2016年11月02日
仏さんに惚れ込んで。。。24 飛騨千光寺 両面宿儺
飛騨千光寺については、9月末に上高地旅行の途中に立ち寄ったことをこのブログに記事として書いている。千光寺か上高地かどっちが主目的かわからない旅行だったが、どちらもそれぞれの目的を達していい気持ちで帰ってきた。
千光寺は、円空さんを知る人なら知らない人はいないだろうと思われる。なにかにつけ、円空がらみの話になるとテレビの番組でもよく出てくる寺である。この寺には、60数体の円空仏が祀られている。円空仏と総称しているが、これは円空さんが彫ったものを全てそう呼んでいるらしいが、全てが仏像というわけではない。人物あり、狛犬あり、その他仏と関係ないと言われそうなものも多くある。その中でひときわ目立つ仏ではないものの代表作といえる「両面宿儺」がそれだ。
両面宿儺の詳しい話はWikipediaに任せるとして、大まかな話は「怪物と言われているが、本当は仁徳天皇の時代に中央政府に反発、抵抗し、地元を守った地元の守り神」ということなのだ。
まさに、権力などに立ち向かうアウトロー、ドンキホーテ、まるで私の生き様のう〜〜〜んとでっかい人なのだ。私は、その生き様に惹かれたともいえる。そして、円空さんはその宿儺のイメージを左の写真のように具体化してくれていたのだ。
なんとも奇妙は彫り物である。二面四臂、2年のうち正面を向いた顔は微笑みを浮かべ、横を向いた顔は怒り顔である。おそらく正面の笑みは民衆に、怒りは中央政府に向けての表情なのだろう。そして、そ彫りの姿は、いわゆる円空仏の鉈彫り、荒削りの印象だが、確かに下半分の宿儺が座る岩の部分は確かに荒く深いように見るが、体の部分、特に顔の表情はものすごく細やかにあ掘り上げられている。
写真と初めて見たときには、素晴らしいものを見たときの衝撃があったことは確かだ。そして、いつか彫って見たいという気持ちを持っていた。それが、今年になって上高地への旅行の話が持ち上がり、ではその途中だから千光寺にも是非立ち寄ろうということになって、実物と対面することになった。そして、帰ったらこれの模刻をするのだと思ったものだ。たまたま、5年くらい前に買い込んだ材料の中に、実物の高さが半分くらいのものがある、ケヤキなので少々彫りづらいが頑張ろうということだ。
そして彫り始めてもうじき一月になるが、やはり天才の彫りをそのまま縮小して彫るというのは、とにかく難しい。目に焼き付けてはきたものの、詳細はなかなか思い出せない。正面は写真でなんとかわかるものの、両横の彫りは記憶に頼るだけ、あっていればいいが、なかなかあっているとは言えないだろうなぁ。。。。
先日、岐阜県立博物館の「円空展」で実物大のレプリカを見てきたので多少記憶を戻せたが、それでも両横は難しい。まだ彫ることができていない。
現状の私の作品の様子が左の写真です。本物の力強さは望むべくもないですねぇ。。。なんとか少しでも天才の作品に近づけるものが彫れたと願うばかりです。
千光寺は、円空さんを知る人なら知らない人はいないだろうと思われる。なにかにつけ、円空がらみの話になるとテレビの番組でもよく出てくる寺である。この寺には、60数体の円空仏が祀られている。円空仏と総称しているが、これは円空さんが彫ったものを全てそう呼んでいるらしいが、全てが仏像というわけではない。人物あり、狛犬あり、その他仏と関係ないと言われそうなものも多くある。その中でひときわ目立つ仏ではないものの代表作といえる「両面宿儺」がそれだ。
両面宿儺の詳しい話はWikipediaに任せるとして、大まかな話は「怪物と言われているが、本当は仁徳天皇の時代に中央政府に反発、抵抗し、地元を守った地元の守り神」ということなのだ。
まさに、権力などに立ち向かうアウトロー、ドンキホーテ、まるで私の生き様のう〜〜〜んとでっかい人なのだ。私は、その生き様に惹かれたともいえる。そして、円空さんはその宿儺のイメージを左の写真のように具体化してくれていたのだ。
なんとも奇妙は彫り物である。二面四臂、2年のうち正面を向いた顔は微笑みを浮かべ、横を向いた顔は怒り顔である。おそらく正面の笑みは民衆に、怒りは中央政府に向けての表情なのだろう。そして、そ彫りの姿は、いわゆる円空仏の鉈彫り、荒削りの印象だが、確かに下半分の宿儺が座る岩の部分は確かに荒く深いように見るが、体の部分、特に顔の表情はものすごく細やかにあ掘り上げられている。
写真と初めて見たときには、素晴らしいものを見たときの衝撃があったことは確かだ。そして、いつか彫って見たいという気持ちを持っていた。それが、今年になって上高地への旅行の話が持ち上がり、ではその途中だから千光寺にも是非立ち寄ろうということになって、実物と対面することになった。そして、帰ったらこれの模刻をするのだと思ったものだ。たまたま、5年くらい前に買い込んだ材料の中に、実物の高さが半分くらいのものがある、ケヤキなので少々彫りづらいが頑張ろうということだ。
そして彫り始めてもうじき一月になるが、やはり天才の彫りをそのまま縮小して彫るというのは、とにかく難しい。目に焼き付けてはきたものの、詳細はなかなか思い出せない。正面は写真でなんとかわかるものの、両横の彫りは記憶に頼るだけ、あっていればいいが、なかなかあっているとは言えないだろうなぁ。。。。
先日、岐阜県立博物館の「円空展」で実物大のレプリカを見てきたので多少記憶を戻せたが、それでも両横は難しい。まだ彫ることができていない。
現状の私の作品の様子が左の写真です。本物の力強さは望むべくもないですねぇ。。。なんとか少しでも天才の作品に近づけるものが彫れたと願うばかりです。
2016年10月31日
仏さんに惚れ込んで。。。23 笠松町 慈眼寺 毘沙門天立像
円空仏を彫り始めて6年くらいになる。最初の2年半は本を買ってきて一人でコツコツ彫っていた。それから1年くらいして荒子観音に行った折に、多くの方が集って彫っておられるのに接し、私もと思って準備をしたのだけど、その直後に腰椎の圧迫骨折というとんでもない事故を起こして、参加を断念した。荒子は我が家からは距離があって結構時間がかかる。そこで近くにはないかと思ったら、近くで彫っているグループがあるのでそこに参加。参加してしばらくして彫ったのが、慈眼寺の毘沙門天だった。
この毘沙門天は、いや毘沙門天に限らず、私が円空さんを彫るのは多くがその造形的な興味からなのだが、まともに彫ることも少なく、最も完全に模刻する力もないので、結構なアレンジをしてしまうことが多い。左の写真は笠松町の慈眼寺の紹介ページから拝借したものです。
本物には、一宮市で開催された「円空展」で一度出会っているはずなのだが、その時の記憶はなぜかかなり薄い。それが写真集を見て「ん???」と思った。顔の表情に興味を惹かれたのだ。たぶんに本物を見た時は照明効果であまり顔の表情がよく見えなかったのかもしれない。
そのと興味を持って彫ったのが、左の写真ものの。円空仏を掘り始めて2年半くらいの時になるんだが、まぁ何とか本物に近い模刻をしようという気持ちがあったのか、多分にグループの皆さんの姿勢を真似ようとしていたからかもしれない。
その時は、初心というのかなぁ。。。。写真がなかったのか、当時のものを今振り返ると結構まともに彫っている感じで、今となると大いに反省しなければいかんとは思うが、何せ人と同じことをすることが苦手な私は、今はその初心を忘れ、雑念に侵されて模刻なんて言われないものも良く彫るようになってしまっている。
その毘沙門天の第1作からしばらくして、同じ毘沙門天を数体彫っているが、初心を忘れた私には、技術もないくせに硬い愛良で挑戦したばかりに、もう慈眼寺の毘沙門天とは言えないものになってしまった。(このうちの二体は、9月に「ごめんなさい」と言いつつ分解させてもらいました。
そして、それから1年くらいしてから、手元にくすの材料があったので、くすの置物として作ろうと挑戦したのが左の写真のもの。これを彫る時は、元の慈眼寺の毘沙門さんをそっくる作るのではなく、そのイメージをいただいて私なりの毘沙門さんを彫らせてもらいました。
一応模刻の範疇に入るので、似るようにはしているけど、体型は、本物厚みの薄さは完全に無視して、多くの有名寺院にある四天王の毘沙門天よろしく、かなり太めに仕上げた。ということで、逆に、円空さんらしさが消えてしまったなぁと、反省させられた作品になってしまた。
慈眼寺は、一度本物を見たいと、訪れたのだが、どうも無住寺のようで拝観叶わずでしたが、先日訪れた岐阜県博物館での「円空展」で久々にお会いしました。模刻したものの本物と出会うのは、一種の感慨と気恥ずかしさが混じったものになりました。しかし、その像の大きさがかなり違うので、できれば一度本物の大きさで彫ってみたいと思うことしきりです。
この毘沙門天は、いや毘沙門天に限らず、私が円空さんを彫るのは多くがその造形的な興味からなのだが、まともに彫ることも少なく、最も完全に模刻する力もないので、結構なアレンジをしてしまうことが多い。左の写真は笠松町の慈眼寺の紹介ページから拝借したものです。
本物には、一宮市で開催された「円空展」で一度出会っているはずなのだが、その時の記憶はなぜかかなり薄い。それが写真集を見て「ん???」と思った。顔の表情に興味を惹かれたのだ。たぶんに本物を見た時は照明効果であまり顔の表情がよく見えなかったのかもしれない。
そのと興味を持って彫ったのが、左の写真ものの。円空仏を掘り始めて2年半くらいの時になるんだが、まぁ何とか本物に近い模刻をしようという気持ちがあったのか、多分にグループの皆さんの姿勢を真似ようとしていたからかもしれない。
その時は、初心というのかなぁ。。。。写真がなかったのか、当時のものを今振り返ると結構まともに彫っている感じで、今となると大いに反省しなければいかんとは思うが、何せ人と同じことをすることが苦手な私は、今はその初心を忘れ、雑念に侵されて模刻なんて言われないものも良く彫るようになってしまっている。
その毘沙門天の第1作からしばらくして、同じ毘沙門天を数体彫っているが、初心を忘れた私には、技術もないくせに硬い愛良で挑戦したばかりに、もう慈眼寺の毘沙門天とは言えないものになってしまった。(このうちの二体は、9月に「ごめんなさい」と言いつつ分解させてもらいました。
そして、それから1年くらいしてから、手元にくすの材料があったので、くすの置物として作ろうと挑戦したのが左の写真のもの。これを彫る時は、元の慈眼寺の毘沙門さんをそっくる作るのではなく、そのイメージをいただいて私なりの毘沙門さんを彫らせてもらいました。
一応模刻の範疇に入るので、似るようにはしているけど、体型は、本物厚みの薄さは完全に無視して、多くの有名寺院にある四天王の毘沙門天よろしく、かなり太めに仕上げた。ということで、逆に、円空さんらしさが消えてしまったなぁと、反省させられた作品になってしまた。
慈眼寺は、一度本物を見たいと、訪れたのだが、どうも無住寺のようで拝観叶わずでしたが、先日訪れた岐阜県博物館での「円空展」で久々にお会いしました。模刻したものの本物と出会うのは、一種の感慨と気恥ずかしさが混じったものになりました。しかし、その像の大きさがかなり違うので、できれば一度本物の大きさで彫ってみたいと思うことしきりです。
2016年10月29日
仏さんに惚れ込んで。。。22 薬師寺 薬師三尊
薬師寺、この寺の名は説明する必要はないくらいに有名な寺ですね。。私は何度訪れただろうか?記憶をたどって見ると・・・・といっても結構記憶がボケつつあるので何ともカントも回数はわからなくなっている。
最初に訪れたのは、中学の時の遠足である。名古屋から近鉄電車で八木までいたのかな?いや、ひょっとしたら関西線で奈良駅に行ったのかもしれない。そこから観光バスでいくつかの寺に行っているが、この時の覚えているのは、法隆寺、中宮寺、唐招提寺そしてこの薬師寺である。
何せ行った学校が浄土宗の宗門の学校だから遠足というとお寺巡りって感じがあった様な気もするが、まぁそれでも私は違和感を感じたことはなかった。不思議なのだが、お寺巡りは何お抵抗もない子供だったらしい。やはり、実の父親が僧侶の資格を持つくらいの血筋だから、そんなになったのかもしれないが。でも、母は、父と同じ道を歩まないかと心配はしていたらしい
同じ道は歩まなかったものの、何かにつけ仏像に興味を抱いていたらしい。とはいえ、学校の行事以外での寺巡りは大学を卒業するまですることはなかった。
余分な話になったしまったが、その中学の遠足の時に薬師寺に行った時に、金堂の仏像の解説をしてくださったのが、あの有名な、薬師寺の再興、西の五重の塔の再建をされた高田好胤師だったのだ。
当時、高田師は薬師寺で”主任”という地位におられたと記憶している。あの小さいお体で、とにかくものすごくかわいいお顔をしたお坊さんだった。あの時の高田師のお顔は今でも思い起こすことができる。
その時の高田師の説明で「菩薩はまだ修行の身で悟りを開いてはいないが、如来は悟りを開いた人なのだ」という内容のもの。この解説は、それから私の心の中で生き続けている。今となっては、知識としても当たり前の話だけど、その説明を受けた時には中宮寺で弥勒菩薩(=半跏思惟像)に出会ってショックを受けてきた後での、ショックのダブルパンチをもらった感じでそのダブルのショックが、今のこの歳になるまで生き続けているわけだ。
高田師の説明は、金堂の外。階段を上ったところで受けている。その金堂の扉の奥には、あの黒い、黒光りした薬師三尊が収まっていたのだ。この薬師三尊は、銅製である。多くの銅製の仏像は黒光りしている。その黒光りは、後背の金色によりいっそう引き立った黒になっている。
おそらく仏師の美的感覚のなせる技と思うが、この時代の一つの流行だったのだろうか?
大学の時に訪れた際には、ここで薬師三尊をスケッチし、写真を撮っている。これは今では考えられないことだと思うが、当時は今の様に参拝者も多くなはなかったので、許可さえ得られればスケッチも写真も許されたのだ。そのスケッチも写真も今は行方不明だ。写真は、ネガの多くが残っているから一枚一枚見て行けば見つかるかもなぁ。。。(勿体無い話だ)
その後数回訪れているが、西塔の再建の後、金堂の修復の後にも訪れているが、正直昔の風情がなくなってしまっている。しかし、どこかで修復をしないと、建物は朽ち果てていくから致し方ないとは思う。その反面、仏像は、修復によって新たな命、その姿を永遠に残すかの様に生まれ変わった感がある。
写真は、ネットから拝借した高田好胤師ですが、かなりお若い頃のものと思われますが、私の印象ではもう少し丸かったかなぁ。。。。です。
最初に訪れたのは、中学の時の遠足である。名古屋から近鉄電車で八木までいたのかな?いや、ひょっとしたら関西線で奈良駅に行ったのかもしれない。そこから観光バスでいくつかの寺に行っているが、この時の覚えているのは、法隆寺、中宮寺、唐招提寺そしてこの薬師寺である。
何せ行った学校が浄土宗の宗門の学校だから遠足というとお寺巡りって感じがあった様な気もするが、まぁそれでも私は違和感を感じたことはなかった。不思議なのだが、お寺巡りは何お抵抗もない子供だったらしい。やはり、実の父親が僧侶の資格を持つくらいの血筋だから、そんなになったのかもしれないが。でも、母は、父と同じ道を歩まないかと心配はしていたらしい
同じ道は歩まなかったものの、何かにつけ仏像に興味を抱いていたらしい。とはいえ、学校の行事以外での寺巡りは大学を卒業するまですることはなかった。
余分な話になったしまったが、その中学の遠足の時に薬師寺に行った時に、金堂の仏像の解説をしてくださったのが、あの有名な、薬師寺の再興、西の五重の塔の再建をされた高田好胤師だったのだ。
当時、高田師は薬師寺で”主任”という地位におられたと記憶している。あの小さいお体で、とにかくものすごくかわいいお顔をしたお坊さんだった。あの時の高田師のお顔は今でも思い起こすことができる。
その時の高田師の説明で「菩薩はまだ修行の身で悟りを開いてはいないが、如来は悟りを開いた人なのだ」という内容のもの。この解説は、それから私の心の中で生き続けている。今となっては、知識としても当たり前の話だけど、その説明を受けた時には中宮寺で弥勒菩薩(=半跏思惟像)に出会ってショックを受けてきた後での、ショックのダブルパンチをもらった感じでそのダブルのショックが、今のこの歳になるまで生き続けているわけだ。
高田師の説明は、金堂の外。階段を上ったところで受けている。その金堂の扉の奥には、あの黒い、黒光りした薬師三尊が収まっていたのだ。この薬師三尊は、銅製である。多くの銅製の仏像は黒光りしている。その黒光りは、後背の金色によりいっそう引き立った黒になっている。
おそらく仏師の美的感覚のなせる技と思うが、この時代の一つの流行だったのだろうか?
大学の時に訪れた際には、ここで薬師三尊をスケッチし、写真を撮っている。これは今では考えられないことだと思うが、当時は今の様に参拝者も多くなはなかったので、許可さえ得られればスケッチも写真も許されたのだ。そのスケッチも写真も今は行方不明だ。写真は、ネガの多くが残っているから一枚一枚見て行けば見つかるかもなぁ。。。(勿体無い話だ)
その後数回訪れているが、西塔の再建の後、金堂の修復の後にも訪れているが、正直昔の風情がなくなってしまっている。しかし、どこかで修復をしないと、建物は朽ち果てていくから致し方ないとは思う。その反面、仏像は、修復によって新たな命、その姿を永遠に残すかの様に生まれ変わった感がある。
写真は、ネットから拝借した高田好胤師ですが、かなりお若い頃のものと思われますが、私の印象ではもう少し丸かったかなぁ。。。。です。
2016年10月27日
仏さんに惚れ込んで。。。21 清凉寺 阿弥陀如来立像
京都嵯峨野にある清凉寺、浄土宗の有名な寺で、しかも江戸時代には徳川さんのバックアップもあって、格式高いと言われてますが。。。。
この清凉寺には、2度行っているが、本堂に上がったのは一度だけ。理由はわからない。2度とも紅葉の季節に訪れているのだけど、この寺よりも近くの祇王寺や化野念仏寺の紅葉の方がいいとばかりに、車をこの寺の有料駐車場に預けて、寺はそっちのけってところだったかも。
この清凉寺の本尊は、阿弥陀如来立像で、いわゆる来迎の形かな?なんでも中国から渡って来た阿弥陀さんのようで、顔の表情はやはり日本的ではないと思う。
それに国宝の指定部分の中には体内に納められた「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)も含まれている。このtがいない納入品は、結構珍しいかな。。。でも、本物を見るのは特別開帳の時だけだったかと記憶している、まぁレプリカはいつも展示されているようだけど。
この阿弥陀さんは、仏像の様式として「清凉寺式」と名付けられる衣の襞の模様が特殊で、この仏像が入って来た後に、かなりあちこちでも模刻されてたくさんあるようだ。(しかし、私の好みではない。。。。御免なさい)
立像=立ち姿は、一般的に来迎が多い。平安中期から後期以降の浄土教の流行で阿弥陀如来の来迎を表す立像がたくさん作られているが、そのハシリかなぁ????
来迎というのは、阿弥陀さんが臨終の枕元に浄土への旅立ちのお迎えを表しているんだけど、私自身で彫ってみたことあるけど、後になって人に「あげるものではないなぁ」なんて思うよになって、今は彫ることはやめてしまった。
やはり、阿弥陀如来は浄土でドンと構えておいでの座像の方が私は好きだなぁ。。。特に、清凉寺の阿弥陀如来は近くでも見ることできたけど、色も黒くて顔もなんか暗かったんでちょっとなぁ。。。。。
京都の嵯峨野に紅葉を見においでの時は、車ならここの有料駐車場に預ければ、近くの多くの寺を巡るのにはいい場所ですよ。1日600円だったかな?もっと高くなっているかも。。。
車でなくても、嵯峨野に行かれたら是非お立ち寄りください。
この清凉寺には、2度行っているが、本堂に上がったのは一度だけ。理由はわからない。2度とも紅葉の季節に訪れているのだけど、この寺よりも近くの祇王寺や化野念仏寺の紅葉の方がいいとばかりに、車をこの寺の有料駐車場に預けて、寺はそっちのけってところだったかも。
この清凉寺の本尊は、阿弥陀如来立像で、いわゆる来迎の形かな?なんでも中国から渡って来た阿弥陀さんのようで、顔の表情はやはり日本的ではないと思う。
それに国宝の指定部分の中には体内に納められた「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)も含まれている。このtがいない納入品は、結構珍しいかな。。。でも、本物を見るのは特別開帳の時だけだったかと記憶している、まぁレプリカはいつも展示されているようだけど。
この阿弥陀さんは、仏像の様式として「清凉寺式」と名付けられる衣の襞の模様が特殊で、この仏像が入って来た後に、かなりあちこちでも模刻されてたくさんあるようだ。(しかし、私の好みではない。。。。御免なさい)
立像=立ち姿は、一般的に来迎が多い。平安中期から後期以降の浄土教の流行で阿弥陀如来の来迎を表す立像がたくさん作られているが、そのハシリかなぁ????
来迎というのは、阿弥陀さんが臨終の枕元に浄土への旅立ちのお迎えを表しているんだけど、私自身で彫ってみたことあるけど、後になって人に「あげるものではないなぁ」なんて思うよになって、今は彫ることはやめてしまった。
やはり、阿弥陀如来は浄土でドンと構えておいでの座像の方が私は好きだなぁ。。。特に、清凉寺の阿弥陀如来は近くでも見ることできたけど、色も黒くて顔もなんか暗かったんでちょっとなぁ。。。。。
京都の嵯峨野に紅葉を見においでの時は、車ならここの有料駐車場に預ければ、近くの多くの寺を巡るのにはいい場所ですよ。1日600円だったかな?もっと高くなっているかも。。。
車でなくても、嵯峨野に行かれたら是非お立ち寄りください。
2016年10月26日
仏さんに惚れ込んで。。。20 中尊寺 阿弥陀如来
阿弥陀如来のお話、仏説・無量寿経に出てくる法蔵菩薩の四八願の成就から阿弥陀如来になる話から、阿弥陀如来が本当に好きになった。歳をとると信仰が厚くなり、仏さんや神さんに命を預けるということが多いらいいが、そういうことではなく、ただただ話の流れが好きになったので、命を預ける云々は関係なく阿弥陀さんに惚れたわけです。
もっとも、これは真宗の法要で詠まれる正信偈に違和感を覚えて親鸞研究を始めて、その中で出会ったことで、何はともあれ出会って良かったと思っている。
最初の阿弥陀さんに惚れたのは、何度も書いているけど法界寺の国宝・阿弥陀如来だった。初めて出会ったときは、本当に法界寺に行って良かった、阿弥陀さんに出会えて良かったと思ったものだ。しかし、その時に既に知っていた平等院の阿弥陀如来との比較を頭の中でしていた。比較して違いを思い、やはり私は法界寺の方がいいなぁと思ったものです。
法界寺で阿弥陀如来坐像に出会ってから、国宝の阿弥陀如来を見る様に心がけている。信仰という点はかなり低くて、やはり美的な教育を受けてきた身として、造形的に、その表現の良さで比較しているのだろうと思う。いくつか見た。これまでにいくつか書いたが、細かくは書かないので、読み手の方には理解しづらいと思いますが、ご容赦を。
中尊寺の阿弥陀如来は、金色堂に中に三体収まっています。これは国宝として有名であるし、金色堂そのものも国宝ということで、一度は見ておくべきだろうということで、名古屋から車で12時間かけてドライブ旅行でいきました。
前日一関に宿泊したのですが、東北自動車道の一関の手前で、なんとものすごく大きな満月に出迎えられました。雨男には珍しい出来事でした。翌日はとんでもない濃霧の中を一関から平泉に向かい、朝早い時間に中尊寺に参拝したものです。
この話は、かなり昔にグログで書き込んですが。。。。
金色堂に入りました。そしてガラスケースの中の金色堂とその中の仏像群とご対面。正直ガッカリでした。やはり、法界寺の阿弥陀を超えていない、しかも中尊寺の阿弥陀さんは平等院も超えていない。その時思ったことは、やはりこちらの造像の仏師の力が平安時期には平泉の仏師の力が及ばなかったのかと。定朝と比較できる力のある仏師がいなったのかと。
まぁ、金色堂の過去の保存状態の悪さもあるかもしれないが、阿弥陀如来そのものの顔の作りがやはり私の好みではないなぁ。。。。というのが正直な気持ちです。ファンの方には申し訳ないですが。
とはいえ、国の宝。いいものであるし、この先も末長く多くの人を癒し続けられんことを。
もっとも、これは真宗の法要で詠まれる正信偈に違和感を覚えて親鸞研究を始めて、その中で出会ったことで、何はともあれ出会って良かったと思っている。
最初の阿弥陀さんに惚れたのは、何度も書いているけど法界寺の国宝・阿弥陀如来だった。初めて出会ったときは、本当に法界寺に行って良かった、阿弥陀さんに出会えて良かったと思ったものだ。しかし、その時に既に知っていた平等院の阿弥陀如来との比較を頭の中でしていた。比較して違いを思い、やはり私は法界寺の方がいいなぁと思ったものです。
法界寺で阿弥陀如来坐像に出会ってから、国宝の阿弥陀如来を見る様に心がけている。信仰という点はかなり低くて、やはり美的な教育を受けてきた身として、造形的に、その表現の良さで比較しているのだろうと思う。いくつか見た。これまでにいくつか書いたが、細かくは書かないので、読み手の方には理解しづらいと思いますが、ご容赦を。
中尊寺の阿弥陀如来は、金色堂に中に三体収まっています。これは国宝として有名であるし、金色堂そのものも国宝ということで、一度は見ておくべきだろうということで、名古屋から車で12時間かけてドライブ旅行でいきました。
前日一関に宿泊したのですが、東北自動車道の一関の手前で、なんとものすごく大きな満月に出迎えられました。雨男には珍しい出来事でした。翌日はとんでもない濃霧の中を一関から平泉に向かい、朝早い時間に中尊寺に参拝したものです。
この話は、かなり昔にグログで書き込んですが。。。。
金色堂に入りました。そしてガラスケースの中の金色堂とその中の仏像群とご対面。正直ガッカリでした。やはり、法界寺の阿弥陀を超えていない、しかも中尊寺の阿弥陀さんは平等院も超えていない。その時思ったことは、やはりこちらの造像の仏師の力が平安時期には平泉の仏師の力が及ばなかったのかと。定朝と比較できる力のある仏師がいなったのかと。
まぁ、金色堂の過去の保存状態の悪さもあるかもしれないが、阿弥陀如来そのものの顔の作りがやはり私の好みではないなぁ。。。。というのが正直な気持ちです。ファンの方には申し訳ないですが。
とはいえ、国の宝。いいものであるし、この先も末長く多くの人を癒し続けられんことを。
2016年10月23日
仏さんに惚れ込んで。。。19 平等院 阿弥陀如来
平等院は何度行ったか、最初に行ったのは多分大学の古美術研究旅行の時だと思う。それ以前に行った記憶はないからだ。それから、娘が行きたいというので、家族全員で1度、一人で行ったのが2度かな。。。。いや1度かもしれない。ということはあまり行っていないということかな?
平等院といえば、建物の鳳凰堂とその中に鎮座する阿弥陀如来がいずれも国宝で有名なのは当たり前の当たり前。鳳凰堂はさておいて、阿弥陀如来は定朝作ということで定朝様式のお手本中のお手本なのだが、これが最高なのか?
何はともあれ、定朝様式の阿弥陀如来というと、まず平等院のものということになるのだが、なぜそうなってしまったのか?やはり平等院という並外れた建築物の中ないいるからではないかともう。それと、あまり阿弥陀如来の作風の比較はされるようだけど、どれが優れているかという比較はあまりされることもないだろう。
私は、阿弥陀如来に対しての思い入れは、昔はなかった。ただ単に仏像そのものの自分の好みだけで私の中に優劣を作っていた。それが、20年近く前にふと親鸞研究を始めることになり、その中で阿弥陀如来にに出会うことになった。そして、阿弥陀如来に惚れ込んでしまったの。
阿弥陀如来に惚れ込んでと行っても、それは単に仏像そのものに対して惚れ込んだのではなく、仏教の経典の中に書かれた阿弥陀如来の姿にも惚れたのだ。そして、私の心の中に出来上がった阿弥陀如来像がぴったりあったのがこのシリーズの2番目に書いた法界寺の阿弥陀如来なのだ。
上の写真左が平等院の阿弥陀仏で右が法界寺の阿弥陀仏。これだけでは比較は難しいが、とりあえず顔だけでも比較するために下に2回の顔だけを載せてみた。
この先は、多分に好みの問題になるかもしれないが、私にとっては法界寺の阿弥陀如来の方が心が休まるんだなぁ。。。。もっとも、平等院で拝観するときは、多くの観光客の中で近くに寄ってみることもじっくりみることもできないが、法界寺はある程度じっくりと平等院よりも近くで見ることができるという差があるので、私の気持ちに差が出ている可能性がないとはいえないだろう。でも、どちらも最初に見たときの印象は全く違うんだなぁ。。平等院では観劇というものが待ったくなかったが、法界寺は見た瞬間に「きてよかった」と思ったものだ。この差は、人には伝わらないかもしれない。
顔だけ見ると、法界寺の方が、童顔なのだ。そしてなんとなく見守ってくれているという印象で、平等院はなんとなくお高く止まった感じがしないでもない。まぁ、好みの問題かな?
何れにしても、よく似た阿弥陀さんではある。が、世に知られているレベルはものすごく違いうね。平等院は、教科書にもたくさん出てくるけどねぇ。。。。まぁ、しかし法界寺はそんなに有名でない方がいい。静かに見せていただけるのが嬉しいから。
平等院といえば、建物の鳳凰堂とその中に鎮座する阿弥陀如来がいずれも国宝で有名なのは当たり前の当たり前。鳳凰堂はさておいて、阿弥陀如来は定朝作ということで定朝様式のお手本中のお手本なのだが、これが最高なのか?
何はともあれ、定朝様式の阿弥陀如来というと、まず平等院のものということになるのだが、なぜそうなってしまったのか?やはり平等院という並外れた建築物の中ないいるからではないかともう。それと、あまり阿弥陀如来の作風の比較はされるようだけど、どれが優れているかという比較はあまりされることもないだろう。
私は、阿弥陀如来に対しての思い入れは、昔はなかった。ただ単に仏像そのものの自分の好みだけで私の中に優劣を作っていた。それが、20年近く前にふと親鸞研究を始めることになり、その中で阿弥陀如来にに出会うことになった。そして、阿弥陀如来に惚れ込んでしまったの。
阿弥陀如来に惚れ込んでと行っても、それは単に仏像そのものに対して惚れ込んだのではなく、仏教の経典の中に書かれた阿弥陀如来の姿にも惚れたのだ。そして、私の心の中に出来上がった阿弥陀如来像がぴったりあったのがこのシリーズの2番目に書いた法界寺の阿弥陀如来なのだ。
上の写真左が平等院の阿弥陀仏で右が法界寺の阿弥陀仏。これだけでは比較は難しいが、とりあえず顔だけでも比較するために下に2回の顔だけを載せてみた。
この先は、多分に好みの問題になるかもしれないが、私にとっては法界寺の阿弥陀如来の方が心が休まるんだなぁ。。。。もっとも、平等院で拝観するときは、多くの観光客の中で近くに寄ってみることもじっくりみることもできないが、法界寺はある程度じっくりと平等院よりも近くで見ることができるという差があるので、私の気持ちに差が出ている可能性がないとはいえないだろう。でも、どちらも最初に見たときの印象は全く違うんだなぁ。。平等院では観劇というものが待ったくなかったが、法界寺は見た瞬間に「きてよかった」と思ったものだ。この差は、人には伝わらないかもしれない。
顔だけ見ると、法界寺の方が、童顔なのだ。そしてなんとなく見守ってくれているという印象で、平等院はなんとなくお高く止まった感じがしないでもない。まぁ、好みの問題かな?
何れにしても、よく似た阿弥陀さんではある。が、世に知られているレベルはものすごく違いうね。平等院は、教科書にもたくさん出てくるけどねぇ。。。。まぁ、しかし法界寺はそんなに有名でない方がいい。静かに見せていただけるのが嬉しいから。
2016年10月21日
仏さんに惚れ込んで。。。18 広隆寺 弥勒菩薩
広隆寺の弥勒菩薩といえば、いらない人がいないくらいに有名で、何せ国宝指定第1号ということになってるよなぁ。
広隆寺は訪れたのは1度、ひょっとしたら2度かも。大学の古美研(古美術研究旅行)で広隆寺に行ったという記憶が全く残っていない。なので行ったかどうかもわからないくらいだ。古い写真のネガを引っ張り出して探せばわかるかも知れないけど、そこまでして書くことでもあるまい。
2回目に行ったのは、20数年前かな?息子が京都の某大学に行っていた時だったかと思う。白梅町から電車に乗って帷子ノ辻で乗り換えて太秦広隆寺まで行った。そして停留所のすぐ前(北側)に広隆寺があった。(あの門の前の道って三条通りなんですねぇ、知ってました?)
境内は広かったなぁ。。。ただただだだっ広く思っただけ。建物の記憶は全くない、あちこちぶらついて、八角堂みたいなのがあったのはなんとなく記憶しているけど、他はなぁ。。
まぁ、広隆寺に来るのはお目当は一つでしょうね。弥勒さんですよね。
霊宝館にあったと思う。霊宝館の中はたくさんの仏像があったよ。拝観者の多くが弥勒菩薩の前にたむろ。そんなに見たいんかいな。。。
実は、私はこの弥勒菩薩に魅力を感じない人なのです。なぜ国宝になったのか?重要文化財程度でも構わない、それが国宝第1号とは。。。このシリーズの最初にかいたように、私は生まれて初めて仏さんに惚れたのは中宮寺の”半跏思惟像”で、この仏さんは今でこそ”半跏思惟像”って呼んでいるけど、昔は”弥勒菩薩”って行ってたよ。こちらも国宝だけど、指定番号は23番で、なんでこんなに番号が違うの?国宝指定日は同じ1951/06/09なんですよ。。ということは、ただ単純に番号をつけるときに違ったということのようですが、おそらく誰かの好みで広隆寺が先になったんでしょうね。。。
そんなことはともかく、とにかく同じ弥勒(半跏思惟像)ならやっぱり中宮寺だわなぁ。。でも、これはあくまでもCMなみに個人の感想です。
弥勒菩薩(中宮寺は如意輪観音らしいが)は、仏教の世界でシャカがなくなって仏法が途絶えたところで、苦しむ衆生を救うために現れる菩薩で、悟り開いたので弥勒如来とも名乗っている。な¥まぁなあ外こと衆生を救うためにお考えになっているので、それが”思惟”。その考える姿が、椅子に座って右足を組んでいるというこれは”半跏”。
半跏思惟像はたくさんあるねぇ。。今年(2016年)は韓国の半跏思惟像と並んだりして話題兄もなった。
そんな国宝なんですが、私はなぜか苦手なんです。たぶんに反主流派の私ですから、意地でも国宝第1号には気が向かないのかも知れない。
で、霊宝館に入ってたくさんの仏像を見たのですが、今はどうなっているかわからないけど、
私の記憶の中にある霊宝館の仏像の配置では、弥勒を見ている立ち位置で背中側にある大きな仏像に私はミリョクを感じたのだ。記憶では阿弥陀如来だったかと思うのだが結構大きかったなぁ。。。その当時は、まだ阿弥陀大好きではなかったので、記憶にとどめるのが薄いのかも知れない。
広隆寺においでになり霊宝館に起きになったら、是非一度弥勒菩薩の反対側に目を向けて見てください。私の行っているのが間違ってなければ、私の好みが理解できるかと思います。
広隆寺は訪れたのは1度、ひょっとしたら2度かも。大学の古美研(古美術研究旅行)で広隆寺に行ったという記憶が全く残っていない。なので行ったかどうかもわからないくらいだ。古い写真のネガを引っ張り出して探せばわかるかも知れないけど、そこまでして書くことでもあるまい。
2回目に行ったのは、20数年前かな?息子が京都の某大学に行っていた時だったかと思う。白梅町から電車に乗って帷子ノ辻で乗り換えて太秦広隆寺まで行った。そして停留所のすぐ前(北側)に広隆寺があった。(あの門の前の道って三条通りなんですねぇ、知ってました?)
境内は広かったなぁ。。。ただただだだっ広く思っただけ。建物の記憶は全くない、あちこちぶらついて、八角堂みたいなのがあったのはなんとなく記憶しているけど、他はなぁ。。
まぁ、広隆寺に来るのはお目当は一つでしょうね。弥勒さんですよね。
霊宝館にあったと思う。霊宝館の中はたくさんの仏像があったよ。拝観者の多くが弥勒菩薩の前にたむろ。そんなに見たいんかいな。。。
実は、私はこの弥勒菩薩に魅力を感じない人なのです。なぜ国宝になったのか?重要文化財程度でも構わない、それが国宝第1号とは。。。このシリーズの最初にかいたように、私は生まれて初めて仏さんに惚れたのは中宮寺の”半跏思惟像”で、この仏さんは今でこそ”半跏思惟像”って呼んでいるけど、昔は”弥勒菩薩”って行ってたよ。こちらも国宝だけど、指定番号は23番で、なんでこんなに番号が違うの?国宝指定日は同じ1951/06/09なんですよ。。ということは、ただ単純に番号をつけるときに違ったということのようですが、おそらく誰かの好みで広隆寺が先になったんでしょうね。。。
そんなことはともかく、とにかく同じ弥勒(半跏思惟像)ならやっぱり中宮寺だわなぁ。。でも、これはあくまでもCMなみに個人の感想です。
弥勒菩薩(中宮寺は如意輪観音らしいが)は、仏教の世界でシャカがなくなって仏法が途絶えたところで、苦しむ衆生を救うために現れる菩薩で、悟り開いたので弥勒如来とも名乗っている。な¥まぁなあ外こと衆生を救うためにお考えになっているので、それが”思惟”。その考える姿が、椅子に座って右足を組んでいるというこれは”半跏”。
半跏思惟像はたくさんあるねぇ。。今年(2016年)は韓国の半跏思惟像と並んだりして話題兄もなった。
そんな国宝なんですが、私はなぜか苦手なんです。たぶんに反主流派の私ですから、意地でも国宝第1号には気が向かないのかも知れない。
で、霊宝館に入ってたくさんの仏像を見たのですが、今はどうなっているかわからないけど、
私の記憶の中にある霊宝館の仏像の配置では、弥勒を見ている立ち位置で背中側にある大きな仏像に私はミリョクを感じたのだ。記憶では阿弥陀如来だったかと思うのだが結構大きかったなぁ。。。その当時は、まだ阿弥陀大好きではなかったので、記憶にとどめるのが薄いのかも知れない。
広隆寺においでになり霊宝館に起きになったら、是非一度弥勒菩薩の反対側に目を向けて見てください。私の行っているのが間違ってなければ、私の好みが理解できるかと思います。
2016年10月18日
仏さんに惚れ込んで。。。17 高徳院・阿弥陀如来(鎌倉大仏)
シリーズのこれまでは、名古屋以西、多くが奈良、京都の仏像を書いてきた。まぁ当然と言えば当然で、訪れる機会の多いところだから、それに国宝を言われる仏像が目白押しなんで、書く機会も多くなる。
今回は、ちょいと東に目を向けて、鎌倉。鎌倉といえば言わずと知れた鎌倉の大仏さんである。
鎌倉の大仏さんは、阿弥陀如来なのだ。奈良の東大の大仏さんが盧舎那仏だったのだが、これか造像の時代が違い、施主の思いが違うからだと思う。
奈良の大仏さんは、当時はまぁ仏教の基本的な考えの造像で多くの衆生を救いということからかな?鎌倉の大仏さんは、鎌倉時代の造像、寺伝によれば作者はわからないそうだが、多分に当時の仏教の流行の阿弥陀信仰の流れからではないかって思う。わた日はが買う者ではないから、いい加減なことを書いているだろうけど、ご容赦を。
この阿弥陀さんは、南南西を向いてお座りになっている。阿弥陀如来というのは西にある浄土の如来さんで、室町、安土桃山、江戸時期のお寺では、特に浄土宗や浄土真宗の寺では多くが西から東向いてお座りになっているか、前に描いた2宗派は立ち姿の来迎像が多いと思う。
鎌倉時代となると、まだ浄土教のお寺というのはそんなに多くはなかっただろうから、一般の寺院のような南向きなのかもしれない。とはいえ、多くの仏像の坐像は南向きかな?
昨年久々、そう50年ぶりに訪れた。久々なのだ。東京に住んでいる頃は、4度行っている。浪人の時、大学のとき3度。つまりは、今の名古屋から京都、奈良に行くのと同じ感覚で、東京のことイコール鎌倉となってしまうから、行く回数も多く、記憶に残ることも多くなる。
大学までに訪れた時には、まだ空気もそんなに汚れていなかったから、まだ綺麗なお身体をされていたと思う。しかし、昨年訪れた時は、酸性雨にやられて、見るも無残なお姿だった。できれば、屋根があってその下ならばこんなにはならないだろうなぁ、と正直かわいそうに思えたものです。
でも外にあるから、鎌倉の大仏さんなのかもなぁ。。。なんていう気持ちもある。
与謝野晶子が「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」という歌を残しているが、何を勘違いしたのでしょうねえ。大仏さん=釈迦牟尼と思い込んでいたのだろうか?まぁ、それは置いといても、いい顔されてるんです。奈良の大仏さんは硬いお顔なんですが、こちらは憂いを含んで衆生を見守っているって感じです。
今回は、ちょいと東に目を向けて、鎌倉。鎌倉といえば言わずと知れた鎌倉の大仏さんである。
鎌倉の大仏さんは、阿弥陀如来なのだ。奈良の東大の大仏さんが盧舎那仏だったのだが、これか造像の時代が違い、施主の思いが違うからだと思う。
奈良の大仏さんは、当時はまぁ仏教の基本的な考えの造像で多くの衆生を救いということからかな?鎌倉の大仏さんは、鎌倉時代の造像、寺伝によれば作者はわからないそうだが、多分に当時の仏教の流行の阿弥陀信仰の流れからではないかって思う。わた日はが買う者ではないから、いい加減なことを書いているだろうけど、ご容赦を。
この阿弥陀さんは、南南西を向いてお座りになっている。阿弥陀如来というのは西にある浄土の如来さんで、室町、安土桃山、江戸時期のお寺では、特に浄土宗や浄土真宗の寺では多くが西から東向いてお座りになっているか、前に描いた2宗派は立ち姿の来迎像が多いと思う。
鎌倉時代となると、まだ浄土教のお寺というのはそんなに多くはなかっただろうから、一般の寺院のような南向きなのかもしれない。とはいえ、多くの仏像の坐像は南向きかな?
昨年久々、そう50年ぶりに訪れた。久々なのだ。東京に住んでいる頃は、4度行っている。浪人の時、大学のとき3度。つまりは、今の名古屋から京都、奈良に行くのと同じ感覚で、東京のことイコール鎌倉となってしまうから、行く回数も多く、記憶に残ることも多くなる。
大学までに訪れた時には、まだ空気もそんなに汚れていなかったから、まだ綺麗なお身体をされていたと思う。しかし、昨年訪れた時は、酸性雨にやられて、見るも無残なお姿だった。できれば、屋根があってその下ならばこんなにはならないだろうなぁ、と正直かわいそうに思えたものです。
でも外にあるから、鎌倉の大仏さんなのかもなぁ。。。なんていう気持ちもある。
与謝野晶子が「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」という歌を残しているが、何を勘違いしたのでしょうねえ。大仏さん=釈迦牟尼と思い込んでいたのだろうか?まぁ、それは置いといても、いい顔されてるんです。奈良の大仏さんは硬いお顔なんですが、こちらは憂いを含んで衆生を見守っているって感じです。
見守られている、私です。
写真は、昨年私が撮ったものです。
写真は、昨年私が撮ったものです。
2016年10月17日
仏さんに惚れ込んで。。。16 法隆寺夢殿 救世観音
法隆寺は、聖徳太子開山?ということで、日本の仏教の原点的な存在で、とにかくたくさんの国宝やら重要文化財がある。ただ、それを見る人によっては好みがあるだろうから全てが好きになるものでもない。信仰の対象としてどのくらいの人が見ているかわからないが、一体法隆寺の仏像の中でどれが一番好かれているだろう?
日本で一番好まれている仏像といえば興福寺の阿修羅だけど、あれはどちらかというとマスコミに乗っかる機会が多いこともあるような気がする。テレビなどに出てくる機会が多ければ多いほど一般の人には好かれる、好きにならねばならないように思われるもの。
よく「癒される」なんてのをテレビでやっていると、誰も彼もが癒されなくてはいかんような雰囲気があるけど、私はそんなのを見ると余計にイラついて癒しどころではないのだ。阿修羅の話は”興福寺八部衆の沙羯羅”のところで書いたように、私は阿修羅よりも沙羯羅の方が好みなのだ。
前に 法隆寺は、百済観音を書いている。とにかく法隆寺では一番好きな仏像で、その次は?となると難しい。あまりにたくさんあるから、記憶を辿るだけでも大変なのだが、やはり百済観音に次いで頭に出てくるのは夢殿の救世観音だ。
夢殿に行っても救世観音はいつも見ることができるわけではなかったと思う。毎年2回だったかな?この2016年の秋は秋の公開(10月22日から11月22日)として特別開帳される。そんな機会の少ないはずの救世観音に私は3度もお会いしているのだ。多分に秋や春に行く機会が多かったことで、特別開帳に重なったからだと思う。
救世観音は、明治まで秘仏中の秘仏として公開されることはなかったことで、公開されるようになって人はあの金箔の剥がれていない姿には感激したのではないか?作られた当時の姿を止める仏像の少ない中で、ひときわ目立つ存在だと思う。
大きさはそんなに百済観音のように大きくなく、確か記憶では聖徳太子の身長に合わせたということではなかったか?開帳されてもいつも遠くでしか見られないから細かいことはわからないにしても、金箔は綺麗だよなぁ。。ちょっと色変わってはいるけど。
お顔は、アルカイックスマイルそのもの、硬いですね。致し方ないのですが、やはり仏さんは柔らかい表情がいいなぁなんて思うのは贅沢かな?しかし、お姿は綺麗ですね。。左右まったくの対象、宝珠を持った手が違うくらいかな?すばらしいい形だと思います。
実は、私は救世観音が本当に江戸時代に開帳されなかったのか?と疑問を持っているのです。なぜかというと、円空仏を掘り始め、いろいろな円空仏の写真を見て行くうちに、円空さんが法隆寺を訪れた後で作風がまったくと言っていいくらいに変わっているのです。あの衣が左右にギザギザで開いた状態は、嫌でも救世観音の衣の状態を思い起こさせるのです。
円空さんが、法隆寺でヒントを得たことは多くの人、学者さんも認めている事実のようですが、逆に救世観音の絶対秘仏についての言及がないのですね。
まぁ昔のことはわからないけど、明治に頃フェノロサが開帳を望んで開いてもらったときに、グゼン観音を包んでいた布は、昔のままだったのだろうか?飛鳥時代に布がそのまま明治まで何の変化もなく救世観音を包んでいた?どうにも疑問だなぁ。。今ならその布を科学的に分析するだろうけど、明治の時はできなかったのか?この辺り、どこかで明らかにしてほしいなんて思ったりもする。
まぁ、してもしなくても絶対秘仏がいつからだなんてことは関係なく、素晴らしい仏像であることには変わりはないです。
日本で一番好まれている仏像といえば興福寺の阿修羅だけど、あれはどちらかというとマスコミに乗っかる機会が多いこともあるような気がする。テレビなどに出てくる機会が多ければ多いほど一般の人には好かれる、好きにならねばならないように思われるもの。
よく「癒される」なんてのをテレビでやっていると、誰も彼もが癒されなくてはいかんような雰囲気があるけど、私はそんなのを見ると余計にイラついて癒しどころではないのだ。阿修羅の話は”興福寺八部衆の沙羯羅”のところで書いたように、私は阿修羅よりも沙羯羅の方が好みなのだ。
前に 法隆寺は、百済観音を書いている。とにかく法隆寺では一番好きな仏像で、その次は?となると難しい。あまりにたくさんあるから、記憶を辿るだけでも大変なのだが、やはり百済観音に次いで頭に出てくるのは夢殿の救世観音だ。
夢殿に行っても救世観音はいつも見ることができるわけではなかったと思う。毎年2回だったかな?この2016年の秋は秋の公開(10月22日から11月22日)として特別開帳される。そんな機会の少ないはずの救世観音に私は3度もお会いしているのだ。多分に秋や春に行く機会が多かったことで、特別開帳に重なったからだと思う。
救世観音は、明治まで秘仏中の秘仏として公開されることはなかったことで、公開されるようになって人はあの金箔の剥がれていない姿には感激したのではないか?作られた当時の姿を止める仏像の少ない中で、ひときわ目立つ存在だと思う。
大きさはそんなに百済観音のように大きくなく、確か記憶では聖徳太子の身長に合わせたということではなかったか?開帳されてもいつも遠くでしか見られないから細かいことはわからないにしても、金箔は綺麗だよなぁ。。ちょっと色変わってはいるけど。
お顔は、アルカイックスマイルそのもの、硬いですね。致し方ないのですが、やはり仏さんは柔らかい表情がいいなぁなんて思うのは贅沢かな?しかし、お姿は綺麗ですね。。左右まったくの対象、宝珠を持った手が違うくらいかな?すばらしいい形だと思います。
実は、私は救世観音が本当に江戸時代に開帳されなかったのか?と疑問を持っているのです。なぜかというと、円空仏を掘り始め、いろいろな円空仏の写真を見て行くうちに、円空さんが法隆寺を訪れた後で作風がまったくと言っていいくらいに変わっているのです。あの衣が左右にギザギザで開いた状態は、嫌でも救世観音の衣の状態を思い起こさせるのです。
円空さんが、法隆寺でヒントを得たことは多くの人、学者さんも認めている事実のようですが、逆に救世観音の絶対秘仏についての言及がないのですね。
まぁ昔のことはわからないけど、明治に頃フェノロサが開帳を望んで開いてもらったときに、グゼン観音を包んでいた布は、昔のままだったのだろうか?飛鳥時代に布がそのまま明治まで何の変化もなく救世観音を包んでいた?どうにも疑問だなぁ。。今ならその布を科学的に分析するだろうけど、明治の時はできなかったのか?この辺り、どこかで明らかにしてほしいなんて思ったりもする。
まぁ、してもしなくても絶対秘仏がいつからだなんてことは関係なく、素晴らしい仏像であることには変わりはないです。
2016年10月17日
仏さんに惚れ込んで。。。15 東大寺 盧舎那仏(大仏さん)
おそらく東大寺に行ったことのない人は、いないと思えるくらいに有名なてあだけど、本当に皆さんが行っているんだろうかと思うときもある。
名古屋で生まれ育つと、私の年齢(60代から上)は多分に修学旅行で奈良・京都に行っているかと思う。そして私の歩いたコースを多くが歩くともうけど、奈良駅(昔国鉄。今JR)で降りて一直線で東に行く(結構な距離あるけど)と猿沢池で、階段上がって興福寺見て、奈良国立博物館の裏手(飛び火野カナ?)を通って、天理に向かう道あたりで左に折れて北に向かうと東大寺に至る。小学校の児童にはちょいときついコースなんだけどね、昔は食糧事情もよくなかったから体力的にも大変だたよな。(今思い出したけど、私の修学旅行は”お米”を持って行ったかと遠い記憶)
東大寺も広い寺だから、この中歩くだけでも大変なんだですね。とにかく大仏殿に到着して、みあげたあの盧舎那仏。盧舎那仏って、ほとんどの人は言わない。大体”大仏さん”と行ってしまう。日本で最大の仏像と言われているから大仏の愛称なんだろう。あちこちで大仏さんを見ているからその印象の比較でもやっぱりでかい。。。。
東大寺は、このシリーズでは前に戒壇堂(昔は戒壇院と言っていた)の四天王、三月堂(法華堂)の不空羂索観音についてかいたが、やっぱり大仏さん=盧舎那仏を外すわけにはいかない。
と言って、そんなに好きと思ってはいない。とはいえ嫌いでは絶対にない。初めて訪れた時は、ただただでかくて、ただ見上げるだけ。仏さんの印象は全く残っていない。残ったのは柱の穴くらいかなぁ。。。。でも、よく歩かされたよ、そのあと若草山にも生かされているんだよ。雨で登らなかったと記憶しているけど。
大仏さん=盧舎那仏には、その後何度もお会いしています。中学の時、大学の時、大阪に住むようになっても、そして名古屋に戻って来てからの数回行っている。大仏さんの顔を見るたびに、印象が変わる。多分、その時その時の心の持ちようや、仏像に関する知識の変化、歴史上に出てくる知識の変化などで、想いが変わるのだと思う。でも、やっぱり私自身の心の持ちようが印象のわかる素だと思っている。
大仏さんは、結構硬い顔をしていると思う。今のは江戸時代に修復された顔で時代を反映しているのかもしれないが、開眼当時の顔はどんなだったろうと、思いをはせるだけだ。あの平のバカ息子=重衡が変なこと考えなかったらこんなことにはなっていないだろうともうけど残念ねぇ。
しかし、人はなぜこの大仏を見に行くのだ?盧舎那仏への信仰なんてとても考えられない。では?美術品を見る?歴史を見る?いろいろだろうなぁ。。。。。美術品として見るのなら周囲にある多聞天、広目天の方が良かったりしないか?あれもでかいけど。でも、真ん中に座る大仏さんは別物だよねぇ。。
そうそう、大仏殿の内部の撮影は、三脚を立てない限り撮影可能なんだって。。
名古屋で生まれ育つと、私の年齢(60代から上)は多分に修学旅行で奈良・京都に行っているかと思う。そして私の歩いたコースを多くが歩くともうけど、奈良駅(昔国鉄。今JR)で降りて一直線で東に行く(結構な距離あるけど)と猿沢池で、階段上がって興福寺見て、奈良国立博物館の裏手(飛び火野カナ?)を通って、天理に向かう道あたりで左に折れて北に向かうと東大寺に至る。小学校の児童にはちょいときついコースなんだけどね、昔は食糧事情もよくなかったから体力的にも大変だたよな。(今思い出したけど、私の修学旅行は”お米”を持って行ったかと遠い記憶)
東大寺も広い寺だから、この中歩くだけでも大変なんだですね。とにかく大仏殿に到着して、みあげたあの盧舎那仏。盧舎那仏って、ほとんどの人は言わない。大体”大仏さん”と行ってしまう。日本で最大の仏像と言われているから大仏の愛称なんだろう。あちこちで大仏さんを見ているからその印象の比較でもやっぱりでかい。。。。
東大寺は、このシリーズでは前に戒壇堂(昔は戒壇院と言っていた)の四天王、三月堂(法華堂)の不空羂索観音についてかいたが、やっぱり大仏さん=盧舎那仏を外すわけにはいかない。
と言って、そんなに好きと思ってはいない。とはいえ嫌いでは絶対にない。初めて訪れた時は、ただただでかくて、ただ見上げるだけ。仏さんの印象は全く残っていない。残ったのは柱の穴くらいかなぁ。。。。でも、よく歩かされたよ、そのあと若草山にも生かされているんだよ。雨で登らなかったと記憶しているけど。
大仏さん=盧舎那仏には、その後何度もお会いしています。中学の時、大学の時、大阪に住むようになっても、そして名古屋に戻って来てからの数回行っている。大仏さんの顔を見るたびに、印象が変わる。多分、その時その時の心の持ちようや、仏像に関する知識の変化、歴史上に出てくる知識の変化などで、想いが変わるのだと思う。でも、やっぱり私自身の心の持ちようが印象のわかる素だと思っている。
大仏さんは、結構硬い顔をしていると思う。今のは江戸時代に修復された顔で時代を反映しているのかもしれないが、開眼当時の顔はどんなだったろうと、思いをはせるだけだ。あの平のバカ息子=重衡が変なこと考えなかったらこんなことにはなっていないだろうともうけど残念ねぇ。
しかし、人はなぜこの大仏を見に行くのだ?盧舎那仏への信仰なんてとても考えられない。では?美術品を見る?歴史を見る?いろいろだろうなぁ。。。。。美術品として見るのなら周囲にある多聞天、広目天の方が良かったりしないか?あれもでかいけど。でも、真ん中に座る大仏さんは別物だよねぇ。。
そうそう、大仏殿の内部の撮影は、三脚を立てない限り撮影可能なんだって。。
2016年10月14日
仏さんに惚れ込んで。。。14 役行者
このイリーズも13回目になった。13を忌み嫌うのはキリスト教の話で仏教には関係ないんだけど、この際私が忌み嫌うということだけにひっかけで、苦手なものの代表として扱うことに。
実は、昔から「役行者=役小角の坐像をたくさん見かけるのだが、なんか好きになれなんですね。理由もわかってます。
理由は、日本の仏教の修験道との結びつきの親玉という認識で、修験道が胡散臭いもの(ごめんなさい)といつからか思い込むようになった。実際、あの山伏の姿が嫌いで、えいっえいっ」って指で食うを聞いってなんて動作も、何でこんなことする?と不思議でしょうがないあんだな。あんなんで思いが通じたら世話ないと思うほどに、冷たく見ているからからだと思う。
大体が山岳信仰は神道の流れでしょ?神仏混淆は、止むに止まれぬ時代もあったと思うけど、なんかあの山伏姿や修行は違うんだよなぁ。比叡山の「千日回峰行」という荒修行があるけど、これもその流れではないかって思ってんです。自分の命をかけて修行する。まぁ確かに言い伝えによれば、お釈迦さんんも断食修行をしていると聞くが、自分の命をかけて修行して、それが他の人の供養になるのかと不思議で仕方がないのだ。
お釈迦さんの話は、まあお話として聞き流せるけど、日本以外の国の仏教はそんな荒行事をしているんかいなぁ?何ともかんとも、わからん世界です。
大体が、宗教というのは哲学=頭のなかの世界のことで、肉体が伴うというのは私には理解が遠い。じっくり考えて済ませることができないのか?
例えば、阿弥陀如来は元は法蔵菩薩で願掛けして、その願かけを長い時間で成就させて如来になったんだけど、あの無茶な修行をしたんだろうか?他の如来さんも、人間が菩薩になって、それから如来になるんだけど、命をかけた修行したのか??
それは置いといて、比叡山などでの荒修行を達成した方が結構おいでになるんだけど、その方々は如来さんにおなりになったのだろうか?聞いたことがない・・・・
とまぁ、いろいろ嫌味なことを書くのは、私にはそう行った修行をするだけの力もないし意気地もないからなんだけど。でもしないと悟ることってできないのだろうか?
こんな思いに引き込んでくれるきつい修行の立役者の役小角は本当に苦手なお人であらせられる。ついでに、どの彫像も痩せこけて、杖をついて、私の嫌いなタイプのお姿なんですよう。私が、ずんぐりむっくりしているからそう思うのかなぁ?
できれば、いく先の寺にある役小角の像には出会いたくないと思ってます。
実は、昔から「役行者=役小角の坐像をたくさん見かけるのだが、なんか好きになれなんですね。理由もわかってます。
理由は、日本の仏教の修験道との結びつきの親玉という認識で、修験道が胡散臭いもの(ごめんなさい)といつからか思い込むようになった。実際、あの山伏の姿が嫌いで、えいっえいっ」って指で食うを聞いってなんて動作も、何でこんなことする?と不思議でしょうがないあんだな。あんなんで思いが通じたら世話ないと思うほどに、冷たく見ているからからだと思う。
大体が山岳信仰は神道の流れでしょ?神仏混淆は、止むに止まれぬ時代もあったと思うけど、なんかあの山伏姿や修行は違うんだよなぁ。比叡山の「千日回峰行」という荒修行があるけど、これもその流れではないかって思ってんです。自分の命をかけて修行する。まぁ確かに言い伝えによれば、お釈迦さんんも断食修行をしていると聞くが、自分の命をかけて修行して、それが他の人の供養になるのかと不思議で仕方がないのだ。
お釈迦さんの話は、まあお話として聞き流せるけど、日本以外の国の仏教はそんな荒行事をしているんかいなぁ?何ともかんとも、わからん世界です。
大体が、宗教というのは哲学=頭のなかの世界のことで、肉体が伴うというのは私には理解が遠い。じっくり考えて済ませることができないのか?
例えば、阿弥陀如来は元は法蔵菩薩で願掛けして、その願かけを長い時間で成就させて如来になったんだけど、あの無茶な修行をしたんだろうか?他の如来さんも、人間が菩薩になって、それから如来になるんだけど、命をかけた修行したのか??
それは置いといて、比叡山などでの荒修行を達成した方が結構おいでになるんだけど、その方々は如来さんにおなりになったのだろうか?聞いたことがない・・・・
とまぁ、いろいろ嫌味なことを書くのは、私にはそう行った修行をするだけの力もないし意気地もないからなんだけど。でもしないと悟ることってできないのだろうか?
こんな思いに引き込んでくれるきつい修行の立役者の役小角は本当に苦手なお人であらせられる。ついでに、どの彫像も痩せこけて、杖をついて、私の嫌いなタイプのお姿なんですよう。私が、ずんぐりむっくりしているからそう思うのかなぁ?
できれば、いく先の寺にある役小角の像には出会いたくないと思ってます。
タグ :役小角
2016年10月13日
仏さんに惚れ込んで。。。13 蟹満寺 釈迦如来坐像
蟹満寺 どのくらいの人が訪れるのだろう?この山城町も京都なのだ。奈良の大仏殿の横を北上して奈良坂を超え木津川を渡ってしばらく国道24号線を北に行くと右手に「蟹満寺」の案内看板に出会う。そこから川ぞいに東に行くと大きな看板があって、そこが駐車場らしいが、多分観光バス用ではないかと思う。ここで止めたら、あと結構歩きますよ。乗用車なら無視してさらに東に進みます。が、細い道になるのでご注意を。別な道から行ったほうがいいかも。。。。
と、まぁ表通りにはないので、ナビがないと結構面倒です。ナビに「蟹満寺」とセットしてお出かけください。寺のすぐ横に駐車場があります。
蟹満寺は、ミステリファンならご存知かも、山村美紗の「鳥獣の寺」に「蟹寺」として登場する。多分、書かれた当時の様子とは今の蟹満寺は異なったものになっていると思う。
私は、この寺を2度訪れているが、最初はこれもまた大学の古美術研究旅行で行ったのだ。もう50年も前なんだよなぁ。そして、そこで印象に残ったのが、国宝の「釈迦如来坐像」だ。なんで印象に残ったのかというと、この仏像はととにかく真っ黒なのだ。ここまで真っ黒で綺麗なのは、薬師寺の薬師三尊くらいかと思うほどの真っ黒なのだ。この蟹満寺の釈迦如来も、薬師寺の薬師三尊もいずれも銅製なので金箔が落ちると酸化して真っ黒になるんだろうと思う。
この釈迦如来は、顔の表情がちょいと怖いんですね。何を怒っておられるのか、いわゆる仏頂面というか、口を”への字”の世に結んでいるから。なので、どちらかといえば、敬遠するタイプの仏像だけど、なぜか古美研で見たときの印象からもう一度行ってみようなんて思わされて、娘、家内を伴って見にいったのだ。
仏像そのものに再会して、再会の望みは叶えたけど、なんだか印象が大幅に変わってしまった。理由は本堂自体が昔とまるっきり違っているし、周囲の環境が他の寺になってしまっているからなのだ。
昔の本堂の印象ははっきりとは残っていないが、古びた建物だったように思う。それが2回目に行ったときは建て替えたばかりのようにキンキラキンで、仏像との対比で淡中唸ってしまっていたから、仏像自体の印象も変わってしまったのだと思う。
京都のある国宝を持つお寺では、屋根の檜皮葺の取り換えに資金にもお困りのようなのだが、この寺はこんなにも、そう行ったときはまだ周囲の改築中だったくらいに資金が豊富におありなんでしょうねぇ・・・なんでこんなに違うの??
と、まぁ表通りにはないので、ナビがないと結構面倒です。ナビに「蟹満寺」とセットしてお出かけください。寺のすぐ横に駐車場があります。
蟹満寺は、ミステリファンならご存知かも、山村美紗の「鳥獣の寺」に「蟹寺」として登場する。多分、書かれた当時の様子とは今の蟹満寺は異なったものになっていると思う。
私は、この寺を2度訪れているが、最初はこれもまた大学の古美術研究旅行で行ったのだ。もう50年も前なんだよなぁ。そして、そこで印象に残ったのが、国宝の「釈迦如来坐像」だ。なんで印象に残ったのかというと、この仏像はととにかく真っ黒なのだ。ここまで真っ黒で綺麗なのは、薬師寺の薬師三尊くらいかと思うほどの真っ黒なのだ。この蟹満寺の釈迦如来も、薬師寺の薬師三尊もいずれも銅製なので金箔が落ちると酸化して真っ黒になるんだろうと思う。
この釈迦如来は、顔の表情がちょいと怖いんですね。何を怒っておられるのか、いわゆる仏頂面というか、口を”への字”の世に結んでいるから。なので、どちらかといえば、敬遠するタイプの仏像だけど、なぜか古美研で見たときの印象からもう一度行ってみようなんて思わされて、娘、家内を伴って見にいったのだ。
仏像そのものに再会して、再会の望みは叶えたけど、なんだか印象が大幅に変わってしまった。理由は本堂自体が昔とまるっきり違っているし、周囲の環境が他の寺になってしまっているからなのだ。
昔の本堂の印象ははっきりとは残っていないが、古びた建物だったように思う。それが2回目に行ったときは建て替えたばかりのようにキンキラキンで、仏像との対比で淡中唸ってしまっていたから、仏像自体の印象も変わってしまったのだと思う。
京都のある国宝を持つお寺では、屋根の檜皮葺の取り換えに資金にもお困りのようなのだが、この寺はこんなにも、そう行ったときはまだ周囲の改築中だったくらいに資金が豊富におありなんでしょうねぇ・・・なんでこんなに違うの??
2016年10月12日
仏さんに惚れ込んで。。。12 興福寺国宝館 沙羯羅像
興福寺の国宝館には本当にたくさんの国宝の仏像がある。どれもこれも力作で、どれに惚れ込んでもしょうがないとも思えるのだが、その中でもいくつか私の好みの仏像がある。今回は八部衆の一つ沙羯羅像について書くことに。
興福寺国宝館でいちばんの人気は、言わずと知れた阿修羅像だが、これも八部衆の中の一つ。確かにあの三面六臂のあの凛々しい顔は、だれもが惚れるだけの要素を持っているとは思う。私の場合は、その阿修羅を差し置いて他の八部衆が好きということは、どうにも私の反体制の気持ちが出ているのかもしれない。
反体制といえば、野球で言えば巨人、ドフトバンクが嫌い、相撲では昔大鵬の時代には柏戸が好きだったし、仏さんの世界では立体曼荼羅のど真ん中に入り大日如来が嫌いで阿弥陀さん大好きなんよなぁ。。。
その流れからかもしれないが、阿修羅よりも沙羯羅(さから)の方が好きなんだよねぇ。
興福寺は結構な回数いっている。何せ大阪に住んでいる時は、近鉄電車で奈良まで行けば、ちょいと東に移動すると興福寺なんだからね。豆まきなんかも行ったことあるんだよなぁ。。
最初に訪れたのは、小学校の修学旅行。雨の中、JR(当時の国鉄)関西線で奈良駅まで行き、そこから歩いて猿沢池まで一直線。そして猿沢池から五重の塔に上がる階段のところで記念撮影をした。もう60年も前の話なのに今でもしっかりと覚えている。
しかし、奈良の記憶はそれだけ。興福寺で何見たのか、東大寺で何見たのかさっぱり覚えていない。代わりに猿沢池の階段の上の右側に女の子が埋められたところがあるけど、そこで先生がとくと話をしてくれたことは今でもあたまにのこっている。なんで????
ということで、記憶にあるのはやはり大学の木美術研究(古美研)の時。しかし、その時に印象に残ったのは、阿修羅でも沙羯羅でもなく違うものなんだよなぁ。これはいすれ書くことにします。
そのあと興福寺は何度も言っているにもかかわらず、なせか国宝館(昔は違う建物に収蔵されていたともう)には行っていない。理由は全くわからない。ひょっとしたら、写真を撮ることができないからなのかもしれない。大阪在住の時は、重いカメラと三脚持って行ってたからなぁ。
沙羯羅に惹かれることになったのは、一昨年だった北円堂だか南円堂だかの修復ご開帳の折についでに立ち寄ったのだ。昔と違って綺麗になた国宝館に足を踏み入れ昔とは仏像の配置も変わったなぁなんて思いながらメインの展示室に入った。そこには阿修羅をど真ん中にした八部衆があった。向かって右から左に見ていく。まだ阿修羅まではいかない。秘湯ひとつ見て行き、アァ結構可愛いイ顔した仏像だなぁと思ったものだ。(写真はネットのものを拝借)
そして、その中でもいちばん可愛いと思った小笠からなのだ。どうして、多くの人が阿修羅を好むのだろう?と不思議でならないのだ。
可愛い顔が好き。沙羯羅の顔は少年だよねえ。確かにこの顔好きだよ、でも現実の世界で美少年が好きなんて趣味は持ち合わせていないので、誤解しないでください。可愛い孫は大好きですが・・・・うわぁ
この沙羯羅もできればもう一度は見ておきたい像の一つですが、さて見にいくかなぁ???
興福寺国宝館でいちばんの人気は、言わずと知れた阿修羅像だが、これも八部衆の中の一つ。確かにあの三面六臂のあの凛々しい顔は、だれもが惚れるだけの要素を持っているとは思う。私の場合は、その阿修羅を差し置いて他の八部衆が好きということは、どうにも私の反体制の気持ちが出ているのかもしれない。
反体制といえば、野球で言えば巨人、ドフトバンクが嫌い、相撲では昔大鵬の時代には柏戸が好きだったし、仏さんの世界では立体曼荼羅のど真ん中に入り大日如来が嫌いで阿弥陀さん大好きなんよなぁ。。。
その流れからかもしれないが、阿修羅よりも沙羯羅(さから)の方が好きなんだよねぇ。
興福寺は結構な回数いっている。何せ大阪に住んでいる時は、近鉄電車で奈良まで行けば、ちょいと東に移動すると興福寺なんだからね。豆まきなんかも行ったことあるんだよなぁ。。
最初に訪れたのは、小学校の修学旅行。雨の中、JR(当時の国鉄)関西線で奈良駅まで行き、そこから歩いて猿沢池まで一直線。そして猿沢池から五重の塔に上がる階段のところで記念撮影をした。もう60年も前の話なのに今でもしっかりと覚えている。
しかし、奈良の記憶はそれだけ。興福寺で何見たのか、東大寺で何見たのかさっぱり覚えていない。代わりに猿沢池の階段の上の右側に女の子が埋められたところがあるけど、そこで先生がとくと話をしてくれたことは今でもあたまにのこっている。なんで????
ということで、記憶にあるのはやはり大学の木美術研究(古美研)の時。しかし、その時に印象に残ったのは、阿修羅でも沙羯羅でもなく違うものなんだよなぁ。これはいすれ書くことにします。
そのあと興福寺は何度も言っているにもかかわらず、なせか国宝館(昔は違う建物に収蔵されていたともう)には行っていない。理由は全くわからない。ひょっとしたら、写真を撮ることができないからなのかもしれない。大阪在住の時は、重いカメラと三脚持って行ってたからなぁ。
沙羯羅に惹かれることになったのは、一昨年だった北円堂だか南円堂だかの修復ご開帳の折についでに立ち寄ったのだ。昔と違って綺麗になた国宝館に足を踏み入れ昔とは仏像の配置も変わったなぁなんて思いながらメインの展示室に入った。そこには阿修羅をど真ん中にした八部衆があった。向かって右から左に見ていく。まだ阿修羅まではいかない。秘湯ひとつ見て行き、アァ結構可愛いイ顔した仏像だなぁと思ったものだ。(写真はネットのものを拝借)
そして、その中でもいちばん可愛いと思った小笠からなのだ。どうして、多くの人が阿修羅を好むのだろう?と不思議でならないのだ。
可愛い顔が好き。沙羯羅の顔は少年だよねえ。確かにこの顔好きだよ、でも現実の世界で美少年が好きなんて趣味は持ち合わせていないので、誤解しないでください。可愛い孫は大好きですが・・・・うわぁ
この沙羯羅もできればもう一度は見ておきたい像の一つですが、さて見にいくかなぁ???
2016年10月12日
仏さんに惚れ込んで。。。11 東大寺法華堂 不空羂索観音
東大寺は、何度行ったか?小学校、中学の遠足、大学の古美研、就職して大阪に住んでから2度、名古屋に戻ってから2度くらいかなぁ??この法華堂(三月堂)に足を運んだのは、大学の古美研の時と娘が奈良の大学に入学した際に送り届けたその翌日早朝に訪れている。つまり2度だけ。
3回目の時は、前述したように早朝だった。早朝の割にはもう拝観が許されていて、朝日の木漏れ日(字が違うか?)が差し込む堂の中での拝観となった。あの堂々とした不空羂索観音には圧倒されたものだ。造形的にはかなり難しいものだけど、どなたが彫られた(ではないなぁ、脱活乾漆造だから)ものか、心からその仏師に手を合わせたくなったものだ。
ただ、今思うと、不空羂索観音の脇侍が日光月光だよなぁ。。。不思議に思うんです。日光、月光という菩薩さんたちは、一般的には薬師如来の脇侍と記憶しているが、なんで同じ観音さんの脇侍をお務めなのだろうと。。。。大体は、一つ位の下の点が脇侍なるんだけどねぇ。
今気になってネットWikipediaで調べたら、この法華堂不空羂索観音の脇侍は、今は日光、月光と称されているが、本来の仏像名は不明とある。ではなぜ、いつから今のようになったのかと、さらに疑問になるのだが。。。
そんなことはさておき、とにかくこの不空羂索観音は威圧感がある。でかいからだけではないと思うのだなぁ。。やはりできがいいからだと思うんだよな。でも、京都の東寺の立体曼荼羅を最初に見たときのような威圧感ではない。東寺の威圧感はあの大日如来のふてぶてしい顔がそう思わせたのだろうと思う。
日光、月光に関しては、戒壇院の四天王と同じようになんかリアルだよなぁって。でも大きいからちょっと気持ち悪い感じがした。それと比較するから、余計に不空羂索観音が引き立っているのかもなぁ。
そうそう、不空羂索観音の漢字の読みなんだけど、どうも最近は「ふくうけんさくかんのん」というらしい。しかし、私らは「ふくうけんじゃくかんのん」と”じゃく”と濁音で教えられている。なので、講座やテレビのナレーションで「さく」と言われるとものすごく違和感を覚えるんだなぁ。
3回目の時は、前述したように早朝だった。早朝の割にはもう拝観が許されていて、朝日の木漏れ日(字が違うか?)が差し込む堂の中での拝観となった。あの堂々とした不空羂索観音には圧倒されたものだ。造形的にはかなり難しいものだけど、どなたが彫られた(ではないなぁ、脱活乾漆造だから)ものか、心からその仏師に手を合わせたくなったものだ。
ただ、今思うと、不空羂索観音の脇侍が日光月光だよなぁ。。。不思議に思うんです。日光、月光という菩薩さんたちは、一般的には薬師如来の脇侍と記憶しているが、なんで同じ観音さんの脇侍をお務めなのだろうと。。。。大体は、一つ位の下の点が脇侍なるんだけどねぇ。
今気になってネットWikipediaで調べたら、この法華堂不空羂索観音の脇侍は、今は日光、月光と称されているが、本来の仏像名は不明とある。ではなぜ、いつから今のようになったのかと、さらに疑問になるのだが。。。
そんなことはさておき、とにかくこの不空羂索観音は威圧感がある。でかいからだけではないと思うのだなぁ。。やはりできがいいからだと思うんだよな。でも、京都の東寺の立体曼荼羅を最初に見たときのような威圧感ではない。東寺の威圧感はあの大日如来のふてぶてしい顔がそう思わせたのだろうと思う。
日光、月光に関しては、戒壇院の四天王と同じようになんかリアルだよなぁって。でも大きいからちょっと気持ち悪い感じがした。それと比較するから、余計に不空羂索観音が引き立っているのかもなぁ。
そうそう、不空羂索観音の漢字の読みなんだけど、どうも最近は「ふくうけんさくかんのん」というらしい。しかし、私らは「ふくうけんじゃくかんのん」と”じゃく”と濁音で教えられている。なので、講座やテレビのナレーションで「さく」と言われるとものすごく違和感を覚えるんだなぁ。
ちなみに、京都の「修学院」も今は京都の市バスすら「しゅうがくいん」と発するが、私らは「しゅがくいん」と教えられているんで、これも違和感がある。
そういえば、名古屋の「鶴舞」も「つるまい」ではなく「つるま」なんだよなぁ。読めない人が多くなると言葉、漢字の読みもかなり変わるものですね。。
2016年10月11日
仏さんに惚れ込んで。。。10 羽島市中観音堂 鬼子母神
仏さん、ここでは仏像のことだけど、に惚れたと言ってもとにかく心底本当に惚れ込んだのは3躰(中宮寺の半跏思惟像、法界寺の阿弥陀如来、室生寺の十一面観音)で、そのほかとなるとかの3躰に比べると仏像には申し訳ないけど、そこまでの思い込みではない。でも、好きなものは好きで、多くが出会った時にショックを受けている。
今回の岐阜県関市にある中観音堂の鬼子母神は、その好きな部類の仏像である。中観音堂を訪れようと思ったのは、円空仏のたくさんある寺として一度は見ておくべきところということが一番で、そこにどんなものがあるかという知識はある程度はあっても模刻まで考えているもはその時はなかった。ただ、いって本物に接した時に、模刻しようと思うものがあるかもしれないという気持ちはある。
中観音堂の中に入って、一通り見た時に、「ん??円空さんらしからぬ仏像がある」と思ったものだ。それが”鬼子母神”だったのだ。
鬼子母神は、東京ならそんな地名があるからある程度の知識はあるかもしれないが、この名古屋の近くでは「鬼子母神ねぇ・・・」と言った印象になるかもしれない。それは私だけのことなのだろうか?
鬼子母神のいわれとかなんとかは一切関係なく、その像に出会った時は、とにかく円空さんのいわゆる荒々しいのみの作風がないのだ。ということがいちばんの印象だったのだが、ただ、あのふくよかで、心から安心して接することができるという印象が、私を虜にした。と言ってもなんども書くがあの3躰には・・・・
とにかく惚れたのは確か。模刻する対象にその時即決めたのだ。
そして最初は小さいものを、そして次にちょっと大きいものを、そして最後に像高40センチくらいのものを彫り上げた。それが上の写真だ。どう見ても円空仏ではないなぁ。。。。まぁ、衣にそれらしきものはあるかな?でもなぁ。。。。。
円空さんは、全部で12万躰の仏像を彫ったと言われているが、この鬼子母神は関市中観音堂の1躰だけなんだよなぁ。なぜこのように作風の違う仏像を、それもただ1躰だけ彫ったのだろうか?聞いて見たいものだなぁ。。。
本物は、ほぼ等身大でロウソクのすすなんかで黒く、日焼けして茶色くなんているが、私の彫ったものはいるそんな色になるのやら。。。。
今回の岐阜県関市にある中観音堂の鬼子母神は、その好きな部類の仏像である。中観音堂を訪れようと思ったのは、円空仏のたくさんある寺として一度は見ておくべきところということが一番で、そこにどんなものがあるかという知識はある程度はあっても模刻まで考えているもはその時はなかった。ただ、いって本物に接した時に、模刻しようと思うものがあるかもしれないという気持ちはある。
中観音堂の中に入って、一通り見た時に、「ん??円空さんらしからぬ仏像がある」と思ったものだ。それが”鬼子母神”だったのだ。
鬼子母神は、東京ならそんな地名があるからある程度の知識はあるかもしれないが、この名古屋の近くでは「鬼子母神ねぇ・・・」と言った印象になるかもしれない。それは私だけのことなのだろうか?
鬼子母神のいわれとかなんとかは一切関係なく、その像に出会った時は、とにかく円空さんのいわゆる荒々しいのみの作風がないのだ。ということがいちばんの印象だったのだが、ただ、あのふくよかで、心から安心して接することができるという印象が、私を虜にした。と言ってもなんども書くがあの3躰には・・・・
とにかく惚れたのは確か。模刻する対象にその時即決めたのだ。
そして最初は小さいものを、そして次にちょっと大きいものを、そして最後に像高40センチくらいのものを彫り上げた。それが上の写真だ。どう見ても円空仏ではないなぁ。。。。まぁ、衣にそれらしきものはあるかな?でもなぁ。。。。。
円空さんは、全部で12万躰の仏像を彫ったと言われているが、この鬼子母神は関市中観音堂の1躰だけなんだよなぁ。なぜこのように作風の違う仏像を、それもただ1躰だけ彫ったのだろうか?聞いて見たいものだなぁ。。。
本物は、ほぼ等身大でロウソクのすすなんかで黒く、日焼けして茶色くなんているが、私の彫ったものはいるそんな色になるのやら。。。。