2023年04月08日
4月8日 土曜日 曇り 冷たい北西の風 12年なんてまだまだ
NHKのドラマ「北斎の娘」を見た
宮崎あおいがいい女優になったなぁって
それにこのドラマ
キメの細かい映像で
さすがNHKと思ったのもだけど
アルコールを一時止めることにしたので
(大した量でないけれど手術のため)
寝つき悪かったな
それでも
何よか夜中1度起きただけで朝7時まで
一旦起きて新聞入れに出たが
もう一度寝ることにして8時半まで
朝飯は
いつもの肉と卵と
トーストにはブルーベリージャム
コーヒーは薄めて
足りないなぁ
食べ終えて
ランタン出して庭のショット
昨日の雨と風で
ソメイヨシノは全く花びらがなくなった
終わる花があれば
これからという花も生まれる
オオツルボが咲き始めた
小さい花の合体で
一つ一つ咲いていき
全部揃うと結構見映えする
ツツジも日に日に蕾が
大きくなっている
ツルバラの蕾も
大きく膨らんできた
でも
まだまだ固いね
コクタン の花だけど
咲くようには見えないよなぁ
開花はまだ先だと思う
ヤマザクラは
終わった染め吉野と交代で満開
昨日の風にも耐えたようだ
フリージアも満開
細い茎は昨日の風で
倒れる寸前まで担っている
小さい巣黄色いスイセン
スイセンはこの2輪だけになった
紅葉の花も
話べだけが多くなってきた
まだ種は・・・
観測用の柿の葉ですが
大きくなってしまって
近くからのショットでは
入り切らなくなりつつある
でも花はまだ先だもんなぁ
いつもの西上空です
こんな薄曇りで
冷たい北西の風が吹いてます
今日は
別記事に書いたように
前立腺末期癌宣告から12周年の日
12年の生存
PSA0.009未満が続いて軌跡だそうだけど
12年なんて通過点だと
自称余命20年3ヶ月
がんと仲良く過ごします
2023年04月08日
祝 末期・前立腺ガン宣告 12周年
末期の前立腺癌を宣告されたのは、何の因果か知らないけれど、あの東日本大震災の年のお釈迦様の誕生日、誕生会(花まつり)だった。
大震災は3月11日だったけれど、私の体の中での激震から大津波はもう襲ってきていたらしい。ただ自覚症状全くなく、たまたま2月に特定検診(通称メタボ検診)を受けた際にワンコイン=500円で受けられる前立腺癌検診を何となく受けることにした。
特定検診の結果を聞くのは一月後ということで、何の心配もせずに一月を過ごした。
そして一月後に結果を受け取りに行った。診察室でドクターは、それまでに見ていれば連絡くれたのかもしれないが、多分私が受け取りに行ったから初めて見たんだろう。血液検査の結果を見て「398だ?なんだこれ〜」と言ったのだ。そして「前立腺癌の疑いがあるので、大きい病院で見てもらえ」と。その時の記憶ほとんど残っていない。たぶん「がん」という言葉で頭の中真っ白になっていたのだろうと今更ながら思う。しかし、家に帰ってPSAについて調べて、標準値が3前後だと知って、単位の間違いではないのかとすら思ったのだが・・
紹介状を書いてもらって、数日後に大病院に。そしていろいろ検査、採血して後日再審を受けることになった。再審に出かけ、担当ドクターから「精密検査の必要があるので入院してください」と。
指示に従っての検査入院。あまり記憶に残っていないけれど、検査室で針を12本打たれて、そのうちの9本に癌細胞がついていたと、後々分かったのだ。
検査入院から20日くらい経って、その結果を聞きに行ったのが12年前の今日4月8日だったのだ。「ステージIVの末期癌」と言われた。当たり前だなぁ。12分の9の癌細胞、それに大病院での最初の血液検査ではPSAはすでに500を超えていたのだから。
そしてこの後放射線科の所見を聞いたりした結果、「放射線は多臓器にあたるので不可」そして「手術はた臓器に浸潤、癒着しているのでふか」との宣告。残されたのは”ホルモン療法だけ”と言われた。
私はその時、「セカンドオピニオンを」とドクターに申出したのだが、ドクターは「これしか方法ないと思いますが」と言いつつ、紹介状の準備に入ってくれたようだ。
そして翌日、消化器系のドクターの友人のクリニックに行き「セカンドオピニオンどこで取ったらしい?」と相談したのだが、友人から帰ってきたのは「お前なぁ、セカンドオピニオンは必要ないわ。これしか方法ないぞ」と冷たい回答(本当は暖かいんですけど)。ということで、この友人の言葉が正解のセカンドオピニオンになった。そして数日後に大病院に行き、セカンドオピニオン取らないことになった旨を連絡、そして5月の連休明けから治療開始となった。
腹にゾラデックスを打ち、毎日過疎デックスを服用するという、ホルモン療法が始まったのだ。最初は一月おきに空デックスをうちに病院に行く、そして血液検査でPSAの値を観察する。
ホルモン療法開始食後は、まだPSAは上がっていて同じ月に最高591を記録している。それから1ヶ月後の採血と診察で、PSAは495に下がっていた。この時のドクターの言葉は「これで行きましょう」ということで、完全に治療方針が決まったのだ。
そして5ヶ月後には、PSAは0.1台に落ち着いたのだ。
12年の経過を描くつもりはない。過去の記事で「奇跡の軌跡」という連載をしたいるbので、そちらをご覧いただきたいです。