2017年03月26日

岡崎・滝山寺 瀧山東照宮

 滝山寺の隣に、隣といってもすぐ横で同じ敷地内といってもいいと思うけど、管理団体が違うということで同じではないという「瀧山東照宮」がある。ということは、愛知県に2つの東照宮があるのだなぁ。もう一つは豊田市の東の方の松平にある「松平東照宮」がそれだ。
 松平東照宮は、桜や紅葉の時期に行くとそれなりの景色を楽しむことができるが、最初に行った時は東照宮に行く目的ではんかったけど、偶然に東照宮の前に来たのだった。東照宮というからには、其れなりにケバケバしいものかと思いきや、松平東照宮は、ごく普通の神社という趣だ。(工事中だったこともあってしっかりみなかったな)



 それに引き換え、この「瀧山東照宮」は、「日光東照宮」に比べれば規模もものすごく小さいし、装飾もかなり控えめなのだが、まぁある程度の派手さは持っている。写真は拝殿の奥の階段のところから撮ったもので、ちょいと奥行きが足りなくて全体が撮れなかった。コンパアクトデジカメの方が良かったかもなぁ。
 最初は、拝殿に上がりラジカセの説明を聞いたりしたんですが、私はどうにも興味が惹かれず、拝殿内の写真を撮ったりしてました。(もちろん撮影禁止でないことは確かめて)

 写真のように、内部には百人一首ではないと思うわかの額があったりしてましたが、これはどの時代のものだろうなどと疑問に思ったりして。。。。

 外に出て勝手に写真を撮っていた。左が拝殿の全体ですが、梁などには結構派手な彩りがなされてます(日光には遠く及びません)。まぁ、隣の滝山寺が煤けていることに比べればとにかく派手でしょう。

その彩は裏手で、破風に施された装飾は流石東照宮と思う感じですね。少年側よりも裏手の方が派手だったという、奥ゆかしいオシャレ感覚なんてこと言うと皮肉に聞こえるかも。何れにしても、それなりに金をかけたんでしょうが、何せ将軍家の管理ではない岡崎(徳川重鎮の本田山の領地)なので、それにいくら家康の生地とはいえ徳川家を差し置いて派手にはできないだろうなぁ。

 拝殿の左右には、たくさんの灯篭が並んでいるが、これは4月17日が家康の命日なので、それに合わせて色々かところから奉納されているということです。みんな4月17日が彫り込まれていた。

 それにしても、愛知県に2つの東照宮があるとはねぇ。。。。
  

Posted by 生田 at 13:06Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年03月25日

岡崎・滝山寺 薬師如来の脇侍と十二神将

 本当は昨日書こうと思っていたのだけど、メールのトラブルと外出で書くことできなかった。記憶がどんどん遠くなるので、早く書かねば。。。。。

 先回は、本堂の薬師如来のことを書いた。薬師如来には大体が脇侍として日光菩薩と月光菩薩、そして周りには十二神将が付いている。この滝山寺の薬師さんもそのルールは守っておいでになる。まぁご本尊が御隠れになっているので、ちょいと興味も薄れるが、脇侍の日光・月光菩薩は寺伝では運慶作ということらしい。

 どちらも護摩木の煤で煤けてしまっているが、金箔が残っているよなぁ。本当に鎌倉時代か?運慶作ならそういうことになるのだが。
 ただ、見た目、運慶ほどの高尚な物資の作ではないようにお見受けするのだが、目が狂っているか?どちらにしても、この2体は岡崎市の文化財に指定されている。運慶作とわかれば、国の十分やら国宝も夢ではないか?さてさて・・・・・

 この日光菩薩の後ろに6体の十二神将が、月光菩薩の後ろにこちらも6体の十二神将がある。

 左は”子年”の大将だけど何大将かはわかってないようだ。右はイノシシみたいな顔が付いているけど”丑年”の大将だそうです。と、まぁこういう風に十二神将には干支がつきものだけど、その干支がかけてしまているのが多くて残念ね。
 また、左のような顔をしたのが多い、というよりもほとんどこういうユーモラスな顔をしている。円空さんよりもユーモラスだ。一つ一つ、見ていると面白いけど、まぁくらいからわからないよ。懐中電灯持って行ってください。(ただし、見るときは使用許可もらってくださいね)
 十二神将も岡崎市の文化財で鎌倉時代の作といわれているけど、あんまりこういう作りは鎌倉時代にはないように思うけどねぇ。ほんとかなぁ?

 他にもありますが、興味を引かなかったので、これで終わり。

 もう一つ、宝物殿におもそろいものがあった。逗子に入っている毘沙門天で、手が何本あったかなぁ。。。ガイドさんの話では、いくさに出かける武士が背中に背負って行ったものだとか。戦いの神様と言われる毘沙門天だからだけど、絶対に毘沙門天には見えないから。写真があるといいけど、誰も興味示してないなぁ。。。。。公式HPにも上がってないわ。
 行ったら、見てきてください。  

Posted by 生田 at 20:05Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年03月23日

岡崎・滝山寺 薬師如来 お前だち

 岡崎市の滝山寺の参拝。宝物殿の運慶などの宝物を見た後で、えんやこらもすごく急な坂を登って本堂に赴いた。本堂前の広場に着くとそこはキラキラ砂が輝いている。後ガイドさんに質問して聞いたところ、岡崎市(滝山寺は合併する前は幸田町)は花崗岩の上にある年だそうで、この花崗岩が砂になったものが敷地内に多くある。花コウ岩位は雲母がたくさん含まれているので、きらきたしているのだ。吉良上野介の「きら」の由来は、この砂のきら嫌いしているとこからだとも教えてもらった。「へぇ」であった。

 本堂に上がると、格子の奥に日光・月光があって、その真ん中に薬師如来が鎮座している。しかし、この如来さんは”御前立ち”(座っているのに”御前立ち”なんです)で本物ではない。本物は50年に一度ご開帳になる秘仏で、次回は22年先だって記憶です。みんなが「見られるかなぁ?」「あんたは大丈夫さ」なんて話を買わされてましたね。 
 この御前立ちなんですが、結構いい表情されていたんですが、それよりも目を引いたものがあるんです。台座に施された彫刻です。
 この台座には像やらなんやら動物と四天王みたいな鎧?を着た武将みたいなものが、如来さんの座を支えているんですねぇ。ふと、名古屋の桃源寺の大仏を思い起こした。
 インドの、ヒーンズーの神様の周りにいる感じね。でも武将は中国風だよなぁ。それにしても結構なあ色使いで、如来さんの真っ黒が余計に黒く見える。台座はそうして、如来さんは掃除してないんだろうか?

 それにしても、本物の如来さんが見えないのは残念。日光・月光が自伝では”運慶”作といわれているらしいが、ひょっとしたら、その流れの作だったりすれば、いいものが見られたと思うんだけどねぇ。。  

Posted by 生田 at 14:39Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年03月20日

岡崎・滝山寺 十一面観音 3体

 「仏さんに惚れて・・・」シリーズを離れて書くことにします。

 瀧山寺の宝物殿には、運慶作の仏像以外にも沢山の仏像がある。どういった理由からないのか”十一面観音”が数体合った。時代がそれぞれ違うので、その時代に時代に誰かの発願で造物されたと思うのだが、一体誰の発願だろうと想像したくもなるが、そんな資料があればいいのだが、今回のように団体で行った時に質問して回答をもらうなんて消えsめて難しいことだろう。
 ということで、あいも変わらず私はかってに頭の中で想像するだけのこと。

 まずは、宝物殿に入って最初に私の目に入った十一面観音。2体並んでいたけど、大きい方(右側)のものがそれ。
 造像の時代は、藤原時代と書いて合った。確かに時代を感じる煤けて黒くて、何度も修復したのか?修復しきれずに足の裏には何かを差し込んで倒れないようにしたりと・・・おから向かった左に少し傾いてます。
 そう言えば、この観音さんの足ね。ものすごく長くて、気持ち悪いくらい長くて・・・

 でもね、この十一面観音さんはじっくり見見るとモノズごく綺麗なお顔なんですよ。ちょっとお澄ましされてますが、まぁ、時代かなぁ。ただ、時代が藤原ということだけど、逗子の作りやキンキラの飾りは時代が違うんではないなかぁ?私には違和感があったんで。専門家はなんとおっしゃるか?

 その隣の小さいこれも逗子に入っている十一面観音さん、こちらは鎌倉時代作と書いて合った。確かに目は玉があ入っているし、後背の作りもキンキラキンもそうだし、やっぱり鎌倉以降だろうなぁと思わせるし。
 こちらの観音さんは、イマイチ私の好みではなくて、顔は玉を入れているからかぱっちり開いてすから、見た目ちょっとびっくり顔ってか何時がしわいわけでもなくて。それに、いちばんの問題は胴長短足で、動きがあるけど、なんだか半端だなぁ。でも、綺麗ですよ。ガイドさんはこっちの方に力入れて話されていたような気がする。

 これは、宝物殿に入ったところ保広い部屋の中にあった2体ですが、実はもう1体あるんですが、残念ながら写真がない。それに写真撮れないから、私にもない。ネットにもない。有名じゃぁないからから?でもねぇ、結構綺麗だったけどなぁ。聖観音の後ろの左に行った突き当たり。記憶では十一面観音だったけど。聞く違いかな?

 さて、宝物殿の外にもう一体。外といっても雨ざらしではなくって、宝物殿からえんやこら行きをはぁはぁあえぎながら登った先にある本堂の中にもう1体あるんです。



 この十一面観音は、本堂での護摩業のせいなんだろうと思うけど、もう煤でススがひどくて、せっかくのキンキラキンの体が汚いよなぁ。ん?ということは金箔がまだ感z年憩っている、とすると新しい?でも表情や作りはそれなりの時代かもなぁ。でもね。私がこの十一面観音に思ったことは、本体は綺麗なんです、それなりの作りなんです。でもねぇ。なんだか後輩がね、手抜きって感じの作りなんです。手が込んでいる割には、なんだかなぁという作りなんですよ。

 それにしても、なんでこれだけの十一面観音がある?
 ひょっとしたら、火災かなんかで焼けて、修復のたびに新しく作ったのかもな?  

Posted by 生田 at 15:46Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年03月17日

仏さんに惚れ込んで。。。59-4 岡崎・滝山寺 帝釈天

 滝山寺の宝物殿の続きです。これまでは運営造像の3体のうち中央の聖観音と右の梵天を書きました。今回は向かって左の帝釈天です。

 帝釈天といえば、映画”寅さん”で有名な、東京・葛飾・柴又の帝釈天が思い起こされます。昔、浪人中に予備校に通ってましたが、そこは帝釈天からそんなに遠いところではなかったし、同じクラスに帝釈天から通っているのもいたのに、それから大学に入ってから4年の間にも、一度も帝釈天に行っていないのです。一度松戸に行く時に京成電車で帝釈天の駅を通り過ぎたくらいかなぁ。そんな帝釈天の思い出です。

 帝釈天て一体どんな仏さんなのか。ネットで調べて見た。これもインドの神様。まぁインド生まれのお釈迦様のことなので、取り巻きにインドの神様がいっぱいいるのは理解できるんだけど、この滝山寺の帝釈天の衣服というと、どう見ても古代中国の武士の甲冑姿なんだよねぇ。まぁ、多くの寺の四天王やら十二神将やら、なんたらかんたら武士の格好しているのはかっちゅを見にまとっている。多分に唐の時代の流れ、つまりは平安の頃は中国は唐だったから、その時代の影響を受けているのは理解はできるのだが、私の感覚から行けば、インドと中国を一緒くたにして、それを日本人向けにしたごった煮の仏さんということになる。
 なぜ、唐の時代の甲冑?なんておことを思ったか?最近、テレビで中国歴史ドラマをよく見る。唐や随などの時代ものをやる、そこで出てくる兵士の格好が日本のほとさんの守護している四天王やら十二神将という格好なのだ。どうでもいいことだけど・・・・

 さて、この滝山寺の帝釈天。右足を見ると歩き出そうとしている?膝を少し曲げている。でも、両足揃ってんだよ。無理しているなぁ。それに、顔は色こそ違うが表情は、聖観音や梵天と同じ無表情。なので、とんでもなく違和感があるんだ。
 東大寺の仁王門のあの迫力のある表情が全くない。なので、この帝釈天は何を表しているのか、疑問。もっとも、この3体、みんな無表情で違和感いっぱいなんです。
 それともう一つ疑問点。この帝釈天も三眼なんですねぇ。三眼の帝釈天を調べて見たけど、この滝山寺くらいしか見つからなかった。インドの神様で帝釈天にあたる”インドラ”にも三眼と記述を見つけることができなかった。これは一体なぜ?なぜ三眼にしなければならなかったのか?これは是非知りたい。

 本当に、運慶や湛慶は、こんな無表情の疑問の多い仏さんを作ったのだろうか?  

Posted by 生田 at 20:38Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年03月17日

仏さんに惚れ込んで。。。59-3 岡崎・滝山寺 梵天

 岡崎市の滝山寺の重要文化財、運慶作の聖観音に続いて、その脇侍の2体の仏像、向かって右の梵天と左の帝釈天についての感想を書こうとしてます。
 見てから丸い1日経って、あたまの中の記憶が薄れている部分もあるが、画像を見て思い出しながら書いていく。

 実は、帝釈天やら梵天という仏像への興味をほとんど持たない私です。たとえ仏師が運慶であろうと誰であろうと興味は本当にないといっていい。しかし、こうして目の前に凛と立っておられるのなら、じっくり見させていただかないわけにはいかないのだ。(50年も前に、大学の古美研でもこんな気持ちがあれば、今頃はもっともっといい仏像への想いがかけたと思うのだが・・・)
 
 まずは、向かって右の梵天さん。4面4臂という体をしている。私にはこの4面4臂という仏像は、興味がないから余計にだけど、他には全く見たことがない。ネットで調べたら、梵天は、もともと4面4臂だとある。へぇ。。。。。勉強しておかないといかんなぁ。。
 梵天は、元はインドの神様だと聞くが、この滝山寺の梵天山は、そんなイメージは全くないなぁ。ただ、4面ともに三目という異様な顔のはずなんですが、真ん中・眉間のところにあるのは縦長(通常の目を90度回転させたもの)についているのでただの飾りにしか見えないのはなぁ?目が目に見えないんだよな。
 この梵天さんも、聖観音と同様に顔、体が白くて、やっぱり異様です。それに腰をくねらせているから、聖観音以上に艶かしく思える。どうして、こんなに艶かしくしたんだろ?本当に運慶もしくは湛慶がこのイメージで作り上げたんだろうか?
 腰をひねって動きがあるかのような作りだが、顔が静止している。正直このバランスの悪さには気持ち悪さを感じるほど。なんでだろうなぁ。。。

 この梵天さんも、足元が、まぁ下半身がやはり保存状態が良くない。足元は指が欠けているし、蓮台にしても下半身の衣にしても、肩がけの衣の保存状態に比べると彩色も禿げたというのではなく、かなり荒い塗りに思えて、修復をしたのなら修復自体が悪いと思う。聖観音も右の帝釈天も同じようだから、何か原因があるのかと疑うのだ。
 
 私は、自分で仏さんを彫るようにはなったが、手の数が2本を超えるものは彫ることをしていない。いずれ、何かの時に2本を超える手を持つ仏像を彫ることもあるかと思って、梵天さんの右側に回って、肩、腕の付け根をじっくりと見た。正直、これで済むのか?
 運慶といえば、東大寺の金剛力士像では解剖学を学んだかと思うような筋肉の表現をさせているが、この梵天像にはそういった体の内部を表現することはしていないようだ。やっぱり、施主(発注者)からの何かの依頼事項があったのかなぁ?なんて思ったりもする。
 まぁ、もっとも運慶作品をそんなに多くじっくりと見ているわけではない私には、そんなことを論じる資格はないとは思うが。単に、一仏像愛好家としての興味と疑問ということで。
  

Posted by 生田 at 17:01Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年03月16日

仏さんに惚れ込んで。。。59-2 岡崎・滝山寺 聖観音菩薩

 同じ寺を複数回取り上げるのは初めてのこと。これまでは、結構遠い記憶の中でかていたから、何度も書くことができないこともあったが、今回は一つの寺の中にある複数の仏像について書くので、回数を分けないと、とんでもなく長いものになってしまう。ということで、細切れにして、回数で逃げようということだ。

 
 今回のこの記事は、聖観音についてのみ書いてます。画像は、前回と同じものをトップに持ってきています。


 これは、中央が聖観音、つまり観音菩薩の原型で一番シンプルな姿。観音菩薩といえばいろんな姿に変わるのだが、聖観音は何にも変わっていない如来になるために修行中の姿そのものということだろう。
 ということで、秘湯にすっきりした姿に作られている。しかし、本来この聖観音にも宝冠が載っていたのだが、その宝冠はバラバラになって、展示の小ケースの中に収まっている、だからあたまの髪の結い上げた姿ママという、女性でいうならスッピンでお出ましって感じになるのかもしれないなぁ。

 顔は、いわゆる慶派の顔と思うのだが、何せ彩色されている。その彩色が造像当時そのものとは思えない、造像から800年という年月が過ぎているから、そのまま残っているということはまずないと思うし、ボランティアガイドさんの説明でも江戸期?あたりの修復の際に塗り直していると耳に残っているが、その時に過去の色を再現できたかどうかということが気になるところだ。

 この聖観音は、源頼朝おの死を弔うために作られたもので、体内に頼朝の歯と髪の毛が納められ、像高は頼朝の等身大と聞いた。頼朝を弔うのになぜこのにに妖艶になったのか?そう思うのは、現代に生きる私の美的感覚からくるものなのだろうか?彩色だけではなく、体つきについてもそれなりに脂ののった人のイメージがつきまとう。顔は確かに、慶派の多くにある表情なのだが、それ余地もうんと人間の、ちょっと見る目を変えると女性ニムエないこともない。
 私は、自分で彫るようになって、いくら趣味程度とはいえ、それが模刻とはいえ、それなりに何かをイメージして彫っているから、ついこの聖観音が何をイメージして彫られたのだろうと思うのだ。
 頼朝の菩提を弔うとすれば、髪と歯を残そうとするとすれば、誰が運慶にこの像のイメージを伝えたのだろうか?物資に対して、頼朝の弔いという目的は話しても、イメージは任せたのだろうか?
 自分で彫るからこそ、そう行った点にものすごく興味を持つ。だからこそ、ふっくらとした体型、しろいやちょっとピンクがかった肌の色には、それが運営の造像そのままだとしたら、そこにはそれなりの理由が隠されていると思う。

 そう行った思いを心の中に置いたまま、わたしはもう目を皿にしたと言われたかもしれないが、観音に本当に顔をできる限り近づけて、その像に施された彩色、切金細工などをじっくりと見させてもらった。
 ここで思ったことは、腰から上と下で彩色の技術の程度に差があるように思った。上半身の彩色はかなり均一で衣の切金細工の残りも線がくっきりと残っていると思うのだが、腰から下の彩色は金かなり手抜きというか、粗く感じられたのだ。

  左の画像は、足の部分なのだが、衣の彩色がかなり荒い。それに足の指を見るとかけたりしているところを見るとこの像の取り扱いがそれほどいい保存をしていなかったのではないか?それと、修復に関して、良質の物資を選択していなかったかもしれないなどと思ったりした。

 顔に戻ると、上半身も含めて妖艶に感じるのは、ふくよかでピンクがかった肌ということもあるが、唇に点した紅で、キチビルがなんとなく半開きに見えることもあるかもしれない。
 何れにしても、私には不思議な彩りの仏像である。

 もっtも、私は最初に惚れ込んだ仏像が、真っ黒の中宮寺の半跏思惟像、そのあとはとなるとキンキラキンの阿弥陀如来だったりるするが、他には多くは表面の処理が落ちてしまって素地に近いものを多く見ているから彩色の残るものには違和感を覚えているだけかもしれないのだ。
 まぁ、この歳になって、こんなことを持ってもなぁ、自分自身、何を考えてんだ?と言いたくあまおなる。  

Posted by 生田 at 21:09Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年03月16日

仏さんに惚れ込んで。。。59 岡崎・滝山寺

 ついさっき、午前中に参拝して、帰ってきたばかりです。

 今日は、大学の公開講座の出張見学で、岡崎市・滝山寺の運慶作の聖観音、梵天、帝釈天を中心に滝山寺の宝物見学と、滝山寺に隣り合わせの東照宮を参拝しました。
 朝、自宅を8時少し前に出発、多分途中ラッシュに引っかかることを覚悟の上で集合の2時間前に出発をした。案の定刈谷、豊田を通過するときはトヨタのラッシュの名残が残っていたけど、思ったよりも渋滞の長さは短かった。それでも目的地まで1時間25分かかった、通常なら1時間かからないはずなんだよなぁ。

 10時に滝山寺の宝物殿も階段下に集合。多くが電車で東岡崎まで、そして東岡崎からは台のタクシーに分乗しての集合。車の逢とも何人か、私もその一人。大学の講座の先生も車でしたが高速でおいでになったとか。
 
わたしが到着してから約40分タイムラグ。この間に、宝物殿の近くをカメラを持っての散策。でも、坂がきつくて、遠くに行けず。


 いきなり宝物殿に、ボランティアガイドさんの解説付きでの拝観。いろいろ説明を聞きながら、私はやはり彫る技術に目が入ってしまって、説明半分暮らしか聞いてなかったかもなぁ。
 
 一番最初に私の目を引いたのが十一面観音菩薩。綺麗な顔をされているなと思った。作は藤原時代とある。確かにそんな雰囲気の作品だが、なるほどその時代のさくならこれだけ黒く埃っぽくても当たり前か?なんて心の中で毒づいたり。その次がその左の十一面観音の小さい方。こっちは作風が違うなぁ、玉眼だから鎌倉以降?、確かにそう書いてある。彫りは丁寧で綺麗です。
  (この辺りは、いずれ書くことにします。)



 そして、その左手奥に大きい仏像、それも綺麗に彩色が残った運慶作の国重要文化財の立派なお立ち姿が3体。遠目には色が綺麗に見える、それも聖観音などは肌がピンクって感じでねぇ、江ノ島の観音さんの真っ白のあの気持ちの悪い色っぽさとあとは違うけど、なんとなく艶かしいものがある。どうも後の世に色を塗り直しているとか(そんな解説があった)、ということは、運慶がつけた色ではない?運慶はこんな色っぽい色をつけたのだろうか?などと腹の中でブツブツいう私だ。何せ20人という人間が一同に、狭い宝物殿の中で固まって解説を聞いているから、声出して毒づくわけにいかないし。
 皆さんは解説をじっと聞いておいでになるが、私はその解説を聞きつつ、聖観音の後ろに行ったり、ウロウロ。皆さん目障りに思われたかも。

 今回は、滝山寺に関しては一度ですませないで、記憶のあるうちに数回に分けて書こうと思ってます。これはその初回ということで、細かい話は後に回しますが、とにかく運慶の作品をこれだけ近くでじっくり見ることができるなんて本当に幸せですよ。この講座を受けてよかったというのは本音です。
 
 宝物殿では他にもたくさん見ました。その後、ものすごい急な坂を息を切らしながらの後って、本堂の薬師如来(忠お前立ち)や寺伝では運慶作といわれている日光・月光菩薩やちょいと面白い十二神将などを拝観、そのあとでお隣の東照宮を参拝した。

 全部見終わるまで約2時間。ボラアンティアさんお疲れ様でした。そして、最後にハプニング、岡崎「葵」武将隊の歓迎を受け全員一緒に記念撮影。コレもまた別に書きましょう。

 ということで、この先何回かに分けて、書くことに。  

Posted by 生田 at 15:11Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年03月07日

仏さんに惚れ込んで。。。58 向源寺 十一面観音菩薩

 琵琶湖の周りは、十一面観音がものすごくたくさんある。滋賀県ということで国宝と重要文化財の十一面観音を検索すると35の寺などにあるんだそうな。京都府では32体だから、文化財の数の比較から行けば滋賀県に多くあるということになる。ということで、十一面観音巡りなんてツアーもあるってことらしい。

 向源寺は、その中でもぜひ行きたい寺である。行きたいというよりも、ぜひみなければならない十知面観音があるのだ。
 向源寺の十一面観音は、国宝である。室生寺の十一面観音も国宝だが、作りが全く違う。ムロ時は、どちらかといえば動きが少ないかなと思うが顔はものすごく美人である。向源寺はまだ写真でしかみてないのでよくはわからないが、ちょいと動きが艶かしいかも、腰をちょいとひねっている。まぁ観音さんにはよくある腰の使い方だが、なぜか写真では艶めかしく感じるのだ。私がどうかしているか?
 顔は真っ直ぐ前を向いている。体をよじっている割には頭はまっすぎなんだなぁ。最もあれだけの顔(11も)を乗っけていたら、結婚ぢきの文金高島田よりも重いんじゃぁんしksんsんて思ったりもする。(知らないのに何で言えるかって、ツッコミはなし。)
 実は、この姿も見たいのだけど、それよりももっと見たいものがあるのだ。十一面観音の後ろに回ると「暴悪大笑面」(右の写真)をみることができるはず。(できないか?)この顔が見たいのだ。恐ろしい顔だが、これは人間の煩悩なんかをわらっているとか。行ったら笑われるだろうなぁ。煩悩いっぱい持っている私から。
 マワ、笑われたら、笑い飛ばしてくれて、私から煩悩がなくなるとか。ん???それだと、悟りを開いてしまうことになるか?それだと困る。悟りを開けば、浄土に向かうことにもなりかねないからなぁ。

 場所は、滋賀県長浜市の木之本インターに近いなぁ。今年の秋に、紅葉みがてら行ってみるかなぁ。  

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2017年03月01日

仏さんに惚れ込んで。。。57 浄土寺 阿弥陀三尊

 「仏さんに惚れ込んで・・・」シリーズも57回を迎えた。もっともっとたくさんの寺に行っているから書くことには困らないと思っていたのだが、行きはしたものの仏さんを見ていないから記憶に残って言わないわ、記憶に残っていても取り上げたくないものだったりと、だんだん手詰まりになってきた。
 そこで、シリーズを続けるには条件を「行きたい寺、見たい仏さん」も加えるということにしようと決めたのだ。ということで、今回はその最初に、一番最後に行くべきかと心の中で思う寺、兵庫県小野市の浄土寺の阿弥陀三尊を取り上げることにした。

 仏さんに最初に惚れたというのは、中学校の時の中宮寺で出会った弥勒さん(現在は半跏思惟像と言われている)なのだが、それからなぜだかわからないが長く惚れることもなく、(たぶんに異性に興味を持ちすぎていたからかもな)寺にはよく行くが本堂に崇めることも少なく、だから当然仏さんを見てこないのだな。何しに行った?写真を撮りに行った、仏さんでなくて景色やら建物を。
 それが、ご先祖さんが亡くなって法要のたびに聞かされる念仏に疑問を持って始めた親鸞研究。その生でどうしても行き着く阿弥陀如来の教え。それを知るためにと親鸞の歩いた道を追っかけて見て、その最初に出会ったのが法界寺の阿弥陀如来。ここで本当に惚れてしまったのなぁ。中宮寺の時は、たんにあの端正か姿に惚れたようだが、法界寺では顔を見た瞬間に気持ちがホッとしたことで本当に阿弥陀さんに惚れてしまったわけだ。最もまだその時は阿弥陀さんの一定rことを知っていたわけではない。それから親鸞研究を進めて、浄土三部経やら正信偈やらを読むうちに阿弥陀さんの修行の頃は”法蔵菩薩”と行って48の願掛けをして、成就して阿弥陀如来になったと知った。で、ついでに阿弥陀如来は浄界の西の国”極楽浄土”にいて、全ての人を差別なく”おいでおいで”と言っていると聞いた。
 ということで、阿弥陀さんの像は坐像が多い。ところが、一遍、空也、法然、親鸞と浄土教が普及したら、死に際には阿弥陀さんが迎えに来る、きて欲しいなんてことになって立ち姿の”来迎”の姿が多くなってきた。


 この浄土寺の阿弥陀三尊は、立ち姿だ。お迎え?この浄土にでは金堂(本堂かな?)で東を向いて立っている、なんでも夕焼けの時に見るこの阿弥陀三尊は赤く映え、きんきらしてまるで浄土の中に。。。浄土に行ったこともない人間がそう言っている。
 西を背にし東を向いて、ひょっとしたらお迎えのために出立する姿かな?まぁそれだとしたら、お迎えは拒否して、前に行って「まだこなくて結構です」というべきかもなぁ。でも、最後は行着かねばならない浄土だから、最後の最後にいって、「やっと来る気になりました」って言うべきか?

 先日息子に、「車で連れて行ってくれ」と行ったら、「小野なら電車で行けるから、電車で行ってこい」って言われた。冷たい息子だ。でも、行きたい。しかし最後がいいかな?もうどうしようもなくなって、歩けなくなったら、その頃には孫が免許取るだろうから、孫に連れて行ってもらおうと狙っている。  

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2017年02月24日

仏さんに惚れ込んで。。。56 円成寺 阿弥陀如来坐像

 円成寺は、国宝の大日如来が有名ですが、重要文化愛の阿弥陀如来も捨てたものではないですよ。


 平安後期の作で、いわゆる浄土信仰真っ盛りの頃に作られたもので、なんとなく法界寺の阿弥陀さんに似ているかとも思うけど、大きさがそんなには大きくなく寺のHPに書いてある記事によれば”半丈六”とのことで像高は150センチ足らず。方丈の中に静かに座っておいでになる。
 ここを訪れた時、他に拝観者がいなかったこともあり、坊守さん(多分)としばし阿弥陀さんについてお話をしたような記憶が残っている。確かその時”法界寺”の話を出したような・・・・・

 このお寺は、真言宗御室派なんですよ。真言宗だから当然のごとく大日如来さんがいるんですが、この寺の本尊はなんとこの阿弥陀如来さんなんです。寺の縁起によれば色々変遷しているので開山当初は宗派が違っていたらしい、でも基礎を気づいたのは仁和寺の寛遍ということで真言宗御室派になったんだでしょうが、それにしてもなんで阿弥陀さんが本尊なんだろ?この辺りは坊守さんに聞いたかと思うけど記憶に残っていないなぁ。。。。(歳のせいだ)

 ただ、近く(といっても結構距離はあるが)には浄瑠璃寺や岩船寺などなどの浄土教真っ盛りの寺がいくつかあって、それぞれ阿弥陀如来があるからその時代の流れの中で、阿弥陀さんを本尊としていたということなのかもなぁ。
 
 この阿弥陀さん、顔こそ違う(法界寺は可愛いけど、ここはその可愛さは違うな)けどイメージがやっぱり法界寺に似ている、静かに祈る人を見ているといったところは、前に座った時、ホッとした気分になったから。私は、やっぱり阿弥陀さんが好きなんだろうなぁ。。
 寺は、ちょっと交通の便が悪いので、なかなか行くことができない、車で行けば奈良から裏手を通って名古屋に帰るときに寄ることができるけど、その先柳生を通ると結構面倒な道になるんで、車を運転できるうちにもう一度行って見たいとは思っているが。。。  

Posted by 生田 at 17:01Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年02月17日

仏さんに惚れ込んで。。。55 浄瑠璃寺 吉祥天


 浄瑠璃寺は、前に「童子像」を取り上げて書いた。あの可愛い姿は、忘れることはできないと今でも思っている。そんな想いの強い記憶があるだけに、本尊の9躯の阿弥陀如来も霞んでしまっているくらいなのだが、もう一つ霞んでしまっているのがある。それがいつもは厨子の中に収まっている”吉祥天”だ。
 
 この吉祥天に初めて接したのは、やはりこれも大学の古美術研究旅行の時のはずだ。あの当時は厨子は開かれていたか、もしくは私たちのために特別にご開帳だったのかもしれない。でもなぁ、かなりな学生が何日にもわたって訪れたんだが、その度に開けるのは面倒で開いて置かれたのかもしれないなぁ。今は考えられないことかと思うが。

 もう一度お会いしているはずだ。春には特別拝観という形でご開帳になるのだが、桜の季節だったかに一度行っているはずで、その時の記憶が残っている。

 最初の時の記憶はさすが50年も前のことでなくなっているに等しいが、2回目の時はもう少し強く残っている。ただ、正直に言って、いい記憶ではない。なにせ古いお着物を身につけられたままで長年お立ちになっているから、いくら今は厨子の中とはいえかなり埃まるけで、お顔も写真のようには綺麗ではなかった。正直に書けば「なんとなく薄汚れたふっくらとして大きなお人形さん」と行った感じだった。これが世では一番美人の吉祥天ということだそうだ。

 吉祥天には旦那さんがいるのだ。毘沙門天(別名・多聞天)がその人?。美人と屈強な男のベストカップルらしい。毘沙門さんは阿弥陀さんなどをお守りする四天王の一人で、おい忙しいのでしょうねぇ。ご夫婦での立ち姿はあんまり見かけないなぁ。
 浄瑠璃寺では、揃ってお立ちになることは今の所できないでしょうね。奥さんは厨子の中に箱入りで、ダンんさんはなんと30キロも離れた京都国立博物館においでになるんですよ。仏さん守らんでもええんやろか? たまには、一緒に食事でもされたいやろになぁ。
 あぁ、この吉祥天のおかんはあの”鬼子母神”だそうで、吉祥天の子供は”善財童子”で前に取り上げた”童子像”がそれらしい。ふむふむ。。。。

 最近浄瑠璃寺に足を運んでないので、行けなくなる前にもう一度行って置かねばなぁ、  

Posted by 生田 at 22:07Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年02月11日

仏さんに惚れ込んで。。。54 法隆寺西円堂 薬師如来

 法隆寺はとにかくなん度も訪れている寺ですが、西円堂に足を運ぶということは、少ないのではないかと思います。だいたいが、正面、南大門から入って中門(仁王さんのいるところ)まで長い道を歩いて、中門の左(西側)の関所から中に入ってしまい、出口が東になるからついつい夢殿のある方に行くことになり、そしてそのまま戻ってきて、また中門の前から南に折れて南大門にでてしまうから、西円堂にいくことはまれということになってしまう・
 かくいう私もなんども法隆寺に行きながら西円堂に足を向けたのは2回しかない。なので記憶も定かではないが・・・
 (春、桜の頃に西円堂に行くと、西円堂を背にすると桜の中に五重塔を見ることができます)

 ただ、堂の中に大きな仏像があったことは覚えている。それが薬師如来だったということは記憶にない。もっとも、最後に西円堂に行ったのは10数年前でまだ親鸞研究などしてないし、仏教への思い入れもさほどではなかったからどういった仏像があったのかは記憶にとどめることがなかったのだろう。
 このシリーズを書き始めて、訪れた寺のことをいろいろ思い返すことになった。そして法隆寺も西円堂に行ったことがあることをもいだして、今この記事を書いている。
 
 この西円堂の薬師さんは坐像である。私の頭の中には、多くの薬師如来が立像ということなのだが、なぜそういうイメージを持つのかはわからない。なんでだろ????
 最初に出会った薬師如来は薬師寺の薬師さんzんだけど、ちゃんと座っているし、新薬師もそうだし。。。
 あぁっ ひょっとしたら、円空さんに出会って、円空さんの薬師さんに立像が多いことで、今の私に根付いてしまったのかな?(今も薬師三尊彫っているけど、ちょっと太めの立像だもんなぁ)

 ネットで写真見ると、なんだか苦虫噛んだみたいに口をへの字にしているのが多いけど、見る位置で違うのか?薬師寺の薬師さんとはちょいとイメージが違うなぁ。

 薬師さんは、東の浄土にいて、衆生の健康を見守っているということらしいが、できれば立ち姿手で薬壺を持って病人のところに来て、その薬壺の薬で病を治してほしいもの。今は、私はそんな気持ちで薬師さんを彫っている。

 もともと阿弥陀さんさ大好きな私だけど、阿弥陀さんが来るとどうしても”お迎え”になってしまうので、最近は心をちょっと膨らませて、阿弥陀さんのお迎えは当分先にしてもらって、薬師さんに病を治してもらえないかと思っている。

 そんな望みが叶うと猪だけど。コレオは多くの人に向けて。  

Posted by 生田 at 14:10Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年02月09日

仏さんに惚れ込んで。。。53 三十三間堂 風神・雷神

 風神雷神といえば、建仁寺にある俵屋宗達の国宝の屏風が有名過ぎて、他の国宝はとなると、なかなか答えられる人も多くはないかもしれない。国宝の彫刻の風神雷神としては、蓮華王院(三十三間堂)の風神雷神しかない。
 三十三間堂も何度いったかなぁ。多分最初に行ったのは小学校の修学旅行かも知れないが、京都での修学旅行の思い出は全くないといっていい。ただあの日は晴れていたなぁ。。

 そのあと何度いったか?数えれば10回くらいあるかもしれない。が、記憶に残っているのは一番最後かな?10年くらい前になるか?学生と一緒に行っている。その時の記憶は、数体の千手観音がご出張だったり、修理中だったりしたことと、二十八部衆がなんとなく気持ち悪く思ったことかな?
 なにせ、この三十三間堂は、真ん中にどんと千手観音の坐像が鎮座し、その両脇に500体ずつの千住観音立像が並んでいる。だいたいが、この1000体の千手観音を見ただけで圧倒されて他のことは何も記憶に残らないって感じになる。なので、風神と雷神がどこにあったかなんて記憶に残る人がどれだけいるか。何度も訪れてやっと記憶にとどめることができるているかもしれない。
 私の記憶には、最後に行った時にかすかに残ることになった。しかし、1000体の千住観音のかげで記憶が薄いんだろうなぁ。。

 作者は?いろいろ探したけどわからない。釜か浦木の作ということで、慶派の作なんだろうなぁと思うけど、あの鬼気迫る了三の表情は、それなりの物資の作だろうが、国宝というからには系はということかな?
 風神。雷神と書いてしまうが、実は、並んで入るのではなく、この三十三間堂のお堂の中で一番離れた関係になる。風神が向かって左で、雷神が向かって右をあの1000手にの千手観音を挟んでのこと。まぁ護符増えなくてよかったですちょね。

 なんでも、この像は俵屋宗達の風神雷神の絵のモデルになったとか。並べて見てみたいものです。  

Posted by 生田 at 21:46Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年02月06日

仏さんに惚れ込んで。。。52 六波羅蜜寺 木造空也上人立像

 六波羅蜜寺は、3回ほど行っていると記憶している。最初は、これも古美術研究の際にいっている。この寺に観光バスを乗りつけるのは無理だから、何処かで降りて歩いたんだろうと思うが、その記憶はない。
 2回目は、五条大橋辺りから歩いて行った。けっこう距離あったなぁ。そんなにあると思っても見なかったけど、五条通りの裏道をくねくね曲がってちょっと坂を登りながら行ったように記憶している。
 この六波羅蜜寺には、国宝の十一面観音などもあるが、いちばん有名なのは、日本史の教科書によく出てくる”平清盛”の像ではないかと思う。が、わたしは、それらよりも”空也上人像”の方に興味を惹かれた。
 
 最初に訪れた時には、この寺も現在のように綺麗でなく、なんとなく裏寂れていたように記憶しているが、本堂の裏手のかたすみに”空也上人”は立っていたのだ。口から念仏が連なって出ている、あの有名な姿が。
 その頃のわたしは、まだ仏教というものに対しての興味がそんなにはなく仏像などを美術品として見ていたので、空也上人の宗教史の中での位置を知ることもなかった。なので、あの口から出る念仏の形は彫刻としての興味をそそられたということなのだと思う。
 2回目の時は、親鸞研究を始めた頃で、浄土教の先駆者としての位置付けを知った頃だった。その時に知った上人のことは、まだまだ浄土教が根付いていない頃に念仏と極楽浄土を説いておられ、なかり苦労をされたのではないかということくらいかな?

 空也上人の像は、重要文化財としては4躯登録されているが、この六波羅蜜寺以外はそんなには知られていないと思う。画像で見比べてもやはり六波羅蜜寺がいちばんいいかと思う。
 それにしても、かなりリアルな作りだなぁと思う。色付けを幅色なんかにしたら、今にも歩き出しそうかな。作者を調べたら、運慶の4何の”康勝”の作だそうだ。さすがと行ったところかなぁ。このくらい掘ることのできるようになりたいものと思えども、今のわたしには遠い遠いお話です。
  

Posted by 生田 at 23:13Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰
  
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 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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