいたい妹・鹿野の登場自体疑問なのだが。

 最後の最後の疑問。
 上陸して、この先の生活の不安を話しているが、ん??? 恵信が同行しているよね。行き先は恵信の実家、三善の家のあるところ。三善は当時、その国府のお役人と言われているのだが、何かをれを無視するかの不安。それに、何故不安を?阿弥陀仏に帰依しているからには、親鸞の思いをこれまでのストーリーからの思いであがくとすれば、現世往生とならないかな?と言う考えに立てば、不安を書くのはどうかなぁ??
 
 まぁ、とにかく終わってしまった。あっちこっち話が飛んで、疑問をいっぱい残してくれたが、とにかく終わった。しかし、この話が、親鸞の思想形成の筋道と思われるとチョット抵抗する。親鸞の思想形成は、この先の上越(旧直江津)での海に接した生活の中に多くあると思っているし、多くの人がそう思っている部分でもある。
 親鸞の書き残したものには、「海」という文字がたくさん出てくるが、それは上越での生活の中で海に接することが多かったからだろうと言われている。京では体験することの出来なかったものである。

 そして、ここで多くの子供の恵まれ、理由は分からないが赦免後に関東に移住している。こうしたところに本当の親鸞の思想形成の根幹があると思っている私である。
 確かに叡山での20年、法然門下での数年で阿弥陀に対する帰依というものは出来ていただろうが、それを多くの人にもっと深く、わかりやすく説いて行くには、越後での生活は欠かせないものだったろうと思う。その前に話が終わってしまったので、肝心要が無くて・・・・
 何となく、吉川英治の「親鸞」と筋書きは全くと言っていいほど違うとしても、同じ範囲を追っかけて終わったように思えなくもない。残念。越えて欲しかったのに。

 書いていると、私自身の親鸞への思い入れをつらつら書き続けそうな気がするので、止め。

**
追記
小説の最後に 夕日の話が書いてある。
 この私のブログのヘッドの写真が、その居多ヶ浜の夕日です。
 全景をその下に。。


 そのときの記事 はこちら  

Posted by 生田 at 08:55Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2009年08月28日

五木寛之 親鸞 流罪

 流罪名の話は、なんか自分で訳の分からないところに入り込んでいるので削除。
 そこで、流罪で旅立ちまでの数日の話を。
 
 法然上人が流されての旅立ちに立ち会えなかったと昨日書いてある。その理由が、謹慎中で役人が見張っているからとある。ん???先日は、その監視下にあって比叡山の良禅に伴われて吉水の草案に出かけている。「ひそかに」と書かれている。監視はどうしたのだ?良禅が伴っているから、見て見ぬふりをしてくれたのか?
 同じ監視なら・・・・・
 いったいどういった監視がついていたのだろう?資材という話が出る位の重罪人の監視である。軽減されて流罪になるとはいえの罪人。なんか釈然としなくてね。。

 それに、恵信は、法然の旅立ちを見に行っている。これは監視はなしなのかな?そうかぁ。置かれている家が違う???しかし、報告には来ている。ん??
 
 先日まで遵西が処刑される話が書かれていたが、そのとき恵信の妹。鹿野が遵西の首を抱いて消えているが、その話はそのままになっている。これも何となく。どうしたんだろう?って。罪人の首を持って逃げられるもの?そんな警備体制なのか?
 まあそれはいいとして、彼女はどうしてしまったのだろう???どこへ消えた。子供のいるのだよ、遵西の。これは、この先親鸞の越後での生活にでも出てくるのか?それともこのまま立ち消えるのか?

 話を戻して、法然・親鸞の最後の会見。ここで親鸞は「親鸞と名乗る」と言い出した。これはいいのだが、ここで誰かが「善信房」と呼びかけている。
 その前に、法然が親鸞に「範宴から綽空へ、そして善信へとなって、今また四度、何と名乗ろうというのじゃ」とある。
 名前を変えたというのなら、「善信房」はないと思っているのだが・・・・私は「善信房綽空」だったと思っているから、綽空から善信は名前を変えてはいないという思いで、こうした疑問になるのだろう。どれがほんとうやら、分からない世界だ。
 
 さて、旅だった親鸞だが、そこには恵信がついている。まだここには子供はいない。
 さて、見送りに犬麻呂とその妻サヨがいるが、この夫婦が鹿野の世話をしているのではないのか?していれば彼女もその子供の出てこれるだろうが、出てこないところを見ると、行方不明。犬麻呂やつぶての弥七にしてはお粗末。

 この先の旅と、越後の生活を楽しみにしますか。(どこを通っていくのでしょう?)  

Posted by 生田 at 19:55Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2009年07月29日

五木寛之 親鸞 鹿野の大きな腹

 7月29日 今日の小説「親鸞」では挿絵に鹿野の大きな腹に遵西が顔をあてているところが書かれている。
 ん? もうこれは九重の塔の最上階に上がっているはずなのだが、鹿野はこんな大きな腹をしてどうやって上ったのだろう?もっとも、この塔の階段がどんなものかわからないから判断できないけど、五重塔などの記憶から行くと塔の階段はかなり急で、通常の人間でも上り下りは結構大変なのだが、あの腹は臨月間近という印象で、こういう人が上るのはかなり難しいだろうなぁ。。。。小説だから、まっイッカ

 それにしても、一緒にいる行空が反乱を起こした。さすが小説の意外性。行空が黒面法師の首に刃物を当てて、遵西、鹿野と善信に逃げろといっている。今回はつぶての弥七も出てこないのだ。
 それにしても悪の権化、黒面法師ともあろうものが、そんなスキを見せたのか???


 小説を書くときの意外性というものはこういった書き方をしないといけないようだ。勉強になりますねぇ。

   

Posted by 生田 at 14:58Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2009年07月28日

五木寛之 親鸞 鹿野に子供が。。。

 五木寛之氏の小説『親鸞』。
 何とまぁ。親鸞の妻・恵信の妹・鹿野に遵西の子供が宿ったことになってしまっている。何でこんなストーリーにせんといかんのでしょう? 
 まぁ、ここ数日のうちに九重の塔に火が付けられることになるのだろうけど、また親鸞の取り巻きが助けに来るの???本当にドラマ化する前提で書いているみたい。(こんなのしてくれるな絶対に)

 ストーリーでは、親鸞も捕まっているから、鹿野と二人が不義密通の疑いを持つようにって。江戸時代じゃないよ。鎌倉時代だよ。
 明日のストーリーがどうなるか知らないけど、遵西の子供を宿って、どうさせる?

 遵西は、後鳥羽上皇の女官との噂の罪での処刑が先に控えているけど、こう見ると遵西は女に対してはどうしようもない人間なのだ。

 しかし、前にも指摘したことだが、遵西は選択集の執筆の際には参加している一人なのだが、この小説のストーリーでは、親鸞に対して選択集を出せと脅しをかけている。いったい五木氏は、どこまでこれまで言われていることを知っているのか?知っていて無視しているのか?知らないのか?大いに疑問。

 それにしても、チョット承元の法難までの時間的な問題、中だるみになってないかな?時間の流れが遅くなりすぎているように思える。
 これだけ時間をかけているからには、それなりの伏線なのだろうが。それにしては、チトつまらんなぁ。
  

Posted by 生田 at 22:39Comments(0)TrackBack(0)小説の話

2009年07月23日

五木寛之 親鸞 放火???

 遵西と行空が、九重塔に火を付けることを黒面法師が画策している。

 どうしても、この二人を、歴史に名を残す二人を変な方向に持って行こうとしているように思えて。確かにこの二人は、興福寺からのクレームで流罪にあって、後に法然から破門されているようだが、だからといって放火をする方向にまで持って行く必要があるのか?
 
 ストーリーでは、またまた親鸞の妻・恵信の妹・鹿野が登場することになるが、その妹を火付けする九重の塔に監禁して、それをおとりに親鸞(ストーリーでは善信)をおびき寄せて犯人に仕立てると言うことを画策しているようだが。
 その鹿野は、目下親鸞の世話役の犬麻呂のところにいる、そこから誘拐と言うことなのだろうが、それでは犬麻呂の監視体制やら仲間内のつぶての弥七の監視体制がいい加減と言うことになって仕舞う。
 前々から、ストーリーの荒さが気になってはいるものの、もう少し整合性を取って欲しい。

 特に、遵西に関しては、後々斬首刑に会うのであるが、それはこういった九重の塔放火といったものとは違った流れから出てきていることは史実が示していると思う。
 いずれ後鳥羽上皇が出てくることになるのかとは思うけど、そうなると放火の罪を犯す人間が、またそれらを画策する人間が法然門下にいて、法然の教義を崩壊させようとしていることになる。

 親鸞自身には、確かに多くの公文書は少ない。だからナントでも書くことはできるかもしれないが、承元の法難に関しては、結構書き残されている部分もあり、それをここまでストーリーを発展?させることがどういった意味を持たせているのか疑問を感じている。
 小説だから、それなりにどきどきさせるストーリーが必要だろうが、それなら親鸞をモデルにした別人を仕立てて書いてくれた方が、一般の読み手に対する思いやりというものではない過渡すら思う。

 五木氏は、「現在は親鸞の時代と同じで変革の時代」だと語っているようだが、小説のストーリーからは、そんなことはみじんも感じられない。この先そういったストーリーになると言われるのかもしれないが、連載開始から10ヶ月を過ぎた今の段階では、まだまだ。。。。

 親鸞は、今でこそ有名人である。しかし、それは浄土真宗八代の蓮如のなせる業である。蓮如があれだけの勢力を持つ集団にしていなければ、浄土真宗はその形を無くしていたと思う。そうすれば公文書に名を残すことの無かった親鸞は、伝説にもならなかったかもしれない。親鸞は、結構無名人であったと思われるのだが。(比叡山にも、彼の記録はないようだし・・・)

 彼は変革の時代の変革の当主ではなかったように思うのだ。親鸞の宗祖という扱いもみんな後の時代の産物で、彼の生きた時代に根付いたわけでもないと思う。
 いずれ越後に流され、関東に移住してそれなりの足跡は残すものの、彼は弟子も持たず、寺も持たずを貫いている。そこには自分で集団を率いて改革とは思っていなかったとも思うのだ。関東に移住してから「顕浄土真実教行証文類」通称「「教行信証」を書くのだが、これも彼は広く世に出しているようには思えない。

 書き始めると止めどもなく違った方向に行きそうなので、ここで止める。
 とにかく書きたいことは、『親鸞はそんなにお馬鹿だったの?』だ。  

Posted by 生田 at 08:38Comments(0)TrackBack(0)小説の話
  
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 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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