2009年08月06日

ナニコレ? 珍ではないけれど・・・

 前から気にはしていたけど、ショットはしていなかった。
 昨日、勇気をふるってショット。
 神社ではありません。
 日蓮宗のお寺です。
 絶対に神社と間違えます。



  

Posted by 生田 at 14:53Comments(2)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年08月06日

五右衛門をゆでたか?

 4時ごろからぱらついた雨、ひどくなるかと思ったので、仕事を早仕舞いして・・・

 4時45分実家を出たら、あれ???降ってない。といっても、いつ降りだすかはわからない。まぁ、傘を持っているので、歩けいることまで歩こうと、東に向かった。
 途中で前に紹介した「塩釜神社」の横を通った。大きなお釜が合ったのだ。前に紹介したときに写真をのっけておけばよかったものを。




 実はこの釜、私あの小さいころにはなかったのではないかと思う。何せ、記憶に待った残っていないから。いつごろからあるのか不思議。
 それにしてもでかい釜だ。ご縁門をゆでた釜もこの蔵あったかと想像させるくらいの大きさ。

 釜は何するためのものなのだろう。「塩釜」というからには、塩を作るために海水を具タグ他似るときにでも使うということなのだろうか?
 きちんと調べなければいかんなぁ。。  

Posted by 生田 at 00:18Comments(2)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年07月25日

名古屋を歩く 白山神社

 昨日は、5時を過ぎてから歩き始めた。PCの調子がおかしくなったので、背中にしょって大須観音まで歩いたのだ。おかげで汗だくだく体重は何と1キロ以上も減ったのだ。

 歩いたのには訳があり、岩井通りにある白山神社に立ち寄ろうと思ったから。
 
 水主町の交差点から東に向かう通り、六反のガードから西は、運河通で、多分六反から東が岩井通りというのではないかと思う。水主町は中村区、岩井橋を超えると中区になる。
 この岩井橋を超えて少し東に行くと通りの北側に神社がある。これが白山神社。(道路の反対側には、車屋さんが何軒かあるよ)





 この神社を記憶していたのは、昔々名古屋を市電が入っていた頃二個の神社の前に停留所があったのだ。その名を『白山神社前』という。そのまんまだ。水主町と西大須の中間と言うことになるのかな?でも、水主町から近すぎやしないかなぁ。でも、昔の話だ。

 鳥居をくぐると正面に階段があり、右には御字かになるのか緩い坂がもうけられている。階段の前に狛犬が一対。

 


 階段を何故か避けて、右手の坂をあがってみた。本殿も前にもチョット小ぶりの狛犬が一対。

 


本殿を前に2段構えの狛犬に ん? という気分。

本殿も一枚撮ったけど、もう薄暗くなってフラッシュが届かず、それに何故かぶれたので、ボツ。

本殿の左側(西側)に広いところがあって、その北にもう一つの神社が。神社って、どうしていくつも一緒にあるんだろう?神さんがたくさんいるからしょうがないけど、なんかなぁ・・・・



 白山神社って、申し越し期待をしたのだが、何となく期待はずれだった。本当に何となく。

 日吉神社の左手から裏に回った。その鳥居と石柱に明治と昭和の年号が刻まれていた。明治は四四年で大正に変わるとき、昭和は八年だから現在の天皇さんが生まれた年になるのかな?

 おそらく寄進した人が何か思うところがあっての年なのだろうが・・・


 私の地元ではない神社。それにあまり人の訪れていない神社。セミの声がものすごく大きかった。前を通る岩井通りの車の音が気にならないほど。


 この神社の北側は、少し高台になっている。そして子供が遊ぶ公園がある。春には桜が少し楽しめるところでもある。  

Posted by 生田 at 18:17Comments(0)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年07月17日

明治橋 知ってます?

 何度となく通っている笹島の交差点。昔からの記憶の中にこのあたりにも橋があったというかすかな記憶、いやそれは柳橋の交差点の近くだったろうか?
 柳橋の交差点の名前の由来は、あの近くに「柳橋」という橋があったからと聞いている。交差点の少し南だと思う。笹島の交差点の少し南にひとつ信号があるがその東西の通りが川だった?のだろうか、ここにも「明治橋」という橋があったらしい。らしいというのは、私が知らないから。


 今日、歩いていてふと気づいたのが、写真の2つの石碑。ここには「明治橋」という橋の名と「明治33年」と言う文字が刻まれている。
 いつまであったのかは知らないが、本当に子供のころ、このあたりを歩いているはずだが、端や川があったという記憶はまったくない。思い出されるのは、信号のない時代に、尾も割り山河交差点の中央で台に乗って交通整理をしていたことだ。
 **その当時は、ミッドランドのあたりには、木造の大きな建物があったと思う**
  

Posted by 生田 at 13:10Comments(0)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年07月13日

思い出の米野陸橋

 最近になって あおなみ線 を利用することから、あの笹島ライブの周辺を見ることになり、目に入ってくるものから、子供のころのことを思い出したりする。



 写真は、笹島ライブのコンコースの外、エレベータの横から西の方角を望んだもの。写真が小さいのでわかりづらいかもしれませんが、上下中央、左右中央の少し左に黄色いアーチ橋が見えます。この橋は、中川区と中村区の架け橋、昔は歩いてこの橋を渡りました。当時は車の通れたのですが、今はどうかな?かなり老朽化しているだろうから車の重みには耐えられないかも、それ以上に幅がそんなに広くなかったはずなので、通らないほうがいいかな・・
 本当は一度歩いてみたいと思うのだけど、実家からここを経由して名駅となるとかなりな遠回りになるの、まだ実現していない。今は歩くとかなり汗をかくので、秋にでもなったら歩いてみるかな?

 実は、今笹島ライブ駅の南側で工事が進んでいるが、確か駅の下に道路を作る計画ではなかったかと思う。昔は、このあたりを「笈瀬川」という川が流れていた。名駅南の笈背通りから南に線路の下をくぐり、現在のリンナイの本社と大東ケンタクの間の斜めの道を通り中川運河のほうに流れていた。たぶんにこのコースに近いところに道路の計画があったと思っている。
 できると名駅西からタウンが通りに抜けて、そのまま1号線、23号線に抜けられるるようになる。今は黄金の陸橋を超えなくてはならないから、かなり楽になると思うけど。

 時代の流れは、子供のころのいろんな思い出を壊してくれるが、米野アーチ橋はいつまで残るかなぁ???  
タグ :米野の陸橋

Posted by 生田 at 10:51Comments(0)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年07月04日

怒・何だ これ? 仁王門通り

 盬竃神社から真っ直ぐ東に歩く。日置橋を渡って坂を登って。。
 途中で一本北の通りに入ってまた東進。19号線で通せんぼされるので、致し方なく大須スポーツセンターにいく西大須の交差点を渡る。そのまま90度折れて交差点を北に渡って、大須観音の方に行くのだが、参道を通らずに一本東の道を北上。そして、仁王門通りに抜けた。

 万松寺通りと同じような幕が下がっているなぁ。。。だけど、何か雰囲気が違う。それに閉まっていす店もいくつか。やはり昔の風情がないようだ。ポルトガル語かスペイン語みたいな言葉が飛び交う店もいくつかあったような。





さて、その最後の方で何やらうさんくさい集団がやってきた。デジカメを持って周りの情景を撮っている私を見つけて「撮るな」という。何を言うか、おまえさんたちの集団を撮ってるんではないわ。それに撮っていかんのやったらブルーシートで周り囲って通過すればいいじゃん。ただの通行人の邪魔をするなよ。怒怒怒
 証拠写真。ただし、ぶれてしまった。
 子供の三輪車を数人の男が漕いでいた。それをカメラが何台かで撮っていた。何していたのかは知らないよ。興味ないから、あんな薄汚いの。


  

Posted by 生田 at 00:07Comments(2)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年07月03日

名古屋を歩く 盬竃神社(中川区)

 今日は、三時を過ぎてから雨がぱらつきだした。仕事もさほど急ぎでもないので、雨が本降りにならないうちにと歩き始めた。

 生まれ育った学区の中にある神社。盬竃神社(しおがまじんじゃ)に立ち寄った。
 名古屋に塩竃神社は2ヶ所あることは知っている。地下鉄鶴舞線の「塩釜口」のいわれとなっている八事表山にある「塩釜神社」と、今回立ち寄った中川区西日置にある「盬竃神社」だ。



 この神社は、私が育ったところだからそれなりの由緒は知っているつもりだったが、由緒ガキ見て、「あらま、知ってないわぁ」だった。



 子供の頃のこの神社は、かなり大勢の人を集めたものだ。今回も書いてあったが「赤丸」という虫封じだっけな、あまたの真ん中に赤い印をつけてもらう。これは子供がしてもらうものと言うことだったのだが、小学校の何年生頃だったか、つけたことつけない子に分かれ始め、つけてない子がつけている子を「まだ赤ん坊だぁ」とはやし立てたものだった。私はどっちだったかなぁ?
 そして、もう一つは「輪くぐり」というもの。わらで作った大きな輪っぱの中を通って、無病息災を祈願するというというものだったと思う。
 今でもやってはいるようだが、何せ私の子供の頃とは子供の数が違う。集まってくる子供の絶対数がもう10分の一くらいになっているんではないだろうか。これではお賽銭もねぇ。。。。

 



 そういったことからかな?今は境内に駐車場になっている部分がある。もっともその駐車場の一部は、元・広見交番だったのだ。今は警察の交番整理のあおりを受けて、中川区でも一番早いくらいに交番がなくなっている。その後が駐車場になっているのだ。

 この右の写真には、名古屋城築城に際しての記述があった。ただ、石切場としては前に紹介した通称・運河神社=金比羅神社が紹介されていた。






 写真の神馬。いつできたのかな?確か、戦争で取り上げられて鉄砲の弾に使われたはずだから、子供の頃はなかったように思っているのだが。故郷に戻ってきたら、いたよぉと行ったところ。でも、記憶違いかも。

 この神社では、昔は子供相撲大会もありました。私も一度出ようとしたけど、なぜか試合が途中で、私の出番なく打ち切られた記憶がある。また、昔々は西日置商店街もかなり盛況で、年末などは福引きもあり、その福引きはこの盬竃神社の境内で行われた。私はくじ運がよかったのか、いつもいいものを当てていたようで、親や親戚筋からくじを引くのを頼まれたりした。 そのときにくじ運を全部使ったようで、宝くじが当たんないよぉ。(神様、もう一度お願い、一度でいいから1億円を)

 早々、私が小学校の5年生の時、叔父夫婦がここで結婚式を挙げたのだ。私も出席したよ。
  

Posted by 生田 at 22:08Comments(6)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年06月27日

名古屋を歩く 山王通 2

 露橋といっても、線路の東なので私の頭の中は完全に「山王」の神明社。線路ができる前は露橋だったのだろうか?今は地図では「山王」という地名になっている。ということは私の頭の中には間違いはないか。。

 山王の交差点は、前にも書いたように都市高速の工事中。そういえば先日のゲリラ豪雨で少し南の尾頭橋辺りが水没したのだ。ひょっとして、この江川線は堀川の水面よりも低いのかな?
 ネットでいろいろ読んでいたら、「江川線」は元々「江川」という川だった、それを埋めて道にしたとあるが、それが本当なら何故「堀川」をあえて作ったのだろう??城を造るのに必要だったとしても、元からある川を利用すれば楽だったはずなのだが。疑問。

 山王橋を渡る。立派な石の欄干の隙間から堀川が見える。なんと材木が浮かべてある。なにか非常に懐かしいものを見た感じだ。

 伊勢湾台風までは、当たり前の風景で、堀川は船が通れないほどぎっしりと材木が浮かんでいた。つまり堀川は貯木場だったのだ。
 南部の貯木場が堤防の決壊で名古屋でもかなりな死者を出したことから、名古屋の貯木場は飛島に移された。堀川の貯木もそちらに移った。だから、貯木されているとは思ってもいなかった。それがこうして少し残っているとは。

 高速の工事の下を通りつつ、橋を渡り、孫が通うスポーツジムを左に見ながら東に向かう。先日昼飯に食べたラーメンの「こくや」を通り過ぎる。張り紙がしてあって、近日中に夜間営業をするとのこと。


 信号を一つ超えると右側に大きなマンションがあるが、この裏手(’南側)が稲荷神社になっている。あることは知ってはいたが、来るのは初めて。さっきの神明社に比べればきれいだよぉ。ひょっとしてマンションはお稲荷さん経営?

 
ここの狛犬はかなり小さいですよ。

 実は、前に書いた「クスノキ」の伐採は反対の話はここの稲荷の中と思い込んでいたのだ。それで行ってみるかという気になってきたのだ。しかし、大きな木はあるけどそれらしい「クスノキ」は分からずじまい。記憶違いかな?


 本殿はそれなりの大きさがある。ヘタスりゃぁ、私が大阪に住んでいた頃の近くにあった有名な「瓢箪山稲荷」よりも大きいのではないかな?でもなぁ。。。何か雰囲気が冷たい。まさか狐さんは冷たく感じるからそのせいでは?ならば瓢箪山も冷たくてもよかったぞ。あそこは冷たくなかった。
 今日は暑いから、少しは冷たくてもいいか。。まいっか。

 本殿に向かって後ろが正面の鳥居。前の神明社に続いて裏から入り込んだようだ。ん??2つの神社ともに、東が正面???なんで???瓢箪山のお稲荷さんは西向いてたぞ。熱田神宮は南だし。ん??
 
ここの狛犬は小さくないよぉ
  

Posted by 生田 at 07:46Comments(2)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年06月27日

名古屋を歩く 山王通 1

 一昨日に続いて今日も実家からの帰りに金山まで歩いた。

 ルートは、山王通を東進して別院の交差点まで、そして大津通を南下して金山に至る。


 昔は、ドラゴンズの本拠地が中日球場(=ナゴヤ球場)にあったときには賑わいのあった名鉄「山王」駅。当時は、「中日球場前」駅だったかと思うが、私にはあまり縁のない駅だった。
 柳原橋を渡って、山王通りに出て左折。そして新幹線、中央線、東海道線、名鉄のガードをくぐると駅に出る。そういえば、昨年の今頃はまだ敬老パスをもっらっていたなかったので、交通費を抑えるために神宮前から山王までを名鉄で通っていたのだ。もう一年も前・・・

 今日は駅の東の通りの交差点の舗装工事をしている。歩道を歩けないなんて言ったら、青になったら渡っていいと言われ、まだ熱い熱いアスファルトの上を歩いた。
 少し行ったところで右を見たら、神社がある。へぇ??こんなところに神社があったの?だいたいこの辺りを歩くなんて事はなかった私だから、知らないと言えば知らないのが当然。山王中学に通っていたら知ってはいただろうが・・・
 少し戻って南に入る。どうも裏側に回ってしまったらしい。鳥居をくぐって中に入る。


 神社の名前もこれでは分からない。ただただ、古いなぁと思うだけ。
 境内に入ると、何本かのクスノキがある。全てが「保存樹」と書かれているようだ。数年前、この辺りで「クスノキの伐採」の反対運動があり、伐採しなくなったことがあったことを思い出したが、ここのこと?私の記憶では古渡交差点(東別院の西)の近くだと思っていたけど。かえってからネット検索しても該当するものに行きつかんないので不明・・・・

 
 本殿は結構きれいにされている。多分にどなたかが管理なさっているからだろう。と、ここでも神社の名前が分からない。(知ろうとしないから分からないのかも)


 写真を見ておわかりかと思うが、石灯籠などはかなり古くて地震でもあったら即崩れそうなので、あちこちの灯籠が転倒防止の鉄の枠で保護されている。地震はいつ来るか分からないものなぁ。。


 本殿に向かって後ろが本当の正面の鳥居らしい。この鳥居には建てたのが大正で「名古屋市中区露橋」なんて彫り込まれていた。ひょっとしたら、まだ中川区が完全に名古屋市に編入されていない頃のことなのかもしれない。


 

 この鳥居を正面から見て初めて「神明社」という名前であることを知った。石柱には「村社」と書かれているがやはり編入前の村の状態を思わせるものだ。


 神社を出て山王通りに戻り、また東に向かって歩いていく。道路左手には一昨年だっけにできた「喜多の湯」がある。まだ五時前という時間なのに、結構車いるわ。
 
 山王の交差点は、目下都市高速の工事中である。南北の幹線と別院方面からの西行きを南に乗り入れるカーブを作っている。チョットきついカーブなので、完成して走り始めるとまた自己が出る地点になりそうな気がする。
 名古屋の都市高速は、高速道路ではないので、スピード出すとカーブでは曲がりきれないので、ご注意を。(公にされることはない設計速度。最高速度六十キロだから、カーブの設計速度はせいぜい速くても八十キロだと思うけど、どうだろう?)  

Posted by 生田 at 00:15Comments(0)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年06月25日

古渡・闇の森八幡社 名古屋を歩く 尾頭橋の意味も

 堀川に架かる古渡橋を超えると中川区から中区に入る。そして、名古屋で絶対に水没しない高いところにあがっていく。金山から名古屋市役所の大津通は、名古屋の一番高いところではないだろうか?

 古渡橋から少しカーブしながらあがっていくと右側に向かしチョット荒れていた「伊勢山中学校」があり、sの反対側(道路東を向いて右側)に八幡社がある。
 この八幡社は、「社」となっているが、かなり由緒ある神社で、何故八幡宮と名乗らなかったのかが不思議。





この神社は、鎌倉幕府の「源氏」ゆかりの神社なのです。ということで「八幡」なのです。由緒が木の考察にもあるように、奥には源為朝の使った鎧を納めたという鎧塚があります。




この右に明治時代に書き込まれた石碑があり、由緒が彫り込まれています。この中に「為朝」のを見ることができます。


一番右の行に「為朝」の名があります。


この八幡社は、為朝とは切っても切れないものがあるとのこと。為朝は伊豆に流されたのだが、そこで子供をもうけ、その子が密かに名古屋の地に移り住んでいて「尾頭」と名乗り、この辺りを治めたとのことです。



 






** 
 源為朝は、別名「鎮西八郎為朝」といい、源平の戦の前哨戦というべき保元の乱で活躍した源氏の武将で、弓矢に長け、左右の腕の長さがかなり違っていたと言われている人物。
 意外と知られていないのは、源頼朝が名古屋の熱田の生まれであると言うこと。またその父義朝は、知多で暗殺されている。  

Posted by 生田 at 00:16Comments(2)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年06月24日

小栗橋から金山橋 名古屋を歩く 鈴木バイオリンなど 

 今日は、実家からの帰り金山まであることにした。

 中川運河の来たら3つめの橋=小栗橋を渡り東に直進。細い道、昔のままなのだ。ここには日本での有数、有名なバイオリンメーカーがある。「鈴木バイオリン」という会社。私が生まれる前からあるみたい。


 日本でバイオリンというと必ず名前が出てくる会社だ。おそらくこんなところにあると走る人でないとといったか何時かもしれない。

 右の写真は、上の写真の中央から中を見たところに見つけた銅像。多分創業者の鈴木社長ではないかと思う。かなり前からあったように思うけど。
 今は前に無粋なものが置いてあったのが気になる。

 実は、どの位の方がご存じなのか分からない。名古屋は結構楽器やら時計のメーカーがあったところ。堀川沿いに材木を扱うところが多かったことで、置き時計や楽器のボディーを作る材料が手に入りやすかったと言うことなのかもしれない。
 今は時計メーカーさんはほとんどなくなったみたいだけど、私の同級生の家は時計メーカーの社長だった。小学校の時に、そこの工場の見学に行った記憶もある。
 楽器では、ギターで有名は春日楽器も元は名古屋、六反小学校の近くです。(民社党の親分だった春日一幸さんのご実家でなかったっけ?)


 この通りを真っ直ぐ行ったところで、自転車に子供を乗せた女性に声をかけられる。「小さい子供を見なかったか?」と。残念な柄子供の姿は見ていない。血相を変え、涙ぐんだ表情からは子供さんが行方踏めになったらしい。「警察に電話した方がいいよ」と話していたら、後ろから来た男性が「子供なら小栗橋の向こうで、女性が連れて歩いていた」と。まさか誘拐ではないと思うが。九段の女性は自転車にもう一人の子を乗せて急いで小栗橋の方に。無事見つかるといいのだが。

 そのまま道を直進、といっても道なりにくねくね行く。戦争で広見学区はかなり焼けたけど、このあたり露橋学区は焼けていないせいか、昔のまんまらしい。チョット曲がったところで二つの神社のなが掲げられた祠に出会った。名鉄の山王駅から歩いて5分から10分の間のところ。そんなところにこんな空間があるとはねぇ。

 柳原橋の南北の通に突き当たって、少し南の道を東進。どこもかしこも何となくのんびりしている。昔は、名古屋=中日球場をドラゴンズが本拠地としているときは、シーズン中は人がいっぱいいたところ。今は本拠がドームに移ったので、閑古鳥が鳴いている。たくさん店が潰れたみたいだ。これも時代の流れ。

 さて、線路の下をくぐらねばならない。いくつかあるが、一番高さの低いところを通ることにした。ここでうまくいけば新幹線がとれないかと画策。。。残念ながら逆行なのであきらめた。それにすれ違う人が変な目で見ていくからもあって止めた。
 といいつつ順光のところで中央線をショット。しかしケイタイは早いやつは苦手なのだ。ボタン押してからシャッターが切れるまで時間かかるからどうしてもミスショットになる。 悲し




 ここはおもしろいところで、ここの少し南で中央線が東海道線の下に潜り込むところ。
 昔々、小学校の5年の時。新婚早々の恩師のお宅に悪友と行くことになったのだが、線路を越える場所が分からず、東海道線、中央線を歩いて乗り越えたことがある。今は金網があるのでできないが、昔は電車の本数も少なかったし、人が簡単に入れたので、怖いもの知らずで、止むに止まれずやってしまった。もう50数年も前の話。

 ここから山王中学の横を通り、古渡橋を渡って東進。そして、八幡社に詣でた。(これは別に書きます)  

Posted by 生田 at 21:49Comments(2)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年06月12日

名古屋を歩く 中川運河堀留から笹島ライブ

 今朝の移動でいつもの堀留コースを。
 戦時までは気付かなかったが、今日は、堀留から笹島ライブ駅煮を見たら、重機が数台入って工事をしている。愛知大学のキャンパス設営工事だろうか? 後数年するとこの辺りは大きく変貌しそうな気がする。


中央奥のほうが『笹島ライブ駅』です。

  

Posted by 生田 at 16:15Comments(2)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年06月04日

名古屋を歩く 白川公園 2

 白川公園は、名古屋の真ん中にあってこれだけの緑があるというのは、いいところだ。東京には日比谷公園、それに皇居があるからなぁ。
 名古屋はほかには、鶴舞公園、名城公園かな?




 ただ、ここの公園の真ん中は木が植えられていない。何をするのか。時折開催されるイベント用に植樹されていないのだろうか?

 昔々、ここには米軍のキャンプだった。私が中学時代には、ここには米軍の軍人の家族のかまぼこ形の住宅が並んでいた。子供たちが遊んでいたりするので、学校の帰りにからかってみたり・・・・
 それからどのくらいの年数がたったのか。。。もう50年は過ぎている。伊勢湾台風の時にあったかどうかの記憶はない。(伊勢湾台風は私は高校1年)
 今は、米軍のキャンプはないが、一時この公園の南の高速の下にホームレスのキャンプ(?)があったが、今はそれも撤去されている。と、完全にはいえないのだな。あちこちに青いものが点在する。






 この公園の美術館より、美術館の東、北は多くの木で涼しい木陰ができている。




 その木陰を利用して、近くの幼稚園の園児だろうか、遊んでいる。車来ないからいいよなぁ。いや、自転車が結構通るか、完全に安全とはいえないか。




 目下科学館は改修工事中なのかな? その南にある日時計が、もうじき来る待ち合わせ時間を指している。
  

Posted by 生田 at 10:20Comments(0)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年06月03日

名古屋を歩く 白川公園 1

 昨日、だまし絵展を見るために名古屋市美術館に行ったのだが、待ち合わせの時間までにちょいと空きができたので何枚かの写真を撮った。まずは、ケイタイで取ったものを数枚。



美術館正面入り口


 亡くなられた建築家・黒川紀章 さんの作品な訳だが、正直彼の作品は好きではないのです。この作品でもそうですが、何故こんな細い柱の誘導部なのか? 彼の作品としては細い方の部類で疑問なのです。



 中央の赤いものは、建築とは関係のない美術心で、美術館の前に配置するものとしては問題はないのだろうが、一見遠くから見ると、赤いハイヒールの大きいのが置かれているという印象。芸術的感覚の無いと批判を浴びそうだなぁ。。
 しかし、この赤いものを見て、赤い靴、そして、昔々のバレリーナのモイラ・シアラー主演の映画「赤い靴」を思い出してしまった。私が小学校に入る前の映画でなかったかと思うのだけど、大学の時にリバイバルを見に行って(周りが女性ばかりで気恥ずかしかった)、あとはTV で放映があったときにも見た。
 赤いバレーシューズを履いたら、踊り続けなければいけないという話。

 話が横にそれた。
 このショットは、正面入り口のエントランスの側面。何のための格子なのか?何かの目的を持っているのだろうが、その目的が今の状態では不明。美術館と言うことで、造形にこだわったと言うことかな?


 次回は、デジカメのショットを。  

Posted by 生田 at 10:35Comments(0)TrackBack(0)名古屋を歩く

2009年06月01日

中川運河 東海橋

 本当はもっと橋らしいものを取りたかったのだけど、何せPCの検証用のモニターを抱えているので橋の上まで行くことあたわずで、バスを待つ間の数分で橋の方向を向いてのショット。

 





 この写真の左の電柱に「新船町」という町の名前あるが、中川運河の「長良橋」から南の両岸の町の名前は、運河の東には「川」が、西には「船」の文字が含まれている。これは、南の「いろは橋」までの間に適用されている。
 おそらく運河ができる前は同じ名前の土地だったところを、運河で分けたことで位置がわかるようにつけたのではないかなどと私は想像している。
 この東海橋の西が「新船町」で、橋を渡って東に行くと「新川町」になる。

 むかし、名古屋駅から運河沿いに走っていた市バスは、昭和橋で折り返すものと、稲永新田まで行くものとがあったが、今は両方とも足を伸ばし、昭和橋折り返しは「東海橋」までとなり、稲永新田行きは「野跡」までに伸びている。しかし、ここの沿線の住民は昔に比べるとかなり減っているのではないかと思う。工場地帯となってしまった間があり、ラッシュアワーの時でも、昔のように積み残しと言うことは少なくなったのではないだろうか。
 **そういえばもう一つの系統があったなぁ。名古屋駅から名古屋港に行っていたのだ。地下鉄ができたおかげで、これはなくなってしまった。**

 東海橋と言えば、私の子供の頃、といっても高校生くらいまでは、結構遠いところという印象だった。今日ほんとうに久しぶりにバスで東海橋まで行ったが、やはり結構時間がかかったと思ったものだ。
 自分の車で走るときはさほどの距離感はなかったが、バスとなると、また別な距離感になるものらしい。
  

Posted by 生田 at 23:10Comments(0)TrackBack(0)名古屋を歩く
  
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 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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