2017年02月06日

仏さんに惚れ込んで。。。51 法隆寺 塑造塔本四面具

  「塑造塔本四面具」という名前は馴染みが薄いものと思います。私自身、文化財データベースを使って仏像などの画像データベースを作っていなければ、この名前は知らずにいっていたことと思います。しかし、名前は知らなくても頭の中にしっかりとその姿は記憶に残っているのです。
 法隆寺の五重塔の中に収まっている群像たちです。


 東面は「維摩経(ゆいまきょう)」に登場する「文殊菩薩と維摩居士の問答(維摩方丈)」の場面、北面は「釈迦の入滅(釈迦涅槃)」の場面、西面は「分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨を分配舎利供養、舎利供養)」の場面、南面は「弥勒の説法(弥勒浄土)」の場面を表わしています。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名です。


 つまり、ここに書かれているのは、五重塔の四面それぞれに、経典に書かれている物語を形にしたものということです。
 記憶に残るのはこれも大学の古美術研究の時に、あの真夏の暑い日に訪れた時のことです。何があるか知らなかった。金網越しに中を覗き込んでとにかくものすごい衝撃を受けたのです。そんなに大きな人間像ではないにですが、とにかくとにかく表情がものすごくリアルでよくここまで彫られたものだと思ったのです。
 釈迦入滅の画面を彫ったところだったかと思いますが、とにかくすごい叫び声を上げているように、私の耳にその叫び声が届きそうにも思ったものです。
 法隆寺は、何度訪れたかはもう回数はわかりません。おそらく20回以上はいっていると思います。行けば必ずこの五重塔の群像を見ます。そして見るたびに新たな記憶が残ります。といって、それを書くことはできませんが、群像の一つ一つの顔が新しく記憶に加わるのです。歳のせいでそれを引っ張り出すことができなくなりつつありますが、それでもこの群像の迫力の記憶だけはおそらくなくならないだろうと思います。
 惚れた仏像はたくさんありますが、この「塑造塔本四面具」はいわゆる仏像とは違った意味での惚れ込みです。  

Posted by 生田 at 10:39Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年02月05日

仏さんに惚れ込んで。。。50 当麻寺 弥勒仏

 当麻寺は一度しか訪れていない。2度言ってはいるのだが、最初は門の前で家内が中の様子を見に言っている間車の中で待っていただけなのだ。まぁ、閉門の後に行ったからしょうがないわなぁ。

 当麻寺の中は、いくつかのお堂があるが、中で宗派が分かれているからかなんだか、見て歩くとなんだか変な感じになる。しょうがないといえばしょうがないのだけど、なんだkなぁ。。。。。
 

 この弥勒如来は、初めて接した、当たり前だ1度しかいてないから、その時初めて”弥勒”さんに如来のくらいのほと系¥さんがいたことを知ったのだ。
 だいたい”弥勒”というと"菩薩”と続く言葉になるのだが、菩薩はまだ悟りを開く前のくらい。それがあいつか悟りを開かれたのだろう、如来となっているのだ。
 だいたい弥勒さんは、おしゃkさんがお亡くなりになってん¥かなり時間が経って、仏教が数多石時に人間を救いにお出ましになるのだ。その救いのために長い長い間考え抜いて・・・・という話を聞いているんだけど。私が子供の頃から馴染んで来た浄土教には出てこない仏さんだと思う。しかし、菩薩としては有名で、中宮寺(これは今は弥勒菩薩とは言わないみたいだけど)、興隆寺の弥勒菩薩で日本では名を馳せている。
 しかし、多くの人が弥勒さんが如来になっていたとはあまり知らないのではないか?私が知ったナオは、当麻寺を訪れた時だから4−5年前。つまりは70年近くも知らずに来たということだ。まぁ、中宮寺で初めて接した時から見ても55年は経っているから、弥勒如来の存在は、とにかく知られていないかもなぁ。
 ただ、弥勒如来は、今から考えると結構存在するのだ。弥勒如来とはなっていないが「弥勒仏」と名付けられた文化財が国宝・重文」を含めて13体ある。これにはチョット驚きだった。

 本題に入らねば。当麻寺の金堂の本尊。いくつかの道を回って、この金堂に入ったときに、弥勒さんとはおもなかったのだ。まぁ姿から行けば”釈迦如来”か”阿弥陀如来”と思うだろう。薬師さんでないことだけは確かで。だって、薬壺持ってないもんな。
 大きく感じたなぁ。堂自体がそんなに大きいと思わなかったから大きく感じたのかもしれない。多分造像直後はキンキラキンだったのだろう。今もその面影はあるけど、キンキラキンだったら、今の私にはつまらん仏像に見えたかもしれない。
 この弥勒仏、国宝なんです。制作年代は飛鳥だそうですが、あのアルカイックスマイルではない、でも硬い表示ではある。止利仏師などとは全く違う系統の物資たちの作なんだろうと思ったりもする。
 ただ、全体にちょいと違和感を覚えるところがあるのだけど、いろいろなもの読んでいるうちに両腕はのちの時代に付け替えられたというか、なくなって補われたことで仏師の力が違っているからかもしれないなぁ。   

Posted by 生田 at 14:44Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年02月02日

仏さんに惚れ込んで。。。49 室生寺 釈迦如来立像

 室生寺は、この「仏に惚れ込んで」シリーズの最初の方で、惚れた3仏像の一つ”十一面観音”を書いている。それほどに惚れ込んだ十一面観音の並ぶ金堂の中のど真ん中に位置するこの室生寺の本尊である。といっても、この寺、別に灌頂堂という本堂があって、その中に如意輪観音が本尊として存在する。なんで2つも本尊が?ということになるかもなぁ。。

 この”釈迦如来”は、寺伝では元は「薬師如来だったとある。左手(向かって右)の手は、指を曲げている。当たり前の印ではないと思うのだ。ひょっとしたら、ここに薬壺が載っていたのかもしれないなぁ。
 この金堂の仏さんたちは、いわゆる室生寺様式と言われる作り方で、ちょいとばかし他の寺とは違ってはいる。
 わたしとしては、十一面観音に目がいってしまい、記憶もそっちが多いので、この釈迦如来像の印象は十一面観音の何分の1しかないが。。。全体に、この堂の中の仏さんたちは、山理女人高野というだけあるのか、全体にふっくらしていると思う。柔らかいんですよね。でも、顔はとなると、ちょっと硬いかなぁ。あの十一面観音も実は硬いんです。美人ななんですが、やわからかくはない、それと同じで釈迦如来さんも固いんですね。
 
 この堂の中の仏さんたち、多分造像直後の姿は、キンキラキンだった?いや、そうではないか、金よりも彩色が多く感じるから。それにしても、この釈迦如来像は衣の色がよく残っている。それにひきかえ顔は、黒いよなぁ。。だから固く思うのだろうか?
 それにしても大きいですね。像高234だそうです。金堂の中での仏さんとの目線の違いがちょっとある。しかし、威圧感はない。それがなぜなのかがわからない。わたしとしては、十一面観音んばかり行きを取られているから、他の仏さんの意識がないから?ではないと思う。多分、やはり女人高野というだけのそういった面での心配りが、仏師にあったのかあなぁって思ったりもする。  

Posted by 生田 at 16:48Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年02月01日

仏さんに惚れ込んで。。。48 高尾山神護寺 薬師如来

 神護寺は2回訪れている。一度は、これも大学の古美術研究の一番最後に行ったと記憶している。男ばかりが20人くらいだったか、女がいないことをいいことに観光バスの中でシャツ一枚になって、みんなで階段を上って行った。最後にかわらけ投げをしてそこで記念写真撮ったのは50年以上も前の話なのにしっかりと記憶している。
 2回目は4年くらい前に家内と娘を連れてのドライブ旅行の際に訪れた。その時は、高山寺に行ったことがなかったので、高山寺に行くことがメインだったのだが、お隣だから寄って行こう、そして運試しのかわらけ投げを娘にさせたかったということで。。。

 何せ50年ぶりの参拝である。記憶に残っている神護寺と現物を目の前にして、その差に唖然としたのだ。記憶とはこんなにもいい加減なものだったのかと思わされた。ただ、あちこちに点在するのもがそのまま残っていたので、多少救われた気もしたのだが・・・

 この寺が弘法大師・空海ゆかりの寺ということは、この2回目の参拝まで知らなかった。恥といえば恥なのだが。よくよく考えて見ると分からなければいけなかったのだ。前回取り上げた三千院は、比叡山の麓で天台、最澄さんのゆかりになるので、この高尾の神護寺はその対極にあると考えれば真言、空海さんのゆかりと理解しなければいけなかったのだろう。
 真言の流れとなれば、私の苦手とするところで、あの大日如来が鎮座することになるのだが、この神護寺はなんと本尊が「薬師如来」なのだ。薬師さんが本尊となるとどっちかといえば天台だよなぁなんて思うのだが。

 さて、この本尊の薬師如来は、国宝である。像高は169センチだからほぼ私と同じくらい、つまりは等身大の仏像なのだが。ん???見たはず、私は見たはずなのだ。なのに、えっ?記憶に残っていない。多分、位置的に高いところにあったのだろう。それにあのいかつい顔で見下ろされていたことが、真言の寺のいつもの状況だ。記憶から消そうとしているみたいだ。
 絶対に見ている。金堂の中に入って、奥の方にいてっている、その記憶はあるのだから、見ているのだ。

 今写真を見ながら思い起こそうとしているのだが、あの赤いへの字に曲げた唇は、やはり恐ろしい。それに真冬の寒いところの防寒帽のような螺髪の頭も恐ろしい。なんで真言の仏にはこう恐ろしさを感じるのだろ?不思議だなぁ。。。。そ手にしてもなんと肉感的な薬師さんだ。他にはないよなぁ。

 この寺には、この他に五大虚空蔵菩薩もあるのだが、2回の参拝の時は御中傷でおいでにならなかったが、その代わりにど中田のご寄付のキンキラキンの模刻が置いてあったと記憶している。がまさか間違ってないよなぁ。。。

 こんないい加減な記憶なので、出来ればもう一度行って事実を確認したいのだが、何せあの階段を登り続けるのはもうごめんこうむりたいなぁ。でも、頑張って行って見たいとは思うのだが。
  

Posted by 生田 at 17:24Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年01月31日

仏さんに惚れ込んで。。。47 三千院 阿弥陀三尊

 三千院は、何度行ったかなぁ。最初は多分、これも大学の古美術研究の時ではないかと思う。しかし、その時の記憶は全くないから、ひょっとしたら行っていないかもしれない。
 記憶にあるのは、いつ?ひょっとしたら家内といったののが最初?結婚前だったかな?いやいや、わからない。。。。。。ここ10数年の間に何度かいっている。京都駅から1時間以上バスに揺られて朝早く行ったこと、家内と娘連れて行ったこと、妹を連れて行ったこと、もう一度は行くには行ったけど、車で行ったから駐車場がわからずに寺には入らなかったことも。
 一度は、まだ焼ける前の寂光院に行ったときにも行こうとしたのだが、紅葉の季節で大行列でなんとバス停近くまで行さ列でいくのを諦めたことも。
 まぁ、そんな回数行っているのだが、なんだかちょっと馴染めないというか。。。


 この阿弥陀三尊は、脇侍が珍しくて、大和座りしているんだよね。勢至菩薩、観音菩薩とも正座。でも、なんだか前に体を倒しているから、お迎えに出かけようというところなのかな?でも、阿弥陀さんはデンと構えておすわりだから、お迎えではないわなぁ。
 阿弥陀さんの顔が、なんとなく平等院の阿弥陀さんに似ているかなぁって思ったりもする。作者は国の文化財データベースには作者名はない、しかし某サイトに「源信作」とあるが、まさかあの「源信和上」が掘ったわけではあるまいに。。。。

 阿弥陀如来像はあちこちで、見ている。国宝といわれるものが多いのだが、やはり私としては、法界寺の阿弥陀さんに惚れてしまったことからかもしれないが、この三千院の阿弥陀さんもなんだかなぁ。。
 前に座って、お顔を見たときに、法界寺の阿弥陀さんのように「ほっ」とすることがないのだ。 ひょっとしたら、法界寺は参拝者も少なく、ジックリとご対面できるのだが、平等院にしても三千院にしても参拝者がひしめいてじっくりご対面できないからか?それもあるかもしれないが、やはりお顔の表情、法界寺は丸くて子供っぽくて本当にホッとするのだが、どうにもほかはじっと見つけられているという感じで。

 それにしても、この三千院の阿弥陀三尊は、ちょっと不遇かなぁ。天井の低い船底かな?そんな天井に圧迫されてなんか窮屈そうなんだよねぇ。脇侍も立ち上がりたいだろうなぁ」なんて思ったちもするんだよね。

 比叡山のお膝元のお寺、京都の街中からはかなり離れているが、参拝者の多いお寺だ。私らの学生時代は、参拝者そんなになかったみたいだよ。あのデュークエイセスの「女ひとり」で「京都大原さんZね人・・・」なんて歌われなかったら、ここまで有名になったかなぁ・・・・。いやいやま必ず有名になっていたでしょう。

 またいつか行きたい寺であることには違いない。
   

Posted by 生田 at 23:28Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年01月19日

仏さんに惚れ込んで。。。45 関市 高賀神社 十一面観音


 関市の山奥にある高賀神社、なん年前になるかなぁ。夏に行ってきました。ちょっと距離があったって記憶です。ここでも鮎食べたいなんて殺生なことを言ってましたが、残念ながら鮎料理はどこもかしこも満杯で断念した記憶が残ってます。

 この高賀神社の円空仏は、円空記念館に収まってます。結構たくさんあってしかも力作と思うものも多く。ぜひ一度現物を見に行かれるといいかと思うところです。

 たくさんあって、と書いたものの、歳のせいで記憶になかなか残ってくれなくて、この十一面観音だ一番しっかりと記憶に残っている。
 それは、その年、8月の終わりころからだったかともうけど、たまたまいただいた材料を見た時に、「オォコレで十一面観音さん彫れるゥ」とものすごく喜んで、即模刻に入ったのです。なので余計に印象にk¥残っている。まぁそれだけでなく、実は同じ材料で丸太を半割りにしたので、もう一体同じものを彫っているんですね。造形的にいい顔しているなぁなんて思ったからでもあるんですが。
 トップの写真は、これでセットということらしいのですが、向かって右側は善女竜王、左は善財童子ということで、なんでも1本の木を三ツ割にしてそれぞれを掘り上げているのだとか。私も同じことしてたらよかったのにねぇ。。。。
 まぁ、私の悪い癖で、好みのものをいくつも彫ってしまうというところが災いしてますね。

 円空さんの場合、だいたいが薄っぺらいものが多く、この十一面観音もかなり薄っぺらくて、ごく当たり前の11面館のあのぐるっと取り巻く顔は惚れないので、正面jに向いて11面を彫ってます。(他にもありますが)
 まぁ、模刻するときは楽といえば楽ですが、でも顔が小さいし、正面虹10の顔並べるのは結構大変でした。

 
左が本物 右が私の彫った贋作


 この下の円空さんの十一面観音は、素材がねじれているからでしょうね、s騎士の寺の技芸天よろしく腰をくねらせてます。こればかりは真似するのは難しいのでやめました。
 
 左の写真は私の模刻したものの全身です。やはり円空さんの本物の味は出せてないので、お恥ずかしい限りですが、いつか力がついたら、また挑戦して見たいとは思いますが・・・  

Posted by 生田 at 16:21Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年01月16日

仏さんに惚れ込んで。。。44 円空ふるさと館 善女龍王



 この像の名前は「薬師如来・善女竜王」という。本来仏像は複数の名前おもつことはないはずないんだけど、円空さんは全くそれとは関係なく、複数の名前を持った仏像を作っている。
 この像は、龍を体に巻きつけ、頭の上に龍の頭があるからわかるかと思う。この龍がなければ、薬壺を持つ仏として、おそらく誰もが薬師如来かなと思うのだが、そこは円空さん、単純にそうは思わせてくれないのだ。
 もともと善女竜王は、経典では「法華経」に登場する女性で沙掲羅龍王の三女ということなのだそうです。沙掲羅といえば、前に取り上げた興福寺国宝館にある八部衆の一つ、阿修羅の横に立っている可愛い顔の武将(?)で、なんでも雨を司っているので、雨乞いの時などに呼ばれるらしいが、沙掲羅自体よりもその娘の竜王の方がや役回りは多いようだ。

 そんな話はさておいて、写真の善女竜王は関市の山の中にある星の宮神社境内にある円空ふるさと館」の奥の方に収まっている仏像である。結構大きかったなぁ。なんともにこやかななかおで一目見ただけで好きになったという、一目惚れですわ。
 そ星宮神社に行ったのが2年前の8月で、到着して仏像見る前に、罰当たりが殺生な、鮎を美味しく食べたのだ。家に帰ってしばらくしてから、この善女竜王を2躰模刻した。像高は本物に比べると3分の2くらいかな?それに、顔がこの本物のにこやかなものが再現できなくて。(右が私の彫った善女竜王)

 それにしても、円空さんて、女性を思わせる像は、なんだかふくよかだなぁ。羽島市中観音堂の鬼子母神にしてもふっくらしている。ひょっとしたら、円空さんの母親がふっくらした方だったのかもなぁ。円空さんは母親思いだとお見受けしているんですが。。。  

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2017年01月15日

仏さんに惚れ込んで。。。43 桃厳寺 名古屋大仏

 名古屋には、通称名古屋三大仏というものが存在します。中区永国寺の阿弥陀如来、八事興正寺の大日如来、熱田区雲心寺の阿弥陀如来で、なんとわたしはこの3躰とも偶然も含めお会いしてます。といっても記憶に残ってなかった大仏さんもあるけど、これを書きつつ思い出したものも。
 で、それら3躰よりもうんとでっかい大仏のに番外の扱いなのが、この桃厳寺の大仏です。写真でお分かりのように、非常に変わった感じです。体は全身緑色、なんで緑なのか知りませんが、異様な雰囲気です。しかも、この大仏さん、ごく当たり前には如来さんはだいたいが座っているときは蓮座の上で足を組んでいるんですが、この大仏さんは蓮座はなくて周りに象さんや弟子たちが並んで立ってます。これも異様です。


 それに、この大仏さん、一体どんな種類(失礼)の仏さんなのかもわからない。だいたいが、如来さんなら。阿弥陀、薬師、大日なんていうのが一般的で、そのほかにも弥勒さんもたまに如来として座っているが、この大仏さん、調べたけどわからない。なんだろ??

 6年前の秋に行っているのだが、とにかく大仏さんの前に行ってでっかいのに驚いたし、色はそれよりもおどろいたし・・・・お顔は緑色でなければ結構柔和かなと思うのだけど、緑色で、目の周り金色?なのでなんとなく気持ち悪くて。
 
 この大仏さんは、桃厳寺の境内では東の方、位置的には坂を下りて行ったところにある、裏の道路から入った方が入りやすいかな。近くに私の苦手なお墓があった。結構たくさんのお墓だったと記憶している。
 ネットで調べた限りでは、この大仏さんは昭和62年(1987)の製作で、なんでも開眼供養を名古屋オリンピックに合わせるつもりだったとか。オリンピックがソウルに取られたので、開眼供養は夢と消えたとか。
 

 まぁ、何はともあれ話のネタに是非一度どうぞ。ただし、大仏さんの前には写真のようなことが書かれているのでご注意を。  

Posted by 生田 at 17:28Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2017年01月14日

仏さんに惚れ込んで。。。42 安倍文殊院 騎士文殊菩薩

 安倍文殊院は、桜井市にある寺で、多分訪れたのは一度だけかと思う。家内の母親の法要だったかに車で家族と出かけ、まだ時間があるということで立ち寄ったときだと思う。
 ただ、訪れたものの、時間的な余裕はそんなに多くあったわけではないので拝観は建物の中には入ることはしなかった。なので、ここでの仏像群との対面は果たしていない。今になって、惜しいことをしていたなぁと思いはするが、やはりそのときは法要が先だったからな。


 写真の五躯の仏像は、快慶の作と聞く。いずれも国宝のようだ。でもなぁ、ここの仏像国宝五躯なんだけど国の文化財データベースでは4躰なんだよね。でも写真が5躰あるけど一体何がどう間違っているの?それに、登録の名前もちょっと違っていたり。まぁ登録は正式名称なんでしょうが。

 写真を見る限り、苦手なものが左のほうに立っているなぁ。維摩居士やらその隣、特に維摩居士は苦手でして。。。役行者と並んで苦手。
 
 童子像は、多分に円空さんがこれを真似たのではないかと思う、円空さんの作の聖徳太子像がそれで、なんだかなぁ。
 肝心の文殊さんだけど、なんで獅子に乗ってるのだろ?まぁ教義からこの像を作っているのだろうから、それなりの謂れがあるとは思うのだが、私は象さんやらなんやらない乗った仏像もイマイチ苦手なんですね。多分、浄土教の世界で育って、阿弥陀さんしか見てこなかったからかもしれないなぁ。
 インドの仏の世界なんだろうなぁ。でもね、四天王やらなんやら仏さんを守る像の着けている甲冑は、最近よく見る中国の歴史ドラマに出てくる兵士特に格の上の戦士の着ている甲冑みたいで、こっちはインドでは暑すぎるだろうと思うし。。。。

 まだ見ぬ、この国宝群。いつか見に行かねば。  

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2017年01月14日

仏さんに惚れ込んで。。。41 萬福寺 布袋さん

 萬福寺は、宇治市にあるのだが、正直「宇治市に?」と思うほどわたしには、違和感のある場所なのだ。というのは、萬福寺に行くときは、名神高速の瀬田から京滋バイパスで宇治東で降りるんだけど、だいたいこのコースを取るのは崩壊時に行く時がほとんどで大体が、萬福寺を横目に通過していたので、そこが宇治市とは思っていなかったのだ。つまり、京都の山科区の南の方ってことくらいだったかな。

 萬福寺には2度行っています。一度は娘の願掛けなんかもあったんだよな。2度目は、その願掛けの成就淳冷やし御礼に行ってついでに精進料理を食べてきた。

 写真の布袋さんにはだから2度あっていることになる。でっかい腹はわたしの息子の腹に似ているなんて毒づきながら見ていたものだ。
 だいたいが、この萬福寺は、黄檗宗の寺でごく一般の日本のお寺とは構造が違う。とにかく趣味が中国趣味で、見るもの全てが慣れていないから変に思ったりもした。
 この布袋さんも、どう見たって日本人でないでしょう。中国や台湾、、香港映画に出てくるお腹のでかいおデブのおっちゃんタイプだよな。日本のj布袋さんのイメージじゃぁない。それでも豪快に笑っている顔はいいですねぇ。。。
 ななんか、どこかの昔の総理大臣みたいに「よっしゃ、よっしゃ任せなさい」って行っているみたいでね。

 でもなぁ。この寺。経営満足に行っていないみたいでね。もっともっと精進料理で人を呼んで経営回復してほしいけど、何せ中途半端だな。観光寺でないからさんぱあい客も少なくて。ガランとしてます、2度ともほんとガランとしてました。

 是非、一度、この布袋さんにお会いになってください。  

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2017年01月13日

仏さんに惚れ込んで。。。40 興福寺国宝館 山田寺・仏頭


 興福寺の国宝館にある、確か入り口近くにあって、結構目立つ存在だったと記憶している。
 初めて見たのは、これも大学の古美術研究旅行でのことであると記憶している。昔は、今のようのな綺麗な国宝館ではなくなんとなく裏寂れた建物の中にあって、入口を入ると「うわぁ」と驚くばかりの目立つ存在だった。
 結構でかくて、この頭だけで93センチもあるのだ。元は坐像なのか立像なのかは知らないが、まぁ制作時代(飛鳥時代)から行けば坐像かなぁと思うが、この頭の大きさから行くと結構でかい仏さんであったのではないかと思う。
 飛鳥時代の制作とはいえ、あの飛鳥寺のようなアルカイックスマイルではなく、かなり写実的な作りで「へぇ〜〜〜」という声を漏らしたものだ。
 わたしの手元にある資料では、作者は分かっていない。止利仏師が活躍していた飛鳥時代と同じ時代ということだけど、全くもって作風が違うということは、止利仏師などの流れとは違うものだと思う。もとは天武天皇の後押し(らしい)で寺が建てられ、そこに薬師如来として納められたものとか。興福寺の説明がきでは、「天皇が亡き蘇我倉山田石川麻呂のために造った飛鳥山田寺講堂本尊像の頭部です。」とある。
 まぁなんにしても、天皇が絡んだ造像となれば、それなりの物資が選ばれたことだろうが、それが誰だかわからないのは惜しい気がする。
 
 銅製の仏像ということで、なんとなく蟹満寺の釈迦如来を思いだしたのだが、ネットで見る限り製作時期が同じ頃のようで、ご親戚かいな?なんて思ったりもするけどね。蟹満寺も、製作者分かってないんだよなぁ。。(惜しい)

 この仏頭を記事あげたのは、とにかく初めて見たときの強烈な印象からだ。だいたいがほとんど目線が合う位置に置かれているのであの切れ長の目がこちらの中を見透かしているようにも思えたりしたことも覚えている。
 目線がだいたい同じ位置だと、大きな仏像はだいたい目汁がつり上がったものなのだが、この仏頭は、タレ目なんだよなぁ。実際に作られたことのものを見たら、どう行った目で見えたのか知りたいと思うが、無理な話だ。

 それにしても、アルカイックスマイルではないが、口元を引き、笑顔だと思う。優しいお顔、またお会いしたいものです。
 直筋でお会いしたのは、数年前に南円堂高北円堂高のお披露目の際に訪れたとき、後方でんででのことだ。次はいつ?  

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2017年01月12日

仏さんに惚れ込んで。。。39 三十三間堂千手観音坐像

 三十三間堂(蓮華王院)は何度訪れたか回数はもうわからなくなっているが5〜6回くらい入っていはず。最初は、たぶん大学の古美術研究旅行ではないかと思う。その前となると、記憶に残ってないから、遠足などで京都に行っても訪れることはなかったのではないかと思う。
 大学を卒業してから、大阪に就職したこともあって京都にはよく出かけているから、たぶん5年の大阪生活の中で何度か入っていると思うが、これも記憶にない。とはいうものの、ここに行くと必ずと行っていいほど毎度驚くことになる。なにせあの1000体の千手観音がびっしり並んでいるのは、もう何度見ても驚きなのだ。
 その千体の千手観音の中央にどんと座っているのが、この三十三間堂(蓮華王院)の本尊。実は、この本尊の後ろにも千手観音立像があるということで千体仏ではなく本当は千一体仏なのだそうです。あんまり気にしてないですが。

 大抵は、千体の千手観音に圧倒されて本尊を見落とすことがほとんどで、本尊の記憶がどれだけあるかというと、大変申し訳ないけど、印象は薄いのは確か。それでもあの像高3メートルの巨大な千手観音の坐像は、迫力がある。でも、千体の千手観音に飲み込まれてしまっているかなぁ。。
 
 これを書くにあたって、京都の千手観音で国宝がどれくらいあるかって調べたら3体しかないあんでうすね。これにはちょっと驚きました。もう少しあってもいいかと思っていただけに。
 さらには、千手観音坐像で国宝となると、大阪藤井寺の葛井寺のものとこの三十三間堂のものしかないってことも驚きだった。まぁ、千手観音の坐像自体がそんなに多くないからかも。


 千手観音坐像は、この三十三間堂の本尊で作者は湛慶、さすがに慶派の流れが完璧に現れていると思う。なんとなく、冷たくも感じるけど、見る位置によって違うこともわかる。本来はどの位置で見るべきなのか?たぶんに本隊の前すぐ下に座れば、あの切れ長の目が優しく微笑んでいるかのように見えるかもしれない。しかし、そんなところに座るなんてこと考えたことなかったから、なんとなく切れ長の目が釣り上がって見えていたのだろうと思う。

 ここのところ長く、多分10年位いってないのでいずれまた行って、今度は、出来るだけ前に行き下から見上げてみようと思っている。  

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2016年12月17日

人はなぜ仏像に手を合わせる?

 私は昔から寺を訪れる機会が多い。子供の頃はたいして寺に行くこともなかったが、中学校に入ってから遠足などで寺巡りをすることが多くなった。そしてそれは高校までの6年間続いた。さらに、大学に入って、仏像を古美術としての観点から寺に行く機会が結構あった。
 仏像を見る機会は、何もて寺に行くだけではなく仏像を一堂に集めた展覧会に行く機会も多かった。確かに中学高校は宗門の学校だったこともあるが、多分にそれだけではない何かが心の中に流れていたのかもしれない。

 高校の時だったか、何かの展覧会で仏像がたくさん並んでいた。その展覧会を学校の行事で見に行ったのだが、恩師がある仏像の前でなにかブツブツ行っておられた。そのぶつぶつはその仏像の前だけではなく、並んでいる仏像一つ一つに向かって発せられていた。多分何かの呪文、いや念仏なのだろうが、とにかくブツブツ発せられていたのだ。それを私は不思議に思うことなく、さすが僧侶だと思ったものだが。
 この恩師は、かなり先に学園長になられた方で、岡崎の某有名な寺の管主にもなられて肩でもある、つまりは僧侶なのだ。とにかく学校の先生の多くがお寺の住職、住職でなくても僧侶であった。そして週に最低1時間は何らかの法話を聞くことになっていた。それがいろんな形で私の心に根付いてしまったのだろうし、そのおかげで寺ああ、仏像には岩違和感がなかったと言える。それが元になったのか、教会などにも違和感はなかったなぁ。。。。

 さて、本題、人はなぜ仏像に手を合わせるのか?
 多くの方は、例えば浄土宗や浄土真宗の信者の方は阿弥陀仏の前で「南無阿弥陀仏」と唱え(念仏)ながら手を合わせる(合掌)だろう。これは、その目の前にある阿弥陀如来像に手を合わせているのではなく、信仰の対象としての阿弥陀如来をかだ取ったものに対して、代替えの合掌であり念仏の筈である。しかし、一部には、その仏像そのものに念仏をし合掌している人がいる。これは、本来違っていると思う。それでは偶像崇拝になってしまいからだ。

 私の場合は、仏像の前で手を合わせる。しかし、念仏を唱えることはまずない。なぜ手を合わせるかといえば、それは私の目から仏師の心が入って来たと思った時に手を合わせる、もしくは信仰の対象ではなく素晴らしい造形物として感じとった時に、作者の仏師の心に対して「素晴らしいものをありがとうございます」という意味合いで手を合わせている。
 ただ最近、そうだなぁ、親鸞研究で阿弥陀如来について色々知ることになって、「阿弥陀経」に書かれた考えに惚れ込んでしまったのか、法界寺の阿弥陀如来の前などでは、ついぞ「南無阿弥陀仏」なんて心の中で言ってしまうことが出て来た。仏の存在を信じ、仏の救済を信じているのではないし、仏に助けを求めているわけでもないのだが、なぜかそう言ってしまう様になった。
 これは、法界寺の阿弥陀如来に出会ってからのことなのはよくわかっている。最初の出会いの時に、あの丈六の大きな阿弥陀如来像の顔を見上げた時に、「来てよかったぁ」と思ったことが引き金になったことは確かだなぁ。
 
 何につけ、その人にとって、なにかほっとする様なもの、何か心が軽くなったと思う様なものに出会うと、自然とそう言ったことになるのかもしれない。

 このひと月半の間に、「仏教とはなにか」という講座を聞いたりしたこともあって、こんな思いをつらつらと書き綴りました。お読みなられた方が、何かほっとするものに、それが仏像であっる必要はありません、とにかくほっとするものに出会われることを祈っております。
  

Posted by 生田 at 10:52Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年12月15日

仏さんに惚れ込んで。。。38 法隆寺 釈迦三尊

 法隆寺、ここは日本の仏教の原点と言われているので、何かにつけ取り扱われる寺だけど、やはり私あも取り上げなくてはいけなくなる。これまで、百済観音と救世観音を取り上げたけど、やはり原点は”釈迦三尊”ではないかと思う。


 飛鳥時代623年の止利仏師の作と聞いている。止利仏師といえば、飛鳥寺の大仏と同じ作者なので、当然のごとく同じような雰囲気のお顔だが、いくぶん和らいだかなぁ。。でも、笑顔には遠いか。
 金堂は、法隆寺の中心的な建造物で、何はともあれ、この寺の中心、つまりこの釈迦三尊が本尊ということになるのだろう。この金堂は、昭和24年に火災にあい国宝の壁画を失っているがそ
の火災でも幸いに釈迦三温は消失を免れている。とはいうものの、過去に数度の火災で、背負い室は免れて入るものの損傷を受けているらしい。しかし、大筋創建当時の雰囲気を保っていると言われている。(創建当時はどんなだっただろう、金ぴかだったのだろうか?)
 
 日本の仏教において、多くの宗教家が法隆寺回帰をしている。まずは原点の聖徳太子に帰るということのようだが、それがどのように影響して各宗派にいかさているのか、となるとかなり難しく、私には疑問が残っている。
 親鸞研究の中で、親鸞が法隆寺に来ていし、夢の中で聖徳太子の示現を受けているのだが、ついぞ仏像が出てこない。私の知識の中で宗教家たちがこの金堂の釈迦三尊について云々したという情報がない。なぜ?文京の原点というのならば、なんらかの思いを述べてもいいように思うのだが。私の読むものの範囲が狭いから、知らないだけなのだろうなぁ。

 目下私が木彫りをしている円空も法隆寺に来て、かなり大きな影響を受けているのだが、その影響に見えるものは釈迦三尊ではないんだなぁ。救世観音を筆頭とする同性の観音像なのではないかと思う。中には蔵王権現もあるのだが、これは仏教の原点とはかなりかけ離れているし、円空の場合は多分にその造形に興味を覚えたのではないかと私は思っている。
 確かにあの救世観音の衣の襞は、造形的には面白いものだよなぁ。その一方で、この者k三尊は、造形的には面白みに欠けるような気がする。

 私は学術論を書くつもりもなしし、美術論を書くつもりもない、ただただその寺仏像について思い立ったことを、書いているときそのときに重たい立ったものを書いているに過ぎないので、色々語弊があるかと思いますが、御容赦のほどを。  

Posted by 生田 at 17:14Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年12月10日

仏さんに惚れ込んで。。。36 栃木県真岡市 専修寺 親鸞像

 タイトルを見て「仏像でない」と言われそうです。確かに仏の像ではありませんし、無着、世親、鑑真のような有名な像でもありません。しかし、人物そのものは多くの人に知られ、日本人ならまず知っておいでのことと思います。

 まずは、寺の名前。栃木県の現在は真岡市に合併されている高田にある浄土真宗高田派の寺院です。私はここを2度訪れています。いずれも親鸞研究のためですが、最初は何も訳がわからない状態でナビのない車で1日かかりで名古屋から強行のドライブだった。そのときは寺の境内に足を入れただけで、何も見ずに益子に行ってしまっている。
 2度目は、一人でこれも1日で名古屋からのドライブだったが、到着が夕方で寺は閉門ということで真岡駅近くで宿泊し、翌日の朝のお勤めの時間に来るようにという当時のご住職の指示に従って出かけた。そして、朝のお勤めの際に、普段は見ることができないが、お勤めのときと特別拝観の時にだけ見ることができる親鸞像を、正信偈や三部経の読経の中、私はそれらを耳にしながら親鸞像をじっと見つめていた。
 正直暗いお堂だし、大体が黒くなっている像はどんな姿だったのかわかってはいない。ただ、なんとなく今まで見てきた親鸞像とはちょっと違ったかなぁ。何がどうと言われると困る。何せ細かいことは何もわかっていないのだから。ひょっとしたら三部経の読経の中で初めて見たのだから、違って見えたのかもしれない。京都の両本願寺にも他の本山にも御影はあるが、あまり近くでは見えないこともあるけど・・・・それでも何と無くイメージが少し違ったような印象だ。

 実は、親鸞像を間近で見ることができるところがある。上越市居多ケ浜にある親鸞記念堂の見真堂にある親鸞像だ。似てはいるがなんとなく違う。こちらはかなり新しい製作時期だと思うが、専修寺の方は江戸時代の寛永の時の作だそうだ。(現在専修寺の像は、栃木県の重要文化財に指定されている)
 親鸞像はあちこちにたくさんあるようだが、そのモデルは一体どこに?親鸞の生存中に親鸞像が作られたとは聞いていない。ただ、親鸞をモデルにした画像がいくつか残されている。特に有名なものに「安城の護衛」というのがある。安城の護衛は親鸞がかなり歳をとっている像だが、その画像から年齢を若くした状態を想像して作ったのだろうか?
 まぁ、仏像というのは、祈願した人の想いを込めて、仏師が彫りあげるが、親鸞像は最初に製作した時の施主が誰だったか?それがわかると面白い研究でもできるかな?

 とはいうものの、少々気になることもある。
 この専修寺は”高田派”であるが、高田派の創建は真仏が中心なのだ。一方で東西本願寺は親鸞の血筋を引き、新蘭の墓を寺にして本願寺としたのだが、これに高田派猛烈に反対したという、いわば反本願寺的な存在だった。
 本願寺は、そもそも前に書いたように親鸞の墓守だったのだが、蓮如がいろいろ力を蓄えてとんでもない宗教集団にした。その影響で他の真宗教団も本願寺流のものが多く取り入れられているらしい。(その際たるものが「正信偈」の唱和と聞いている)ということで、本願寺のどこかの時点で親鸞像を製作して、それがあちこちに類似のものを作るようになったのか?と思ったりもする。だから似ているのではとも。

 現在において、親鸞像のみではなく、法然、日蓮、とうとう、鎌倉仏教の教祖たちの層があちこちにある。どこかの時代の流行だったのかもしれないなぁ。。。  

Posted by 生田 at 21:36Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰
  
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