2021年04月08日

末期前立腺癌・宣告から10年 その10年前の様子 その3

末期の前立腺癌宣告の日から10周年の日です
 もう10年も経つと・・・
旋回は、宣告に至る前の生態検査の様子を書いていました。今回は選考当日の私の様子を書いています。
 以下の引用分は、この記事を書いているときに記入したコメントです

前立腺癌検査の結果 (4月26日)


 先週2日に分けてのCTとRIの検査結果を聞きに行ってきた。予約j間を大幅に遅れて2時間以上待ちでの結果宣告。こういう検査結果を聞くのにこれだけ待たされるといい加減精神的に疲れるねぇ。。。

 検査結果は、『癌は大きいものの他への転移は現状ないと思われる』という診断。CTや骨ンシンチの画像を見ながら説明を受けたが、骨シンチでは一か所疑問点があったけど、これは前月地下鉄でひっくり返った時に打ったものかもしれないということで結果保留、そしてCTスキャンの方は、癌の問題以上に私の母羽が患った難病の可能性があるという話が出てきた。
 癌の本体のもう一段詳しい検査と前の骨の影の詳細検査のために今週と連休明けにMRIでの検査を行い結果を出す。

 セカンドオピニオンを受けたいという申し出でもし、快く受け入れてもらったけど、まだどこで受けるかを決めていないので、これからさがします。

 まずは、一安心という結果でした。


 癌の治療については、セカンドオピニオンの結果を踏まえて、来月から始める予定です。


 随分淡々と書いてますね。丸で人ごとのような気がします。
この件の結果を聞いた後、帰り道で買物のしている最中に友人から電話があって、「どうだった?」と聞かれて「大したことない」というようなことを言ったのだろう、于友人kら「本当にがん患者かあ?」と言われてしまった。人ごと見たいですねぇ、私。

 ここで、別の病気の可能性が言われているが、それは「サルコイドージス」という難病。母親がこの病で命を落としている。心臓がやられてペースペーカーを入れて半年て逝ってしまった。




 

前立腺癌・セカンドオピニオン(4月27日)



 前立腺がんの宣告を受けて1月。この間に検査がいくつかあって、転移していないことはわかったものの、この先の治療方針に対してセカンドオピニオンをもらうと担当医師に申し出でした。どこにするか決まったら紹介状を書くという返事をもらった。
 それで、今日は、私の友人である外科・胃腸科の医師に相談に行ってきた。久々に会う友人は、快く相談に乗ってくれ(実は、診察で申し込みをしてある)、これまでの経過を詳しく話し、現在検査を受けている病院の名前と病状から、現在の病院でいいだろう、セカンドオピニオンの必要はないとのアドバイスをくれた。
 ということで、セカンドオピニオンは撤回することになった。他にもいろいろとアドバイスをしてもらい、たまたま精密検査で見つかった他の病気の可能性についてもたまたまその病院に専門医がいたので、友人の診察の後に心電図を取った上で、その病気についての専門医にいろいろとアドバイスをもらった。

 持つべきはやっぱり信頼のおける友人としての医師だということを再認識した。
 本来なら、癌の疑いを宣告されたときに相談すべきだったのだが、疑いの宣告を受けたときには頭の中には友人の医師のことは全く出てこないというパニック状態だった。昨日の転移していないという宣告で、多少の落ち着きをもったことで友人に相談しようということになったのだ。
 今思えば、最初から相談できていれば、もっともっと安心して検査を受けることができたのではないかと反省をしている。

 しかし、今日のアドバイス自体が、私にとってのセカンドオピニオンだったと言えるのではないかと思っている。




 このセカンドオピニオンをもらったとき、友人の意思は検査データを見て「他に洗濯の余地はない」とはっきりと断言している
 つまりは、放射線は照射できない状態、手術も新順シテ分離できる状態でない。残された治療法は”ホルモン療法”ということになったのだ。

 ホルモン療法脳有効性は一般に5年と言われている。その5年の間に新しい治療法も出てきているだろうから、それらない期待して生活するようにと言われている。
 それが、もう10年も治療法を変えることなく、しかもがん病巣が消滅していくという、奇跡的な患者らしいのだ。

 何とも恵まれた人間なのかもしれない私だ。







 がん宣告された翌週に、京都旅行を計画していた、計画したときはがんのことなんて知らず似たのだが、癌とわかって子供たちが一緒に行くと言い出して、図らずも私がガンで式が近く、最期の旅行になるかもなんて思ったのかもしれない。
 図らずも、原家族(嫁さんと孫除いた) 五人の、私の激励旅行とあいなった。

 まぁ そのご10年も元気で生活しているので、ガン患者の扱いはされなくなってしまっテイル。




*****

 これで、ガン宣告10周年の記念投稿は終わりです。
 この後の経過については、
  「末期・前立腺がん 奇跡の軌跡」と題して18年9月2日から60回に渡って連載しています。私のブログで「奇跡の軌跡」をキーワードに検索すると一蘭をご覧いただけます。  

Posted by 生田 at 13:36Comments(0)TrackBack(0)自分の健康

2021年04月08日

末期前立腺癌・宣告から10年 その10年前の様子 その2 

末期の前立腺癌宣告の日から10周年の日です
 もう10年も経つと・・・
旋回は、宣告に至る前の生態検査の様子を書いていました。今回は選考当日の私の様子を書いています。
 以下の引用分は、この記事を書いているときに記入したコメントです


2011年4月8日

実はその10年ま絵の4月8日は雨だったらしい
 病院に出かける前に書いたのだろう
 そのブログには


非情の雨になるのか

午前11時半ころ
雨が降り出した
そんなに強くはないけれど
昨日までに開ききった桜は
その花びらをたたかれそう
風がないのがまだ救い
あす、あさっては
お花見で混むだろうに
このまま
弱い雨で過ぎてあげてください



どうも診察前に書いたのではないかと思う
当時の大病院は予約していっても2時間愛情待ちなんてザラだった。へたすれば半日待ちなんてことも。
なので待ち時間の間に書いたのかもあしれない・・

ガンのことを書いたのではない
 あの年はまだ桜の時期だった
 その桜が雨で散らないことを思って硬のだろうが
 なんと 私にとって”非常の雨”となるとは



 そして診察後に書いたブログ記事


ガン宣告

 先週の金曜日に前立腺がんの検査をした。その結果を今日聞きに行った。
 がんの宣告を受けた。
 それもなかなりきついガンとのことで、後は転移の有無の検査をしたうえでの対処法を考えるとのこと。ということで、この先2回検査をする。一つはアイソトープでも飲むのかな?その後放射線が体から出るといってたから。
 今のところその辺までで、食事の制限もなく… ただ、当面激しい運動がご法度となった。
 さて、来週は1泊2日で京都に行く予定なんだけど、これまでのように頑張って歩くことができないよなぁ。どうしよう…・・ しばし思案。

 宣告されての気持ち。
 宣告されたその時は『へぇ?』という感じ。念を押されてはじめて認識。が~~んというショックはなくて。まぁ、予想されていたことではあるからかもしれない。でもね、一縷の望みをもっていたからねぇ。
 何か不思議な気分です。自覚症状がなかっただけに。担当医いわく『前立腺がんは自覚症状をおもちの方はほとんどいません』とのこと。

 さてこれから、死ぬまでの間、どのくらいの期間あるか知らないけど、まずは、このがんとうまく付き合っていかねばならないことだけは認識と覚悟をもった。


 うたって淡々と書いているけど、ひょっとしたらスェン刻された時は”放心状態”だったのかもしれない。後日友人の医師に相談に居合った際には顔面蒼白だったぞと言われた。
 とにかく、ガン=死というイメおじがあったはずなのだが、宣告されて速死ぬということは全き思わなかったのは事実、それに「なんで俺ががんにならあん?」と思ったのも事実。
 まぁとにかく、このがん宣告が周りに広がって、みんな私が死ぬのが近いと思ったらしい。しかし、そんなことを思ってくれた人たちを何人、私より先に送り出したのだろう?




前立腺癌 CTスキャン検査終了



 20110年4が18日 
 あっけなく終了。



 名前を呼ばれて部屋に入った。大きな輪っぱの中を通るのはわかっていたけど。説明してくれるけど、どうでもいいやぁ。上着を抜いて、金属製のものがなければそのままでベッドに寝っ転がる。ズボンだけはバックルなんかついているから図利下ろされて。。。。

 寝っ転がってバンザイをしろと言われて、その姿勢でわっぱの中を一度通った。途中で息を止めろと言われて、楽にといわれるまでの10数秒が長く感じられる。
 一度通ったところで、造影剤を注射。でっかい注射器でやってくれるんdなけど、ようりょうきいたら100CCもあるんだって。体重増えるやんと言ったら看護師さん笑ってたよ。
 造影剤を打つと回音が急激に上がる。そして口の中にもにおいが、、ようは血液中に造影剤が回っていることが分かる
 打ってからもう一度わっぱの中を通ったら、「もう終わりです』って。10分かかったのかなぁ?

 トイレを我慢させられていたので、部屋から出て即トイレに駆け込む。


 今現在のCT撮影はもっと簡単な感じがするね。
 箇のとき造影剤を打っているが、その造影剤の注射でトラブル起こして、1ヶ月右手に力が入らなかったという逃げにことがあった。その後にも点滴でトラブルがあって、それ以来私は、この大病院では造影剤による検査はしないことになったらしい。 


この検査の後 4月21日に 骨シンチの撮影を行っている


明日から私の体から放射能が・・


 前立腺がん宣告を受けての転移の有無の検査の第2弾、RI(ラジオアイソトープ)を使った骨の検査。明日の朝10時にRIを注射されるのだけど、それからしばらく(数日らしい)の間私の体から放射能が放出される。行く場所によっては警報が鳴るらしい。



 午前中に注射されて、体中にまわるのに3~4時間かかるらしいから、その間は好きに遊んでおいでだって。一旦病院に入って、また出て、そして戻ってくるなんて面倒だよなぁ。。どうやって時間つぶそうか思案中。


 それにしても、この体から出る放射能はどのくらいなのだろう?今問題になっている原発の事故での放射能よりもうんと少ないのだろうと思うけど、どっかで引っかかって警報でもなったら、周りからいろんな目で見られそうだよな。
 名古屋市内には、そんな警報が鳴るところはないと思うけど。。。
 月曜日にやった第1弾とこの第2弾の結果で転移の有無が分かって、この先の処方が決まるわけだ。


骨シンチの検査は、10年前も現在も変わっていないと思う。ここでは造影剤を今でも打っていると思うえけど。.


前立腺癌検査 第2段 終了



 月曜日に前立腺がんの転移の有無を検査するための第一弾としてCTスキャンをしたが、今日はRI骨シンチを第二弾としてした。
 骨シンチは、癌が転移した骨の部位を注射したRI(ラジオアイソトープ)が集まってくることを利用して、癌転移をしるもののひとつのようです。
 
 今日は、午前中にRIの注射をして、それからRIが体全部に行きわたるまでのタイムラグ(3時間半)立ってからRI検査のわっぱの中を20分かけと通って全身の骨の造影写真を撮った。

 注射はカンタンに終わるのでいいけれど、撮影の20分の間はじっと動かないようにとベルトで固定されるので、ちょいときついなぁ。撮影が始まって少ししてから鼻がかゆくなったけど、終わるまでじっと我慢の子。何とか終了。終了したら、もう用はないからさっさと帰れって雰囲気ね。
 (この後、病院の不手際が書かれている)


とにかくこれで、精密検査と言われているものが終了した、画像検査を元に、知了方針が決まります。
次回は
 検査結果を聞きます。

  

Posted by 生田 at 13:30Comments(0)TrackBack(0)自分の健康

2021年04月08日

末期前立腺癌・宣告から10年 その10年前の様子 その1

末期前立腺癌の千石を植えてから
 今日でまる10年を経過した
 その10年前のブログ記事
 それを読むと
  生体検査から宣告、精密検査などの経過書かれている
 10年のいう時間は癌治療法には長い時間で
  相当の治療法の変化があるとは思うが
  まぁ検査kら治療方針決定までを知っておけれると
   なにかの参考になるかもと思います

経過・その1 (引用部分は、今日書き込んだコメントです)

この4月8日にガン宣告を受けたが
 その宣告となる検査を4月1日に入院で行っている
 それを耐震した3日に掻いたブログを処す介しておこう
 これが 前立腺がんの整体検査だということ
 もう10年も立つので変わっているかも知れないが

 ・前立腺癌検査

 金曜日(2011年4月1日)に前立腺がんの疑いで検査を受けた。
 検査といっても手術まがいなことが必要で、入院病室から看護師さんに連れられて手術室に向かった。この手術室の入口があまり気持ちのいいものではない。ステンレスのドアが待っている、まるで葬儀場の感じがしないでもない。『雰囲気を暖かくしてよ』って一言言ってみたけど、担当の看護師さんたちはどこ吹く風ですよぉ。

 ブログには書いていなかったが、記憶では樹種津室には女性がたくさん並んでいた。ここで下半身を晒すというのは、木は透かし鋳物があったと記憶している


 手術台に上がった。この台がこれまたあんまり感じのいいものではなくって・・・{書かないでおきましょう}
 手術が始まった。最初は麻酔を打たれたようだが、せいぜいちくちくするくらいだったが、それが終わったら麻酔が効いているからとばかりに、お尻からピストルを打ち込むかのような衝撃。途中から打ち込まれる直前のことが分かるようになったけど、それが何かの意味があるかと言われれば、自分の力で制御できないから全く意味はない。
 全部で10発(*実際は12本だったらしい)撃ち込まれた。打ち込まれてこれで開放。途中、かなり体に力が入っていたのだろう(当然だよな痛いもの)「力を抜いて」と数回言われた。終わって、帰りは安静ということで車いすに乗せられた。担当の看護師さんが来るまでしばらく検査担当の看護師さんが付き添っていた。多分、私が青い顔をしていたからではないかと思う。多分に痛さからの緊張と、多分出血でもしたのか貧血を起こしていたのではないかと思う。
 ピストルを打ちこまれているような感じの間、後ろに心電図やら何やらの装置が見える。そこに表示されていた脈拍はなんと最低52まで下がったのだ。血圧は133/72位でまずは正常だったが。脈拍は平常時でも遅い方なので心配はないけど、それでもなぁ50近くまでの遅さは自覚としては初めてだな。

 車いすで病室に戻った。これから止血剤を2時間かけて点滴する。担当した看護師さんは針のさし方も点滴のスピードもかなり慣れているのだろう。針はいたくなかったし、スピードは予定時間ぴったりだった。(翌日の点滴はそうはいかなかった)

 この後、我慢していた排尿。安静ということで尿瓶でしたのだが、かなり血が出てシーツを汚さないようにと敷いたバスタオルが血で汚れたくらいだ。それに、最初の排尿は痛かったなぁ。。
 この点滴の間に、体温がものすごく下がってきた。検温では35度2分と男では珍しいとまで言われてしまったくらいに。後から思ったことは、どうも前夜の食事が6時で、それから15時間の絶食で血糖値がかなり落ちていたのではないか。私血糖値が落ちるとものすごく体温下がるんです。

 なんとか2時間、じっと我慢の寝たきり。小便もしたくなるけど、これまた尿瓶で、少し血は減っていた。2時間たってやっと終了。これでなんとか自由に動けるようにはなったものの、何か気分がよくない。トイレにいって初めての排尿。真っ赤である。しょうがないよねぇ。担当医も看護師も水をがぶがぶ飲めという。言われたとおりにがぶがぶ飲むからトイレに行くのが1時間おきくらいになっている。3回目くらいで何とか血の量が減ってきて、色が点滴と同じくらいになってきた。
 とはいえ、体温上がらず。足の先がものすごく冷たい。といってなんともならないのだが。点滴が終わる少し前に息子が到着。腹がへって我慢できないからとパンを買いに行ってもらった。そのパンを点滴終了後にすぐにぱくついた。まるで子供だ。
 それから先は、もう寝ているだけ。昼飯、晩飯と後はトイレに行くときだけおきだして。。。。

 時間がたつにつれて血尿は減るものの、それでも血が混じらない時はほとんどない。人によっては出血しないこともあるのだとか。そんなこと言われるとただでさえ貧血気味の私にはあまり精神的にもよくないよなぁ。

 夜は、9時消灯。そのまま素直に消すほどガキでもないのだけど、周りが暗くなって静かになると、なんだか眠くなってそのまま気を失ったように。とはいえ水をがぶ飲みしているのでトイレに行く回数が多いこと。周りには迷惑だったかもしれない。

 翌朝(3日目)夜中の4時ころに目が覚めてから寝付けなくて、そのまま6時になって。。。だんだん周囲が動き始めたけど、寝不足気味でなかなか動く気にもなれずにいた。朝食は8時。しかしお腹が空きすぎているので、前日買ってもらったパンを1個食事の前に食べる。

 8時になって朝食が来た。美味しかった。この2泊3日の間の食事で初めて汁ものが出た。この朝の検温は36度2分。平熱より少し高い。脈拍は56だったか、血圧は132だったと思う。まぁ正常に近いですが、まだ血尿です。夜中より少し増えたかも。
 9時になってまた点滴。最初スピードが遅すぎて。。。。トイレに行って戻ったら点滴が止まった。と、そのときは。座ったら少し戻ったが、あまり遅いのでナースコールで看護師さんに来てもらって調節してもらう。早くなったおかげで血管が少々痛い。

 この2時間の間、トイレに行く以外は寝ていたのだが、(寝てる方が点滴にはいいといわれたので)だんだん腰が痛くなり、最後はちょっと我慢の限界を超え始めた。寝返りを打つだけ。それでもなんとか我慢して、終了。

 息子に荷物を片づけてもらって、帰り支度。忘れ物ないように注意して、病室を出る。廊下で看護師さんに出会い、リストバンド(名前やバーコードの印刷されたもの)を切ってもらって放免された。

 今日(記述した日)は、それから丸1日と半分過ぎようとしているけど、血尿はあったりなかったり。水は相変わらずがぶ飲み。おかげで自宅でも夜中1時間ごとにトイレに。昼寝しても途中で夢破れてトイレに。

 これがいつまで続くのか・・・・・ 多分、次の外来までかもなぁ。。

*****

 異常が、生体検査(お尻から針を打ち込んで細胞摂取いて顕微鏡検査する)の手術の前後の様子です。
 この入院の日木曜日で、検査が金曜日で息子は仕事を休んで広島から来てくれた。なんだか心強かった記憶がある。
 現在はどんな検査をしているのかわからないが、政権で細胞接すの補法は変わらないかもしれない。


この次の記事は
 癌宣告される当日の私のブログ記事です

  

Posted by 生田 at 11:05Comments(0)TrackBack(0)自分の健康

2021年04月08日

4月8日 木曜日 晴 冷たい乾いた風少し 10周年記念日

今日は書きたいことがいっぱい

 最初にやはりこれは書かにといけないこと
 末期前立腺癌宣告から 10年を経過した



毎年書いていることだけど
1年1年が私にとっての節目

最初はどれだけ生きられるか思ったことなかった
周りがみんな
いのち短いと思ったようで
いろいろ気を使ってくれた


10年も経つと
癌で死期が近いなんて
全く思ってもいない
逆に思っている可能性すらある

何にしても
が1お年生きながらえたとはいえ
癌病巣は消えたと言われてるとはいえ
癌から解放されたわけではない

宣告されたときに
主治医に言った言葉
「死ぬまで仲良くお付き合いします」
これが
今でも私の思っていること

癌と闘うのではなく
悪さしないように頼んで
共存すること

余命宣告はそのときなかった
しかし後日担当医に聞いた
「余命どのくらいでした?」
担当は
「知らずにいたら半年くらいだったか」
知ったとはいえ
ここまで癌病巣が消えてくるとは
担当医も思っていなかったようだ

数年して
秒安定ということで病院が変わった
その今の病院の担当医は
「これだけ長く同じ治療法で」
「10年というのは奇跡的だ」


現在は
骨シンチ、C画像などの検査結果では
転移もなく順調に経過しているとのこと



他の前立腺癌患者さんの
一つのいい事例となってもらえれば幸いです


****

この後いくつかの過去のブログを
再掲載します

・生体検査の様子
・骨シンチによる転移確認検査
などなど
  

Posted by 生田 at 09:42Comments(0)TrackBack(0)自分の健康
  
2015大津・京都の旅
1泊2日のドライブ旅行
2015北海道・道東の旅
1週間870kmのドライブ旅行
大学OB会と
50年ぶりの鎌倉
OB会の後に鎌倉と横浜に行ってきました
15年年頭 広島宿泊の旅
鞆の浦、竹原、宮島に行きました
14年秋 京都宿泊の旅
久しぶりに新幹線に乗りましたが・・・
13年秋 京都ドライブ旅
京都の紅葉の名所・毘沙門堂に行きました
12年秋 室生寺ドライブ旅
すてきな観音様と再会です
室生寺五重塔
12年秋 京都ドライブ旅
1年ぶりの京都です
三千院
10年秋 平泉ドライブ旅
4泊5日 2000キロの一人旅です
平泉・わんこそば
   
10年夏 室生寺 日帰り旅
素晴らしい観音さんに出会いました
室生寺・五重塔
10年初夏 宇治・長岡 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに黄檗山満福寺・六地蔵・法界寺谷寺・長岡天神
布袋さん
09年秋京都 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに 紅葉がきれいな京都
南禅寺の紅葉
08年秋京都 日帰り旅
08年11月25日貧乏・一人・日帰り旅の記録です。
鳳凰堂を望む
観光シーズン 京都の歩き方
京都市・地下鉄 東西線沿線
09年浅草と川越
浅草観音
07年信州の旅
上田城内
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プロフィール
生田
生田
 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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