2016年10月10日

仏さんに惚れ込んで。。。9 浄瑠璃寺 童子像

 浄瑠璃寺は、何度訪れたことだろう。おそらく10回くらいにはならないかと思う。
 最初に訪れたのは、御多分に洩れず大学の古美術研究旅行(この後。古美研)の時だから、もう50年も前の話になる。それから大阪在住の時に2度、名古屋に引っ越してからは、家族と3度、一人で1度、学生と2度だから、9回の記憶はあるが、そのほかにもあったようなぁ。。。

 だいたい浄瑠璃寺といえば、九体の阿弥陀如来、もしくは吉祥天を思い浮かべる方が多いかもしれないのだが、私には強烈なショックを受けた仏像として、不動三尊の矜羯羅童子像が一番印象に残っているのだ。
 古美研で7月の暑い日に訪れているのだが、岩船寺が先だったか、浄瑠璃寺が先だったかは覚えていないが、とにかく浄瑠璃寺に入って一通り九体の阿弥陀仏を見た後で、本堂の外を見て回っているときに障子の隙間から一体の像が見えたのだ。何だろうとのぞいて見たところ、ものすごく可愛い像が立っていた。すごいショックを受けた。何でこんな可愛い像が、こんな片隅で忘れられたかの様に置かれているのだと。
 そのショックは、今も引きずっている。浄瑠璃寺に行くたびに、その像を探すのだから。

 その像は、矜羯羅童子。浄瑠璃寺の不動明王三尊像の一体なのだ。今でこそ結構取り上げられる機会が多くなっているものの、それでも浄瑠璃寺の本堂の中の居場所は片隅でしかないのだ。
 寺伝によれば、元は他のお堂の本尊であったものが堂の消失によって本堂に来ているとか。そして作者は仏師康円と言われている。
 大きさは、不動明王が99センチくらいで不動明王としても大きくはなく、その中で矜羯羅童子は50センチくらいだから、可愛いものだ。

 私は、真言に出てくる不動明王やら愛染明王というのは、なぜか苦手とする仏の中に入る。なぜ苦手かと問われるとはたと困るのだが、多分にあの不動さんの怒り顔が何もしていなくても後ろめたい気分にさせられるからかもしれない。その苦手な中にあってのあの可愛さは一体何なのだろうと。
 写真は、古美研の時に撮っているのですが、残念ながら今は行方不明なので、美術全集からお借りしました。私が撮った写真は、像の左側からのもので、あの祈る合唱する姿は忘れることはできません。
 いつかもう一度いってじっくりと見て、もっとしっかりと記憶に残して、向こうの世界に旅立ちたいものを思ってます。それにしても、もうすこし表に出して見せていただけるといいんですけどねぇ。。。

   

Posted by 生田 at 16:20Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年10月09日

仏さんに惚れ込んで。。。8 東大寺 戒壇堂 四天王

 先回は、特に特定の仏像のことは書かず私の阿弥陀如来への想いを書いた。今回は、過去に訪れている寺の中で印象に残っている仏像について書くことにしよう。

 中学、高校が仏教系の学校だったこと、大学が美系だったこともあり仏像に接することは多かった。といっても高校までは仏像に対する美的意識は皆無だったかなぁ。ただ何故か中宮寺の半跏思惟像に惚れ込んでいるのだが、それが何故惚れ込んだのかはわかっていない。
 今思い出すと、その時小学校の恩師宅を訪れ和辻哲郎の”古寺巡礼”を借りているから、やはり美的感覚とは別な意味で何かを感じる様になっていたのかもしれない。

 大学の3年の時、夏休み中に京都と奈良の寺などをめぐる”古美術研究”という授業の一端があって1週間京都と奈良を巡って多くの仏像などに接している。その時には、今の私の心にあるものとは違った印象を持ったのかもしれないが、このシリーズ第2回目で書いた法界寺の阿弥陀如来や第3回目の室生寺の十一面観音は全く記憶に残っていないのだ。
 その反面、今でも記憶にしっかりと残っているのがいくつかある。5回目に書いた秋篠寺の技芸天、第6回の法隆寺の百済観音がその中にある。そして、今でもしっかりと画像が浮かぶほどに残っているものの一つに東大寺戒壇堂の四天王像だ。

 今でこそ戒壇堂と呼ばれているが、そう言う様になったのいつ頃かは知らないが、昔はそう20数年前に訪れた時も”戒壇院”と呼ばれていた様に記憶している。
 戒壇堂は、これまでに4回訪れている。昔は拝観料を払うこともなかったかと思うから、東大寺に行った時には寄ったのかもしれない。
 最初に訪れたのは、大学の古美術研究(この先”古美研”と)旅行の時だ。当時はまぁ東大寺の中でもマイナーなお堂で薄暗い古いものだったし、周りにあんな立派な兵はなかったんではないかと思う。しかし、中に入って、安置さている仏像を目の当たりにした時、かなりなショックを受けたことは確かで、あの生き生きとした、生身の人間とも思える顔の表情やら立ち姿は、私の造形力をはるかに超えた力を感じたからだ。正直、あの薄暗さの中では、全てがモノクロに見えてしまいそうだから、あの姿は今にも動き出しそうな感じさえする。

 訪れたのは、それから大阪に就職して1度、結婚前の家内をつれて一度、そしてもう一度家内と早朝に訪れているので古美研も含めると4回になる。

 今は、あのショックを受けた四天王の代わりに、円空仏の四天王の模刻をしたりしているが、到底その姿は同じにはならないし、私の今の力で彫ることも作ることもできはしない。

 実は、古美研の時に写真とスケッチを許可された上でしているのだが、残念ながら合間その写真の行方が分からなくなっているので掲載できない。いずれ探し出して、載せてみようと思ってます。  

Posted by 生田 at 11:45Comments(2)TrackBack(0)寺と信仰

2016年09月27日

仏さんに惚れ込んで。。。7 阿弥陀如来

 仏さんに惚れ込んで」とタイトルしながら、惚れ込んだ仏像のことを書いてきた。しかし、仏像はあくまで仏像で、それを崇め奉るとなると、それは”偶像崇拝”なんて言われそうだ。
 私は、仏像の前で手をあわせる。とはいうものの、それはその仏像に対しての合掌ではなく、その仏像を製作した仏師に対して、仏の心をいかに伝え、表すかの制作行動とその気持ちに合唱しているのだ。まぁ言うなれば美的表現力に対しての感謝の気持ちと言ってもいいかもしれないが。

 しかし、これだけが「仏さんに惚れ込んで」ということではない。実際には仏の教えの中に惚れ込んでいるものもある。その最たるものが阿弥陀如来。
 阿弥陀如来の存在は、家が東本願寺の檀家であることで薄々は子供の頃から知っていたようだが、意識なんてすることはなかったよなぁ。。実の父親が本願寺系の僧侶としての資格を持ってはいたというものの、教義をまともに守ろうとしたことで命を落としてしまったと聞いていることで、母親が本願寺のみならず宗教を嫌っていて、私がその道に踏み込まないように画策していたんではないかとすら思う。ということで小学校までは仏さんを見るのは、修学旅行先で見た奈良の大仏さんくらいしか記憶に残っていない。

 それが、中学校を浄土宗の宗門の学校に入ったことで、何かにつけ法話やら遠足やらで宗教=文教に関するものに接する機会が多くなった。そして、高校1年正月、学校で成人式があった。3年生が成人式を迎えるのだが、1年の私はそのときの校長の法話に感銘を受けのめり込んでしまった。
 そこには仏の名は出てこなかったのだが、記憶に残っているのは「無常」と「無我」である。この時に私は私なりの宗教観とを持つようになって、「無常」と「無我」についても私なりの解釈を持ってしまった。
 そんな中でいつもの式典では壇上に阿弥陀如来が鎮座した。意識することはなかったが、そのまま高校を卒業し、浪人の上、大学に行ってしまった。大学で美系を選択。そして3年の時に修学旅行で仏像に接することになった。しかし、この時にもまだ阿弥陀如来への関心はなかった。

 実は、阿弥陀如来を意識するようになったのは、ここ15年くらい前のことなのだ。前にも他の記事で書いたことだが、ご先祖さんが旅立つことが多くなり、その葬儀の時、また回忌法要の時、それが多くなって経を耳にすることが多くなってからなのだ。
 耳にしたお経、その名は「正信偈」。お経の部類に入るのだろうが、これは仏の残したあ教えではない。仏の残した教えに注釈をつけたような、その教えを信じろという親鸞の書き残したものだ。教行信証の一部と聞いている。
 この正信偈を耳にして、何度も聞くうちに「源信」という法然の僧名に気づいてしまった。気づいたことで、なんで葬儀やら法要でみんなで唱和するのかと疑問に思い、親鸞が何を言いたいのかと研究を始めて、その中で阿弥陀如来が法蔵菩薩から悟りを開いて如来になるくだりをいろんな書物で知ることになった。

 そして、浄土三部経の翻訳したものを読んだりして、法蔵菩薩の掛けた願が成就したことで、人は皆、浄土に迎えられると書かれていることも知った。
 ここから先は、信仰の話になる。その話を信じるか否かは人それぞれだろう。私は、その話が物語だとの理解はしているのだが、その理解でなんかこれまで聞いてきた仏教の教えに納得したような感じになった。(と言って、信仰とはまた違うものだろう)
 そして、親鸞研究の中で親鸞の歩いた道を追っかけてであったのが、法界寺の阿弥陀如来だった。そして、浄土三部経の教えと法界寺の阿弥陀如来のマッチングが、私を阿弥陀如来に惚れることに導かれたように思っている。

 お読みになった方は、私が何を言おうとしているかわからない方が多いのではないか。わかってもらえるように書くことができない感覚なんだ。難しい、この気持ちを表現するのは。

 僧侶の資格を持っていた父は、どんな気持ちでいたのだろうと、今は聞けないもどかしさ。いずれ浄土に行った時、出会えれば聞いてみたいものを思っている。

 阿弥陀大好き人間になった私は、阿弥陀如来を見るために、遠路車を飛ばして平泉まで行ったりもしている、結構たくさんの阿弥陀さんを見ているが、ただ来迎のための立ち姿は仏像として好きになれないのだなぁ。。。これでは本当に阿弥陀如来に惚れていることにはならないかもなぁ。  

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2016年09月23日

仏さんに惚れ込んで。。。6 法隆寺・百済観音立像

 惚れ込んでいなくても、好きになった仏像はたくさんある。自宅に近いところにあれば、それこそ惚れ込んだかのようにできる限り訪れるだろうが、なにせたいていの国宝やら重要文化財の仏像は京都、奈良、はたまた結構遠いところが多いのだ。それでも、なんとか旅をすることでお会いに行くようには心がけてはいる。とはいうものの一度だけという仏さんが多いのは否めないなぁ。

 奈良・斑鳩の法隆寺は何度となく訪れているところ。まぇ歴史上重要な寺で、さらには聖徳太子信仰のなせるものからか、学校関係の行事はよく行くところでもある。
 初めて訪れたのは、やはり大学の古美術研究の時になる?いや、中学校の遠足で(名古屋から奈良への遠足です)で行ったのが最初。このシリーズの最初に書いた中宮寺の半跏思惟像に惚れ込んだその時だ。ただ、その時は中宮寺での出会いあの印象があまりにも強いので、法隆寺のことは記憶から消えてしまっている。今思えばただ行ったよなぁ・・くらいにした記憶にない。

 そのあとで行ったのは、大学の修学旅行になるなぁ。あの時の思い出はかすかだが、五重の塔の羅漢像のあの悲壮な表情が印象に残っているし、五重塔の写真を撮ったことも覚えている。しかし、金堂の釈迦三尊やら講堂の仏像群の印象は全く残っていない。
 が、ただ一体の印象が強烈に残っている。それは「百済観音」である。あの細身の背の高い観音さんが私を見下ろしている顔は、今もまぶたに浮かぶ。

 それから、何度法隆寺に行ったことか。こうした寺巡りなどのために言っていいくらいの理由(もっと重要な理由があったのだが、それは夢破れた)で関西への就職。そして住み着いたのが、東大阪だった。ということで奈良へは何度も行くことができた。法隆寺も大阪在住5年の間に5回では済まないくらいに行っている。奈良への営業の途中に法隆寺に行くという見事なサボりもしている。

 当時の法隆寺は、今のようは宝物殿ではなかった。今は朱塗りの宝物殿だが、当時はなんとなく薄暗いいわゆる博物館候の宝物殿だった。ただ、百済観音はその時どこに?あれ???宝物殿ではなかった?どこにあったの?確か、百済観音は法隆寺の中での居場所がはっきりとしていなかったのだ。
 それが10数年前に現在の朱塗りの宝物殿になって、その真ん中といっていいくらいのところに立っておいでになる。やっと居場所を作ってもらえたといった感じだった。

 百済観音がなぜ好きなの?と聞かれるとはた困る。中宮寺の思惟像と同じくただただ好きになったということかな?あの細身の柔らかいお顔は、私が本当にならねばならない顔だとは思うのだが、それができない。だからこそ好きなのかもしれない。

 今私は、今年二体の十一面観音をなんとか今の力で彫ったけど、そこには室生寺の十一面観音に百済観音の印象を加えたものをイメージして彫って行った。思うようにはならないので全くもって違う印象で出来上がっているけど、私の心の中は十一面百済観音といった感じかなぁ。。。
 今は力のない私、いつかそんなしっかりとしたイメージの十一面観音を彫ってみたいと思っている。  
タグ :惚れた仏

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2016年09月22日

仏さんに惚れ込んで。。。5 秋篠寺・技芸天

 惚れてしまって何度もお会いしたいと思う仏さんは、確かに三体。いや、その他にもたくさんある。ただあの三体は特別の思い入れがあるということで、その他にも好きな仏さんがあちこちにある。
 そんな中の一つが、奈良・秋篠寺の”技芸天”だ。初めて訪れたのは、大学の1週間にわたる古美術研究という修学旅行。2日目だったか3日目だったかに行ったのだが、観光バスが止まったのは、平城競輪場の近くのバス駐車場だった。そこから住宅地?の中を歩いて秋篠寺に。
 苔むした境内を通って本堂に入った。薄暗い本堂の中に、数はそんなに多くはないが大きな立像の仏さんが並んでいた。その中の左端だったかと思うが、腰を少しくねらせた”技芸天”があった。柔和な顔は今もって忘れることはない。

  左の写真は、実業之日本社「奈良ゆとりの旅」のものをお借りしてます。
 このあと5回訪れていますが、いつだったかの拝顔の後から技芸天の顔が、女優の「吉行和子」さんに似ていると思い込むようになった。写真を見るとそうは思わないのだが、実物を見るたびにそう思う。他の人はどう思われるかはわかりませんが。

 一度は、家族揃っての東大阪の家内の実家のお墓詣りの帰りに行きましたが、娘に「こう人が好みなの?」って言われてしまいました。家内が横にいるのにねぇ。。。。

 秋篠寺の周りは細い道で、バスのすれ違いもできず、バス会社の人が交通整理をしていましたが、秋篠寺の北の押熊地区の再発がなって交通量も増えたことで、多分近くにバイパスができたは、道の拡幅がなったのではないかと思ってますが、ここ5年くらいっていないのでどうかなぁ。。。  
タグ :秋篠寺

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2016年09月18日

仏さんに惚れ込んで。。。4 江南市音楽寺。荒神像

 惚れ込んだ仏像は三体で、それらの紹介は前回までに簡単に紹介した。ということで、今回は、惚れ込んだ三体ほどではないものの好きな仏像の一つを消化します。

 6年前から趣味で木彫りを始め、多くが円空仏を彫ることに時間を費やしている。始めて2年を過ぎた頃にテレビを見ていたら円空仏の話が出てきた。予定してみていたのではなく、なんとなく見ていたら、たしか北野武の番組だったかと思うが、そこで円空仏の画像が出てきたのだ。
 それを見た途端に、その顔の表情に心打たれた。それまでに知っていた円空仏とはかなり違った印象を受けたのだ。その衝撃から、一度はこの仏像を彫ってみようとも思いたった。
 その仏像の名は、「荒神」。愛知県、江南市にある音楽時のもので、ある世界ではかなり有名は仏像である。(と言って、当時知らなかったのだから、恥だよなあ)
 
 映像で見てから1年くらい経って、音楽寺を訪れ実物にご対面した。なんともカントもいい表情をしている。これまでに惚れ込んだ三体の仏像とは全く違う世界のもの。惚れ込んだ三体は、いわゆる仏教の教義の中で主流となるものだが、荒神はそういった立場ではない。なのに・・・・

 それから数ヶ月してから、小さいものを幾つか彫った。でも気持ちが飽き足らない。なんとか実物大を彫ってみたいと。と、そんなところに奇跡とでも言えるかのように実物大を彫るのに最適の大きさの材料をいただいたのだ。切断するところなど全くない。たてよこ奥行きほぼ実物そのもの。まさしく荒神を彫るために頂いたかのような材料だった。

 彫り始めた。うわぁ。予想外の材料の硬さ。ケヤキだったのだ。素人に毛が生えた程度の私には、かなりきついもの、それでもめげずに挑んだ。ノミもまともなものではない、父親が日曜大工で使っていたノミやら、ホームセンターで買ってきた安物のノミで、硬い材料に負ける。負ければ余計に彫れなくなる。もう2日に一度ノミを研ぐという悲惨な戦いだったが、なんとか3ヶ月かけて彫り上げた。

 出来る限り同じようになるような模刻を目指していたけど、頭の部分は実物は朽ちているのでそればかりはコピー出来なかった。が、まぁ似たような感じで収めた。
 左の写真がその彫り上げた荒神像。本物のような表情からは遠いものだけど、この時の私の技量ではこれが精一杯。昨年の春と秋のグループの展覧会に出品しました。
 この大きさでの作品があまりないので、ちょっと目を引いたようでしたが。。。。

 まだこれからも、機会があれば、また今度は彫りやすい材料で挑戦したいと思っている。


 この仏像=荒神は、私は惚れ込んだ三体とは気持ちが違った意味でのほれこみ。この荒神は、顔の表情とその造形の面白さに惚れたのだ。つまり、私の中では仏教とは離れた気持ちで好きになっているのだ。  

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2016年09月17日

仏さんに惚れ込んで。。。3 室生寺・十一面観音立像

 女人高野、室生寺は過去に3回訪れている。大学の修学旅行(変な学校だと思われそうだが)に最初に訪れた。そのときの記憶はもう5年も前七尾ではっきりしたものはない。ただ赤い橋を渡ったということだけ、あの鎧坂も小さい五重塔も全く記憶に残っていないのだ。もったいない話で・・・・・
 その室生寺にあるとき、家内が十二神将を見たいというので、ドライブ旅行をした。そのときの話は「室生寺日帰りドライブ」シリースに書いてあるので、できたらご一読を。

 その訪れは、45年ぶりということだったのだが、金堂に入って、ずらりと並んだ国宝の仏さんたち。その中で左端の11面館のを見たとき、「なんと美形の仏さんなのだ」と思ったものだ。あのふっくらした頬が私の心をつかんだということだ。
 その年は、木彫りを始めた頃。趣味で始めた木彫りは、円空仏のつもりだったのだが、室生寺の十一面観音に出会ったことで、円空仏とは別に幾つかの観音さんを掘ることに挑戦し始めた。
 最初はあの顔をなんとか彫れないかと悪戦苦闘した。頭の11の化仏なしでか本当に顔だけをと。初心者にうまくいくはずもなく。それから6年、この間に十一面観音は五体を彫った。小さいものから始めて今年は50センチのものを二体彫った。プロから、はたアタアベテランの方からは「なんだこんなものか」と言われそうなものですが、自分なりに今の力で彫ったものとしては満足している。その十一面観音は、室生寺の観音さんとはかなり違ったものになってしまっている。再現しようにも後ろ姿を見ることができないので、それなりに想像しなけらばならないからでもあるが、頭の中にはあの十一面観音のイメージに加えて、なぜか法隆寺の百済観音は入ってきたのだ。
 室生寺の十一面観音は、全体にちょっとふっくらとしているけど、私の十一面観音は結構細身に仕上がった。でも、まだまだ頭のイメージとはかけ離れているので、この先も新しいものを掘ろうと思っている。
 惚れ込んだ三体の仏像のうち、それを彫ろうと思って挑戦した今の所唯一のもの。

 さて、実は惚れ込んだ仏さん(仏像)は、厳密にいえば三体だけ。好きな仏像はたくさんあるのだが、心底惚れ込んだのは三体ということ。ということだと、この記事の「仏さんに惚れ込んで」はこの回で終わってしまうことになるのだけど、そこはそこ、心底惚れ込んではいないものの好きな仏さんを書き続ければいいだろうと思う。ということで、そのシリーズは終わらない。  

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2016年09月15日

仏さんに惚れ込んで。。。2 法界寺・阿弥陀如来坐像

 好きな仏像はたくさんある。前回書いた中宮寺の「半跏思惟像」は最初に惚れた仏さん。それからなが〜〜〜く惚れることはなかった。まぁ、仏さんより生身に惚れることが多かったからかなぁ。

 年をそれなりに取ったことで周りのいろんな事情から、法要の関わることが多くなって、そんな中で浄土真宗の葬式やら法事で「正信偈」を聞く機会が連続した。正信偈の中である時ふと耳についたのが「源空」という人の言葉。これは法然上人の僧名だけど、葬式に関係ないのになぜ出てくるのか疑問を持った。
 その疑問を解明するべく、親鸞が何を言いたかったのかを調べ始めた。そのために、親鸞の歩いた道を歩み始め、最初に親鸞関係で訪れた寺が、親鸞誕生の地と言われる京都日野の法界寺だった。そこで出会った阿弥陀如来、阿弥陀堂に案内されて大きな阿弥陀さんを見上げた瞬間に、「来てよかったぁ」だった。
 なぜそう思ったのかはわからない、とにかく心休まるという表現がぴったりの出会いだった。それから15年以上になるかと思うけど、毎年必ず1度は訪れている。

 法界寺の阿弥陀如来は、平等院の阿弥陀如来と比較され、同じ定朝様式ということなのだろうが、私には平等院よりも表情はものすごく優れていると思う。これは好みの問題かもしれないが、

 阿弥陀如来に関しては、親鸞研究の中で浄土三部経やらを読んだりして、「アァ、法蔵菩薩が願掛けして、その願掛けが成就して悟りを開き阿弥陀如来になったのだから、それは出来上がったものなんだろう」と思うようになった。物語の中の話とはいえ、これが浄土信仰の入り口のようだ。それ以降、あちこちの阿弥陀さんを訪ね歩くことも私の今の趣味の一つになっている。  

Posted by 生田 at 23:10Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年09月14日

仏さんに惚れ込んで。。。1 中宮寺。半跏思惟像

仏像に惚れてしまったのが中学の時
遠足で法隆寺に行き、ついでに中宮寺に行って
通称・弥勒菩薩(半跏思惟像)の前に座り込んでしまった
そして集合の声がかかるで
座り続けた
その頃の弥勒さんは西を向いて鎮座していた
今は新しいコンクリートのお堂で南に向いて鎮座しているが

それが仏さん(仏像)の惚れた最初
学校が宗教系だったこともあり
遠足といえばお寺回り
おかげでいろいろ見せてもらった

ある年 薬師寺に行った時
まだお若い高田好胤さんが薬師寺の主任クラスだったが
その高田師が観音さんの如来さんの違いを説明してくれた
そのことは今でもしっかりと
もう55年を過ぎたのに頭の中に残っている

そういえば
あの時の高田師はものすごく可愛いお坊さんでしたねぇ。。
まぁ生涯かわいかったですが  

Posted by 生田 at 12:53Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2009年04月03日

親鸞の追っかけ 正信偈

 そこで次に『正信偈』という親鸞の書いた偈文。これもお経の中に含まれるのか?多分多くの方がそのように思われていると思います。『お経』つまり教えなので、間違いはないとは思います。しかし、これは本当は親鸞の哲学の表現で、親鸞が師と仰いだ人たちの名前を羅列して、この人たちが言っていることは間違いないといっている、と私は解釈をしています。(なので、意味も知らずに、法要で読むのは違和感がある。私です)
 正信偈は、私には阿弥陀如来を信ずるにいたった経緯と、信ずることでの自分精神的な安らぎを書き残しそしてそれを多くの人に伝えたかったのだろうと思います。決して、人の詩を痛むために書いたmので汎愛と思っています。

 この正信偈を法要の際に詠むことにしたのは、真宗8代の法主・蓮如といわれています。つまりは、本願寺の血筋の中で受け継がれてきた流れのしきたり。ところが、(現在は違ってしまっていますが、)浄土真宗高田派は、昔は正信偈を唱和することがなかったと一身田にある本山のお坊さんに聞いています。
 高田派は、親鸞の墓を寺にすることに反対をした関東集団だからかな?蓮如以来高田派は勢力がなくなってので、現在の状態になっているとことなのですが。

 親鸞はもともと、、寺も弟子も持たないと言い残しているといわれているにもかかわらず、子孫はそれを無視して寺にして、血脈をその頂点にすえて現代に至ってます。
 戦国時代に勢力を持ちすぎた真宗教団を嫌った織田信長と戦い、伊勢長島や、大阪の石山本願寺で多くの死者を出す戦いで、結局は大阪には本願寺がなくなって、その代わりみたいに南御堂、北御堂があります。
 織田滅亡の後は、豊臣秀吉や徳川家に守られ、そしてその政治的な流れで、秀吉の援助のあった元の本願寺(京都・西本願寺)に対抗するように、東本願寺が設立されて、親鸞血脈同士の争い、そしてさらにはその本願寺内部での争いなども生んでしまい、親鸞が生きていたらどんなに嘆いているかと私は想像しています。

 こうしたことを書籍などで知ってからは、親鸞の歩いた、住んでいたといわれるところをいくつか歩くことになったのです。そして、その場に立って、彼が言いたかったことを考えてみたのです。
 もっとも、分かるはずもないことですが、現場に立ってみると、親鸞が歩いたところは、書籍に書かれたものとは結構違う印象になったものです。  

Posted by 生田 at 21:56Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2009年04月02日

お経と聖書

 前回は、気が向いたら書くと予告。
 なんとなく、ここ数日精神的にまともでないのか、仕事が頭から離れないにもかかわらず、頭の中で考えることが拒否されている。昨日、広小路を歩いたのもその結果のこと。
 今日も、こんなにいい天気なのに、出かけたいけど、風が。それに鼻がむずむずするから。


 本題です。
 お経というのは、何故か漢文で書かれている。本当は、サンスクリット語かなんか私はまったく訳のわからない言葉らしいが、中国に入って漢訳されたものが日本に入ってきて、それをそのまま『漢文は身分の高い、頭のいい学者が使うもの』とばかり今もって続いている。
 一方きキリスト教聖書は、何故か日本語で話を聞くことが出来る。昔は文語体だったらしいが、今は口語体のもののようだ。私が一番最初に聖書に接してのは、英語版だった。英語の勉強のためにと英語の新約聖書を買ってきてそれを翻訳して勉強していた。(これが、渡米して向こうの飲み会で役に立つことになるとは思いもしていなかったけど)

 聖書というものは、旧約と新約があるが、どのくらいの方がお読みなられただろう?実は、私は新約はあまり好きではない。というのはキリストを褒めちぎった、ちょうちん文章が並んでいるから。(信者の方ごめんなさい)
 旧約聖書は、じっくりと読んでいくと、人の生き様、特に多くの人が塊となって生きていく上での幸せな道を書いているところが多い。浪人中・大学に入って、なんとなく教会に足を踏み入れて、牧師さん家族と仲良くなったりし、一時洗礼を受ける手前まで行っていたが、何故か急に行かなくってしまった。(理由は忘れたが、多分あの件だろう・・・逃げたのだ、私が。)
 余談ばかりで申し訳ない。
 旧約聖書の中の『伝道の書』に出てくる言葉。
天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざにはときがある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある、
   (旧約聖書 伝道の書3:1-8)

今でもこの言葉は生きるうえで必要な言葉になっている。
往年のフォークソングファンならご存知の
 アメリカ、ブラザーズ・フォーの
 『遥かなるアラモ』にも一部登場する句です。(勝手に思ってます)

 何がいいたいかというと、聖書は、新約も旧約も物語だということ。教会では、つど、必要なところを牧師さん(司祭さん)が読み聞かせ、それに自分の話を付け加える。

 しかし、一方のお経のほうは、漢文のままで、なにやら訳のわからないものをありがたそうに、大勢の坊さんがいっせいに唱和なんてこともやる。(これはキリスト教でもあるみたい)
 で、聞いている人たちは何がその中にかかれているかなんてほとんどの人が考えもしないで『ありがたいお経を』なんていっている。
 多くのお経が、ゴータマ・シダルタの哲学の表現らしいが、浄土教(浄土宗、浄土真宗など)の聖典といわれている浄土三部経は、日本語訳を読むとわかるけど、物語なんですね。つまりは聖書と同じなんですよ。なぜそれを漢文ままにしているのか、日本人に理解しやすいように翻訳しないのかって疑問なんですね。

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まともに書いているとといつ終わるかわからないので、今回はこれでとめます
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Posted by 生田 at 13:55Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2009年04月01日

親鸞の追っかけ そのきっかけ

 私はこのブログ(だけではないけど)に、お寺の話や、宗教の話やら、親鸞の話を書いている。

 お寺に行くのは信仰心が厚いと思われるかもしれないけど、私はまったく逆で、信仰心はないに等しい。正直申して仏壇はなくてもいいから、なんとかしたいとすら思っている。
 ただ、親鸞に研究をしているのは、彼の生き様に興味を持ったのであり、本願寺の教えを信じているのではない。逆に、今の本願寺の言うことは半分以上否定しているといっても過言ではない。

 私の母がなくなって25年家内の父親、母親がなくなって10年を過ぎている。大体○○忌法要なんていうのを繰り返していると、耳に経といわれるものが入ってくる。何回も聞いているとだんだん慣れてきて、渡される小冊子を見ながら聞いていると、だんだん意味も少しずつわかってくる。いくら漢文で書いてあっても、なんとなくではあるが分かってくる。
 ある年の法要のとき、耳に『源空』という言葉が飛び込んできた。そのとき思ったのが、なぜ法要の席で、しかも浄土真宗の法要の席で詠まれる、それまでお経と思っていた『正信偈』に浄土宗の坊さんの名前が出てきたのだから、驚きだった。
 もっとも、法然上人は、6年間の宗門の学校で週一回はいろんな法話の中で教え込まれているからそれなりの知識はあるものの、それが浄土真宗の法事の際に登場するなんて思いもよらないことだった。
 と、そのときの驚きと疑問が、生来の私の好奇心を掻き立てることになった。それにもう一つ、ものすごく昔の話で、どこの方かは記憶に残っていないが、あるときお年を召した女性が、私に向かって『親鸞さんみたい』といわれた記憶が少し残っていたのだ。なぜそんなことを言われたのかも、何も覚えていない。ただ、いわれた言葉だけが頭の中に残っている。
 世の中が、戦争がなかったとしたら、親戚筋から聞いた話では、私はある大きな(真宗の)寺のあとを継ぐことになっていたかもしれないともいわれている。

 そんなことなどが重なって『親鸞とは何者』とばかりに、本を読み始めたのだ。そして、その次には、『親鸞は何が言いたかったのか?』と。そして挙句の果てに、浄土教の中の聖典といわれる浄土三部経をよんで(漢文ではなく日本語訳)、どうも親鸞の言おうとしていることと、本願寺の法要には差が有るのではないかと思い始めたのだ。そこで今度は、寺参りを始めたということ。

 もっとも、寺参りは、中学・高校時代から、学校の行事でよく言っていたからあちこち知ってはいた。それに大学でも京都・奈良を1週間かけての修学旅行で沢山の寺参りをしたのだから、なれてはいたのだが。まぁ、宗教とは関係のない寺参りだった。
 それは、今度は、親鸞のことを知るようになってからは、本願寺否定のための寺参りになってしまったのだ。真宗10派の本山といわれる寺は5派、そのほかに上越市の浄興寺、茨城県笠間市の西念寺、そして、下妻市のある小島草庵跡、親鸞そのものではないが歎異抄の著者ゆかりの報佛寺などなどを歩くことになってしまった。(あるときなど茨城・水戸からから上越市まで下妻市経由で日本縦断の強行をしたことがある。体壊したけど。)
 こうしたことをしたのは、同じ場所に立って考えてみたかったから。でも、わからなかったけど。。。

 他にも、ゆかりの地をいっぱい歩いて、私自身を親鸞としてものを見たときのことをいろいろ考えたわけです。そして、なんとなく、本願寺がやっていることが親鸞のいいたかったことは違うものだという理解をするようになった。

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 次は、気が向いたら聖書、お経について書くかもしれません
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Posted by 生田 at 23:14Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰
  
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