2016年12月10日

仏さんに惚れ込んで。。。35 法華寺 十一面観音菩薩

 法華寺は、位置的には東大寺の真西にある。東大寺の転害門の信号交差点を西にまっすぐ行くと法華寺の境内に入り込みます。と行っても、塀の外ですが。そこに駐車場があったと記憶してます。距離はちょっとありますが。。。
 転害門は、あまり登場することのない門ですが立派な門です。今はこの門からは入ることはでき買ったと思います。もう20数年位前に近くのペンションに宿泊した折に、朝早く東大寺境内を歩こうとした際に前を通ってます。それに名古屋から法華寺に車で行くときは、伊賀上野(現・伊賀市)で名阪国道を降りて木津川沿いに西に行って東大寺裏から行くと、この交差点を通過することになります。

 法華寺は、東大寺が全国の国分寺の総代であるのと同じで、同じ亜的で作られたということで尼寺の総代ということと教えられています。その割には、東大寺に比べると規模はものすごく小さいですが。創建当時は、そう行った女性が軽んじられていたのだろうなぁと思うのですが、聖武天皇の皇后・光明子の発願によるもので、正式名称は「法華滅罪寺」というのだそうです。

 この法華寺は3度訪れています。最初は、これまでなんども書いてきた、大学の古美術研究(通称・古美研)の際に、真夏のものすごく暑い日に訪れています。2回目は、正直は悪鬼rとした記憶がないのですが、3回目は大学の教え子たちと訪れています。
 法華寺ではやはりメインとしてみることになるのは国宝・十一面観音だろうと思います。拝観は近くまで行けないし、それに畳の上(だったと思い)で下から見上げる状態ですが、私の記憶にあるのは、なぜか口をへの字に曲げたしかめっ面をしたお顔なのです。
 そういえば、十一面観音が微笑んでいる顔ってないなぁとも、今思うのですが、なぜ微笑んでいないのだろうと不思議な気持ちでいます。
 仏像は、大きいものは特にですが、下から見上げる形になるので、目は釣りあがり、口は笑みを浮かべるように口元は上に向く感じになるはずなんですが、この十一面観音は像高1メートルくらいなのでそんなに大きくはないから、本来は正面から立ち姿で、目線を合わせて見ると微笑んで見るのかもしれませんね、
 左の画像は、そんなイメージのものを探して載せました。これでもまだ”への字”かなぁ。

 仏像の顔は、結構時代的な流行があると思うけど、この像は平安時代の作なので奈良時代の流行とは違う・・・創建時に十一面観音はあったのか?あったとしたら、どんなお顔だったのかと、興味津々ですね。  
タグ :法華寺

Posted by 生田 at 13:37Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年12月08日

仏さんに惚れ込んで。。。34 唐招提寺 鑑真和上坐像

 唐招提寺は、何度訪れたかな?中学校の時、例の中宮寺の半跏思惟像に初めて出会って惚れ込んでしまった時の遠足で、その時に訪れたのが最初かと思う。そのおとづれの前に学校で予備知識を持たそうと映画を見せてくれているが、その時に唐招提寺もあり、きおくしているのはおばあさんがいて猫と暮らしていたというシーンがあった。当時の名物おばあさんだったとか。
 その時に仏像を見ているはずなのだが、何の記憶も残っていない。中宮寺の後に行っていれば残らないのも当然、それにその直前に薬師寺に行っているから高田好胤さんの印象も強かったせいだろうが、唐招提寺の印象は薄くなってしまったのだろう。
 2回目は、大学の古美術研究旅行の時だと思う。その時の記憶は、なぜか大日如来が金堂の隅にあったと記憶しているのだ。あの金剛界の中心仏の大日が金堂の片隅にあったんです。記憶では右端だったかと。もう50年も昔の話です、記憶違いかもなぁ。。
 そして、その時に鑑真和上には? 実は記憶にないのです。あれだけ有名な像なので記憶に残っていないということは、その時は拝観できない秘仏扱いだった可能性が高いです。
 その時出会っていたら、どんなイメージを持ったことだろう?その旅行ではものすごくたくさんの仏像に出会っているので、出会っていても覚えているかどうか・・・・


 それから2度訪れているはずだが、鑑真さんとは一度お会いしているが、いつだったかの記憶が戻ってこない。多分にいつからか特別拝観ができるようになって、その特別k配管の時に行ったのだとは思う。が、正直、出会わない方が良かったかも。前回の無着・世親兄弟の時のように表面処理が崩れてしまい、特に目の周りが何だか変に色が違って、クマができているみたいだし、鑑真さなんそのもののイメージがわからなくなってしまっているから。
 日本に、本当の仏教。「戒」を教える仏教を伝えた人なので、今の私には絶対に必要な歴史上の大事人物といえる。

 唐招提寺は、平成の大修理で大きく変貌した。正直昔の風情は全くないと行っていいくらいに変貌した。新宝蔵ができてその中に多くの寺宝が収められたのは、拝観する人間としてありがたいことだが、寺全体のイメージが昔と違って、仏像自体飲み方まで変わってしまい、残念に思う。今更昔にに帰ることはできないが・・・・  

Posted by 生田 at 19:27Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年12月07日

仏さんに惚れ込んで。。。33 興福寺北円堂 無着・世親立像

 仏像についていろいろ思いを書いていたらもうこれで30回目になってしまった。最初は本当に惚れ込んだ3体の仏について書くだけのつもりスィタのが、それだけではつまらなくなって、これまでに出会った仏像への想いを書き綴ってきた。中には苦手なものもいくつか書いてきた。


左が世親、右が無着だそうで
画像は興福寺のページのものを拝借

 今回取り上げた興福寺北円堂の世親・無着の2立像は多分2度あっていると思うけど、記憶では一度だけ、数年前に北円堂だか、南円堂だかの改修工事か何かの完成特別拝観か何かで訪れた時の記憶だ。

 北円堂には、多くの国宝が収められている。収められているのではなく、祀られているというのかな?下が北円堂の中央の仏像の配置です。こんな小さいお堂にこれだけの国宝があるということ自体が素晴らしいのだが。。。
 中央には弥勒如来が鎮座しています。この弥勒如来についてはいずれまた。その弥勒如来の両脇侍として無着・世親の立像がある。いずれも木造で、運慶の門下の運助と運賀の製作とのこと。この当時の慶派の流れそのもので、かなり写実的で、まるで生きているかのように見えます。おそらく製作直後は人間と見紛うほどではなかったかと想像する。


 実はわたしは、無着にはあまり接点はない。一方の世親は、親鸞の正信偈にも登場する菩薩さんである。浄土教の教えの中では重要な人で、菩薩として扱われているから、名前はよく知っていた。(実在した人物が”菩薩”と言われる乗っだから、仏自身が人であるということで、キリスト教などの”神”とは存在の意味が違う)
 浄土教、私には浄土宗と浄土真宗の中で、特に真宗の親鸞の書いたものに出てくるというだけでどんな人物だったのかと結構興味を持ったものだ。
 とはいうものの、この二体の立像を見て、やはり表面の処理が経年変化で落ちてしまって、人間に近いだけに余計に不気味に感じる。私は、この人物に近い姿で表面が朽ちているものが苦手で。。。多分にそのままの姿を生きた人物としてイメージしてしまうからだろうと思っているのだが、とにかく苦手な姿だ。
 
 苦手は苦手、でも今の私には必要な菩薩さんかな。信仰という意味では心底仏の教えを信じてすがるという人間ではないが、ただただその教えの中に生きる道筋があれば、それを実践してみるのいいと思っている。
 これは何も仏教の教えだけではなく、キリスト教の教えの中でも同じことを思っている。だから、旧約聖書の「伝道の書」にある
  第3章
3:1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
3:3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
3:4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
3:5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
3:6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
3:7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
3:8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

 なんていうのは、もう50年もお付き合いしている生き方かなぁ。。。

 話が逸れたけど、世親のといた論が浄土教の基盤になっているのだろう。細かいことはわからないが、親鸞はそう思っていた、そう教えられていたのだろう。それについては、私ま信じるよりほかはないか。。。

 いつかまた訪れた時は、ジックリと顔を見せてもらいたいと思っている。  

Posted by 生田 at 12:00Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年12月04日

2016年11月日帰りドライブ 12 華厳寺 1

 チョイと長いトンネルを抜けた。その時に思ったことは、そのトンネルもあのマシンで作ったのか?どうセミいいことだけど、昔々シールドマシンの設定に関係していたんで、やはり興味はあるわなぁ。。。。

 それからしばらくすると、見覚えのある交差点にきた。数年前、正月の初詣に行くとこないかって、思案した上にちょいとドライブルするかって華厳寺までやってきたのだ。正月で混み合ってたなぁ。なんてことはもう頭から消えてる。それにどんな寺だったか、あまりにも似たような寺を沢山訪れているだけに正確なものが頭の中に出てこない。ただ、この交差点から山門までが結構歩いたような記憶があるなぁ。

 上の写真は、帰り道のレコーダーの画像ですが、向きは華厳寺を背中にしてますが、参道の様子はわかってもらえるかと思います。この画像の右側が公営?の駐車場で400円なり、左側には施設の駐車場があって300円なりです。わたしはこの日は施設の方に、なぜか入ってしまいました。昔来た時は公営の方に入れてますが、今回は公営の駐車場で何かイベントをやっている感じだったので避けたと言ってもいいかな・・・

 車を停めて、参道の緩やかな坂を登っていきます。まぁ気になるほどの坂ではないです。参道の両側にはたくさんの店があります。食べ物や、お土産や、果物や、なんやら訳のわからないみせも、帰りに買うものをちょいちょい物色しながら歩きます。でもね、薄暗いんですよ。山の冬の日暮れは早いなぁって、ここでも思わされて。

 左の写真は、山門に行き着く前のものでこんこんさんの赤いよだれかけが気に入ってショットしたんだけど、背景の屋根は白く光っているけど、気が鬱蒼としているので歩いているところは結構薄暗く感じるんですね。と言っても夜じゃぁないから。。。。
 
 こんなか感じの明るさなので、紅葉を見るのはてしてないよなぁ。紅葉は燦々と降り注ぐ太陽に素で見るのが色が綺麗なんだよなぁ。でも、しょうがないよね、立ち寄る予定してなかったのを「時間がありそうだから寄って行くか」ってよったんだから。

 本堂に来ました。そしてお参りして後ろを振り返ってのショット。色づいてますが、時間が遅すぎますねぇ。。。このショットは3時半です。名古屋ならなぁ。。。。

 さてこれから帰り道、参道の本堂を背にして右側の建物のあるところ、参道を離れた後頃をしばらく歩きました。下の写真はその一部です。


 さて、次回が華厳寺の最後です。そしてそのあとは、名古屋迄のドライブです。  

Posted by 生田 at 20:29Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年12月03日

2016年11月日帰りドライブ 11 華厳寺へ

 横蔵寺で想定外のミイラ=即身仏とのご対面があって、なんか苦手なものに出会ったなぁと言う思いを持って外に出た。時間は3時くらいだけどなんだか暗く感じた。山の中は日が暮れるの速いものなぁ。では、帰ろうと車をくるときの道を逆に走り始めた。
 そのときのレコーダ0の画像が残っていないかと探したけど、府すぎなことに、横蔵寺から華厳寺までがない。どうも上書きされてしまったらしい。なんで?その前と後はあるんだヨォ、なんで途中がないのだろう?レコードの上書きのシステム解析したい。。。ブツブツ

 来た道の最後のT字路だったところをくるときとは違って、直進した。そしてしばらく走ると
右側にほろい土地になんだか面白い機械が並んでいる。半円形だったり、円形だったり。どう見てもトンネル掘削マシンだ。なんでこんなところにトンネルマシン、一部はシールドと呼ばれるものだけど、なんでだろう????なんて思いながら走っていった。
 ここは、レコーダーの画像を入れたいところだたけど、残念ながらないのでGoogleEarthの画像を入れさせてもらいます。写ってるんですね、そのマシンの一部が。

 この写真の大きさではわからないけど、右下とひらり上の角に半円形のものが写ってるんですが、完全にトンネルマシンだと思います。ここは岐阜工業という会社の資材置き場で、会社はトンネルマシンを作っているとネットで見ました。

 これを通り越して、しばらくするとちょっと長いトンネルがあります。ひょっとしたらあのマシンで掘ったのかもなぁなんともいながら。そしてその先左側に道の駅がありました。
 ここで、名古屋から来たバイクのカップル(それぞれ別のバイクでのツーリング)にでいましたが、なんでも北のほうから降りて来たってことでしたねぇ。。かっこいいお嬢さんでしたよ。

 ここで、ちょいと腹の足しになるものを買って、トイレ拝借して、帰り道の途中の谷汲山華厳寺に向かった。
  ちょいと長いトンネルを抜けた。  

Posted by 生田 at 16:59Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年12月02日

2016年11月日帰りドライブ 10 横蔵寺5

 横蔵寺の寺宝のある瑠璃殿を出て、もう一つの建物「舎利堂」に行く。拝観料は共通の300円をもう支払ってあるので・こちらで払うことはないのだが、瑠璃殿で払った時に2枚の券をもらった。舎利堂に入って見せて堂内を見ていたら、女性がすっ飛んで来て「一枚を回収する」と言って、なんか知らんがすごい剣幕で1枚をひったくって言った。それを回収しないと誰かにそれをあげると入ってこれるとでもいうのか?それなら、先に払った時に言えばいいんだよ。怒ったように取り上げることはないともう。
 それから、ついでに拝観者が注意すべきことというか、嫌な思いをするかもしれないということを書いておこう。朱印をもらおうとすると、だいたいが一つ書いてもらうと300円、2つ書いても裏かどうかは拝観者の自由だと思うのだが、この横蔵寺はすでに書かれた朱印の紙を2枚セットでしか販売していないらしい。1枚でいいのになんで2枚もいるんだ?日頃あまり拝観者がないから、このサイトばかりに売ってるの?」って言われそうだぞ。

 さて、この堂の中は、ガランとしてます。真ん中に小さい祠がある、その中に何か祀ってある。近くに行かないとわからないので生きました。仏像でもあると思っていたのだが、暗くてよく見えていなかったが、じっくりと目を凝らして見るとなんとそこには”ミイラ”が安置されているのだ。いわゆる「即身仏」である。初めて見ました。この世に存在するのは知ってましたが見るのは初めてだった。厳しい断食修行の果てにお亡くなりになられたんです。
 パンフレットの写真載っけようと思ったけど、あんまり気持ちのいいものではないので、説明文をね。
 
 修行は、いろいろあります。なんでも、悟りをイラクために修行されるのだとか。では、悟りはなんのために開くのか?非常に難しいはないで、お釈迦さんは悟りを開かれてそれからいろいろ説法されたんですが、お釈迦さんの場合は、悟りを開かれるために修行はされたが、死んではいないのです。死んでいないから、この世の人に自分の悟ったことを伝えることができるんですね。ところが、このミイラになってしまった人は、死んでしまったので、死=涅槃と一般に言うけど、死んでしまったら、本当の意味で悟りを開いた”涅槃”の意味にはならんのではないか?
 涅槃は、今では”死ぬ”ことを意味しているようだけど、本来は”悟りを開く”こと。でも、悟りを開いても、この世に村zないしないと、どんな悟りを開いたかを伝えることができない。だから、死んでしまうような修行は、私から見たら無駄なことと言わざるを得ない。
 信者の方からはお叱りを受けるかもしれないが、仏教の教えの中兄出てくる涅槃は死ぬことではないと思うよ。子供の頃からいろいろ仏教の教えを受けて来ているけど、どうもこの”涅槃”が違い見にしか教えてもらっていないように思う。

 人は、死んでしまったら、それで終わりです。思いを語ることはできないのです。仏像は何も言いませんが、仏になるのはいいとしても仏像になっては行かんのです。生きて語ってこそ”現世往生”で生き仏になって、悟りを語ることだと思います。
 厳しい修行された方を腐すわけではありませんが、お亡くなりになったのは、行き過ぎではなかったかと思います。手を合わせるのは、お亡くなりになって、無念の気持ちを少しでも和らげることができれば、、、と言うような意味です。

 舎利堂は、このミイラさん以外みるもはどうかなぁ。。。。。。覚悟してお入りください。

 さて、これでみるものは終わりました。車に戻って帰り道です。遠いなぁ。。。。  

Posted by 生田 at 20:46Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年11月28日

2016年11月日帰りドライブ 9 横蔵寺4

 横蔵寺には拝観料を払って見るところが2つある。一つは文化財が収められている「瑠璃殿」、もう一つは「舎利仏」が安置されている「舎利堂」がある。両方の建物セットの拝観料は300円。高いのか安いのかは人によって変わると思うけど。

 最初に瑠璃殿に入りました。入って拝観料払って、中を見たとたんに、お〜〜〜〜〜〜ぉ重要文化財のオンパレドだぁ。とにかくすごい。写真でしか見ていなかった文化財がここにあるのだ。知って来たわけではないので、来てよかったぁ。。。でした。
 しかし、近くに寄って見ても、通常どこでも文化財の前には「国指定分かぁ位」なんてことが書いてあるんだけど、ここにはそんなの見当たらなかった。不思議に思って受付にいた女性に聞いたら、「全部国指定の重要文化財ですよ」って返事。ナラ書いておいてやれよ。知らない人はそのまま通り過ぎてしまうぞ。私はなんとか写真の記憶があったので、わかったようなもの。
 それにしても、この辺鄙なところにこれだけの文化財があるとは、それも結構有名な。

 最初に接するのは、金剛力士。倒れそうなんです。後ろから支えてもらってます。じっさいは倒れないそうなんですが、倒れた時のことを考えて支えてあるんだそうな。実は、ここの横蔵寺に入って来た時の仁王門に本来はあるはずなんだですが、今は寺宝ということでこちらに収まってます。
 それからそれから。。。。。。私の苦手な大日如来。胃がてのはずが、この大日さん、そんなない嫌いじゃぁないわ。小さかったからかな?この大日如来は、平安末期の制作とか。金剛力士は定慶の作との銘があるとのことで、これも平安末期。ひょっとしてこれも定慶?立派なものです。
 まぁ、創建当時はかなり立派な、壮大な寺だったとのことで、それなりにかけをかけることができた事情があり、それなりの仏師を集めて制作されたんだろうと思う。まぁとにかく何にしても来てよかった。他にも薬師如来坐像、四天王立像 、十二神将立像、深沙大将立像、毘沙門天立像なんてのが結構古い年代のものも多くある。仏像に興味のある方は是非一度。


 結構時間かけて見ましたが、年のせいですねぇ。。。記憶からどんな姿だったか消えて行ってます。まぁそのために文化財の画像データベースをちょこちょこ作ってるんですけどね。

 さて、ここを出て次の舎利堂に向かいます。何があるのか知らないのです。。。  

Posted by 生田 at 21:43Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年11月23日

仏さんに惚れ込んで。。。32 東寺 大日如来

 京都の東寺、正式には教王護国寺は世界遺産でもあり、有名すぎて解説するなんてのはおこがましいですが。。。
 解説するつもりはありませんが、印象だけは書かせてもらわねば。。
 当時には何度言ったかな?記憶では木美術研究旅行で入ってない等な気もするが。。。行っているかもしれない、行っていたとすると余程記憶に残るだけのものがなかったということになるかと思う。だいたい50年も昔の記憶に残っているということは、かなりなショックがなければならアナいと思うのだ。20代での古美術への思いと、70代になってからの思い出はかなり違ったものになっているだろうから、当事記憶に残っていない可能性はかなりあるかと思う。
 ただ、わたしの仏像に関する思い出に残るショックとなったものは、中学校の時が一番だったかもしれない。中宮寺と薬師寺でショックにあってそれから次のショックはもう50年近く後になってしまったのだ。その間何を思っていたのかと自分でも不思議に思う。

 東寺の仏像群、正式には羯磨曼荼羅(通称・立体曼荼羅)は弘法大師空海が眞言の教えを衆生にわかりやすく表現するために編み出したものだと聞く。この眞言の教え自体が、兎に角難しいものなのだろう。佛教ってこんなに難しいものと思わされることのようだが、底までしないと仏は衆生を救うことができないというのだろうかと疑問にさえ思うのだ。
 まぁ、難しいからわかりやすいように視覚表現してくれたんだと思うのだが・・・

 この曼荼羅の中央に座するのがわたしの苦手な大日如来である。眞言の教えでは、この世界(仏の宇宙)の中心は大日如来だとしている。わたしの過去の教育の中には眞言は出てこなかった、だいたい浄土教の中で育っているから阿弥陀さんくらいしか登場しなかったのだが、眞言の寺に行ってそこでは杰mて大日如来に接することになる、しかし、それはわたしにとってはただ単なる違和感でしかなかった。
 なんやら変な印を結んで(昔の時代劇で忍者がやるやつだ)、威張った顔して、キンキラキンの宝冠つけて。。。仏さんって親しみを感じるものと思っていただけに、違和感だよなぁ。。。

 記憶にある東寺の拝観は、じつは数年前、とっても15年くらい前になるかな。一人で京都に行って東寺でも行ってみるかと出かけて、講堂に入り込んでびっくり仰天、圧倒されてしまっていたためれなくなったのだ。これがショックでなくてなんだ。。。
 ショック、ショック、兎に角たくさんの仏が、しかもかなりでかい仏がいっぱいわたしを見下ろしているのだ。正直恐ろしく思ったものだ。
 実はもう一つの大ショック、曼荼羅のデカさのショック以上にのショックは、阿弥陀如来が隅っこにいたこと。最初はどこに?と思ったくらい。わたしの仏の世界の真ん中は阿弥陀さんだった。それが隅っこに・・・・これがショックでなくて。。。
 左の写真には、手前が阿弥陀如来で奥の上の方に大日如来が鎮座しているのだ。

 それが記憶に残る最初の曼荼羅の中の大日如来との出会いでした。それから2回訪れているが、2回目の一人で行った、確か五重塔の中を見ることができるという時だった。その時にも講堂に入ったが、その時は最初とは全く違った印象になっていた。立体曼荼羅も威圧感なくあ見ることができたのだ。なぜそうなったかはわからない。ひょっとしたら、心に受けて耐えられるものができた?まさかぁ。。。。。。。。

 この大日如来は、創建当時のものではないと聞く。一度火災で焼失したので江戸時代の仏師・康珍が作ったものが今のものだと。それにしても全体のちょうっを崩さない作りになっているなぁと、おもうのだが、ひょっとして他のも同じ時代に作り直し?仏師の資料が見つからない・・・・いつか探し出そう。  

Posted by 生田 at 19:59Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年11月22日

仏さんに惚れ込んで。。。31 飛鳥寺 釈迦如来坐像

 飛鳥寺の釈迦如来坐像、通称飛鳥大仏というのだそうです。最近はそういう言い方をするんですか?
 私が訪れたのは、大学の古美術研究旅行(古美研)のとき1度だけである。それ以降いきたいと思えどもなぜか50年以上行きそびれている。仕事の担当エリアが奈良だった時代もあり、桜井に取引先があったんだから、立ち寄ればいいもにもを。
 古美研で訪れたのは真夏、7月のことである。明日香に行きながら、なぜか石舞台には行っていないのである。他のグループは行っており、当時は石舞台の上に上がることができたらしく、一番でない石の上にわたしの名前が書いてあったと注意をされて記憶がある。行ってもいないのにどうしてかけるっていうんかって、反論したんだけどねぇ。。

 そんな余談は放っておいて、飛鳥寺。今はどうなっているのか知らないが、テレビなどで見る限り、昔とはかなり雰囲気が違ってないかぁ?昔はひなビラ本堂がポツンとあっただけという記憶なんだけど、テレビで見る今はきれいに整備されているよなぁ。
 しかし、ご本尊の釈迦如来坐像には変化はないのだろう。あのド〜〜〜〜〜ンとした顔は永久に変わりはしないだろう。あのいわゆるアルカイックスマイルというやつだ。昔だから、技術がなかったからアンナ顔であんな表情なのだと言われている。本当だろうか?法隆寺の釈迦三尊も同じ顔である。技術がなかったのだろうか?
 同じような時代に作られた百済観音などはそんな表情ではないと思う。まぁもっとも百済観音の出自は定かでないところがあるらしいが、それでもあまりにも違いすぎていないか?絶対に技術の問題ではないと思うのだ。
 わたしは、技術の問題ではなく、その当時の一つの流行ではなかったのか?仏師は止利仏師と言われているが、止利仏師の作った仏像群はだいたいが同じ表情だと思うのだが、それか止利仏師の技術がないということではなく、彼の持つ感性の問題だろう。
 昔の作だから技術がないと評するのは如何なものかと思う。現代でも、例えばわたしの作品なんかは技術がないから当然スマイルもスマイルで無くなったりするから、べつに時代で技術を云々するのはやあ針無理がある。なぜ、美術史をしたり歴史をしたりする学者ささんたちはそう行った考えをするのだろう?

 わたしは、50数年前に行った時の記憶を呼び起こすと、ああの大仏さんは・大仏さんと言いながらさほど大きいとは思わないのは、今この歳だからかもしれないが、とにかくいろいろ大きな仏像をを見て行きているから、あすか大仏を大きいと思わないだけかもしれないが、当時の記憶でもそれほど大きいとは思わなかったと記憶している。

 それにしても、止利仏師はなぜあの表情を作ったのか?なんらかの意図があるのだろう。日本的な顔でない、ということは何処かの国の流れでの顔、表情なのだろう。Wikipediaを読むと、「中国北魏の仏像の様式の影響を受けた」とあるが、祖父の司馬達等が南梁の人と言われているから矢張り北魏の流れをしていて不思議ではないし、当然の技術、表情なのだろうと思うのだが。
 アルカイックスマイルと言われて、拙い表情なのか?アルカイックと評する人にはそう思う表情なのかもしれないなぁ。確かに、わたしが生まれて初めて仏像に惚れ込んだ中宮寺の半跏思惟像のあのえがおとは硬さが違いし、時代がうんと降った法界寺の阿弥陀如来とは全く硬さが違うことは確かだ。しかし、俺ぞれの仏像の表情は、施主の意向や物資の意向で作られるもの、古い時代や古い技術ということでの比較、区別は間違っているように思う。

 何につけ、もう一度行って見たいと思っているのだが、なぜその機会がないのか。もう一度じっくり考えて見るか。。。。。  

Posted by 生田 at 22:29Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年11月19日

仏さんに惚れ込んで。。。29 永観堂 見返り阿弥陀




 いま書いている秋、この時期になると必ずと言って良いくらい話題に上る寺の一つ、京都東山の永観堂(正式には”禅林寺”という)だ。何せ紅葉の色づきが半端ではなく、池の周りは風がなければ本当に一種の極楽、浄土を思い浮かべる人もいることだろう。


一昨年秋の上洛の際に撮ったもの

 この寺を訪れるのは何度目だろうか?言っているようで、余り行っていない気がするのだ。この寺は、浄土宗のてら、卒業した高校と縁の深い寺で、永観堂の隣には姉妹校の東山高校も存在する。なので、中学高校のと気に入っていてもおかしくはないのだが、当時行ったという記憶は全くない。知恩院には行っている。そして狩野派の障壁画を縁のある学校の生徒ということで特別に拝観した。そんな記憶があるが、永観堂がないところを見ると行っていないのだろう。
 たぶん最初に訪れたのは、大学の時に仲間数人と学校をサボって京都に行って、2日目かな、平安神宮あたりから東山に向かって行き、そこで永観堂に入り込んだのではないかと思う。私の記憶の中に、仲間たちと池ノ上の石橋で記念撮影したのが残っている。その石橋が永観堂の池ノ上のものではないかと、思っているのだが、定かではない。
 そのあとの大学の古美研(古美術研究旅行)では行っていないと思う。そのあとはとなると、もうつい最近のこと、いや10年くらい前になるかな?当時大学で教壇に立つことがあって、その時担当した学生たちとおとずれているが、そのときはやはり紅葉に季節で、見返り阿弥陀を拝観するのに1時間近く待たねばならなかったので断念した。
 そしてやっと念願が叶ったのは、一昨年久々に電車で京都に行った折に東山をな南禅寺から北に向かって歩いた際に、訪れた。時間的に早かったことと、平日だったことで、そんなに待つこともなく拝観でき、見返り阿弥陀立像にもお会いすることができた。

 この阿弥陀さんは、首をかなり難しく横に捻って振り返る姿をしている。なんでも僧・永観が行道念仏をしている時に須弥壇の阿弥陀如来が降りてきて、先導して歩き出し、立ち止まった永観を叱るように振り返りざまに「永観遅し」と行ったとか。
 だいたい阿弥陀如来の立像は、来迎を示す場合が多い。この見返り阿弥陀も来迎の目的で歩いてきたのだが永観に出会ってついておいでという感じかなぁ。これは永観はいいとしても、わたしらが阿弥陀さんについて行ってしまったら、浄土に着いたはもう帰れないわってことになるではないか。ワツァ日はそう思うから、念願叶って、見かえり阿弥陀さんに出会った時に「絶対について行きませんから、浄土には行きたくなったら一人で行きますので」と行ったものだ。近くのそれなりの女性が笑っておられたヨォ。

 この阿弥陀如来を進行を離れて見た時、どう行った評価を受けるか?現時点では国宝ではなく重要文化財である。これは、浄土教文化を日本の一時代を築いたものということの評価だと思うが、仏像の美的な面での評価と言えるのか?まぁ平安末期の浄土教隆盛の時に作られた真央あのだろうから、それなりの仏師の作であろう(私が知らないだけ)。この時代の他の阿弥陀仏と比較してどうか?マァマァ、すこぶるいいものとは。。。。。。

 何はともあれ、一風変わった阿弥陀如来ということで、是非一度お会いになってください。そして、紅葉もまた是非一度、話のタネには困らないと思います。

 ついでに、永観堂の前にうどん屋さんがありますが、結構美味しいですよ。(2回行ってます)  

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2016年11月16日

仏さんに惚れ込んで。。。29 新薬師寺 薬師如来

 新薬師寺は、春日大社の南にある。私が若い子と、大阪に住んでいる当時、春日大社から新薬師寺に抜ける道は、かなりやばい暗がりの森みたいなことを言われていた。今では通る人も多く、周りも開発されたのでそのような物騒なところではなさそうだが、まぁ時代ですねぇ。。。

 新薬師寺は、何度言ったかな?大学の古美研で行ったかどうか?うん行っている、あまり確かな記憶は残っていないが、行ってはいる。大阪に住んでいる時に1度か2度行った、そして名古屋に戻って来てから1度行っている。
 最後に行った時には、本当に珍しく新薬師寺に住みつている関われている猫に歓迎された。猫に歓迎されるのは本当に珍しい出来事なのだ。そう行った思い出はあるものの、仏像はとなると、何だか亜怪しい。この寺で有名なのは、いずれも国宝の薬師如来と十二神将だろう。
 私の頭の中には、最初に訪れた時の十二神将の記憶が、今少し蘇りつつ。他の人は何というかわからないが、私の頭の中ではこの十二神将は、東大寺戒壇どう(戒壇院)の四天王と同じような印象なのだ。割とリアル感じの表現は、恐ろしいほどに思う。
 こうした十二神将のイメージが思い出されるのだが、なぜか肝心の薬師如来はとなると、実際に見た時の印象が蘇ってこないのだ。わからない。。。。。あの当時は本堂の中はガランとして薄暗く、ほこりっぽく感じた。そんな中に塑像のグレーの十二神将が並んでいた。そしてその中に薬師如来がいたはずなのだが、それが目に浮かばないのだ。写真を見れば、新薬師寺の薬師如来ということはすぐにもわかる。そかし現実に見た時のイメージは思い起こせないのだ。
 
 



 薬師如来の写真を見て毎度思うことは、「何でこの仏像はビックリまなこなのだろう?」なのだ。私の目には、あの薬師如来の目は、出目金でじっと、ちょっとお驚きながら相手を見つめているという感じがしてしょうがないのだ。
 十二神将とは、かなり違った印象になるのは制作時代が大きく違うということと、十二神将が塑像であるのに対して、薬師如来は木造ということで、その肌から感じる違いが多いきい面もあろう。

 新薬師寺さんには大変失礼話だが、本堂自体は結構あれた感じがするが、その中において写真からくる印象は、薬師如来が際立って綺麗で目立っている。にもかかわらず、なぜ私の頭には実際に見た時の印象が出てこないのだろうかと不思議でならないのだ。

 ビックマナコ、それは私自身の代名詞みたいな字だがあったが、そんな共通のイメージなのに。。。。もう一度訪れて、確かめなければならないなぁ。。。。と、思うことしきりである。   

Posted by 生田 at 21:26Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年11月14日

仏さんに惚れ込んで。。。28 荒子観音堂 護法神

 荒子観音(正式には、浄海山圓龍院観音寺という)といえば、名古屋の4観音の南西に位置する寺で、ここにはものすごくたくさん(なんか笑点の景品みたいだ)の円空仏がある。ひょっとしたら数では一番多いのではないか?
 まぁ、円空さんが、荒子観音堂の仁王門に仁王さんを作った時にたくさん出る木屑=木端を使って千体仏を彫っているのだが、それの数が半端でない。それに大きさもとんでもない小さいものもたくさん彫っている。

 実を申すと、私が生まれて初めて円空仏に出会ったのがこの寺。私の生家から自転車で行ったのだが、15分くらいでその当時は行けたと思う。何せ50年も前の話で、荒子観音の周りは田んぼだったか畑だったかと思う。
 大学の夏休みの時に、まだ円空さんが本当にブームになりかけた頃だったかと思うが、美術雑誌で知って行ってみたのだ。その当時は、今のように特定の日(毎月第2土曜日)だけの拝観ではなくいつでも見せてもらえた。それもタダです。。。。。。
 私が行った日は、暑い日だったなぁ。。。寺について、(今の本堂ではないです)拝観をお願いしたらおくりさん(全国的には坊守さん)が案内してくれて、誰もいないところでじっくりと見せてもらえた。写真も思うだけ取って行けということで。。。。その写真、フィルム何処かにあるんだけどなぁ。。。
 この時、坊守さんが「本物は触ってはいかんが、レプリカなら転がそうが何しようが構わんからと、裏手にあるレプリカを出してくれた。プラスチックのレプリカ、今はどうなったの?本物から型を取って作ったと言っていた。だから、本物と全く同じだった。
 そのレプリカこそが、私が円空仏で最初に惚れた仏像「護法神」なのだ。

 なんとまぁ、摩訶不思議な仏さん。これまで見てきた仏さんのイメージとは全く違っている。造形的に見てとても面白いものだ。何か前衛的な彫刻を見ている感じで、そのときは仏のイメージを大幅に変えられたのと前衛的なのにしかなりなショックを受けたものだ。
 おそらく当時、私がデザインではなく彫刻なんかを選択していたらかなり影響を受けたことは間違いない。ただ、デザインを専攻していたが、私の根幹に流れるデザイン意識は「いらないものは省く」ということから行けば、この護法神はその考えにも通じるものがあったのは確かだ。
 とはいうものの、彫るという作業をしないことで、頭の中から消えた?なんてことはない。常に、円空仏というものは頭の中に残っていた。だから、歳をとって何かをしようと思ったの時に、円空仏を彫るというと以外には頭に出てこなかったし、最初に彫ったのが頭にここっていた護法神だった。ただ、後になって写真や本物を見た時唖然とした。記憶が全く違うものだったから。それから数年して、写真を見ながら挑戦したが、あの本物の持つ自然の木のウネリは真似しようなんてできやしない。せめて顔だけでもと思うのだが、今の私には、まだまだ無理だなぁ。。。。いずれ、挑戦しましょう。  

Posted by 生田 at 22:27Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年11月11日

仏さんに惚れ込んで。。。27 関市円空館 善財童子

 関市は、円空が生まれた(と言われているが、羽島市も生誕の地と言っている、どっちが本当かは知らない)土地で、多くの円空仏があると言われている。結構個人蔵の円空仏も多いらしく、すべての把握は難しいとも言われている。
 そんな中で、いくつかの記念館、博物館などに寄託されて、管理されているもの多い。そんな寄託先の一つに、関市円空館がある。この円空館は、関市の外郭団体が管理しているが、実質関市の管理だろうと思う。

 この円空館には、一部木喰さんの仏像も収納されているが、数は円空さんにはかなわない。その円空仏の中に、善財童子として存在する一説に円空時刻像と言われているものがある。
 まぁ見た目、じいさんが祈っているって感じがする像である。顔もなんだかしかめっ面して深刻な祈りだなぁなんて思ったりもするが、この像を見た時にはショックはなかったものの円空仏の祈りに姿勢の原点かな?なんて思ったものだ。
 左の写真は、関市円空館蔵の本物で、ネットから拝借

 今年に入って、何を彫ろうかと悩んでいる時に、ごきんの庭木の剪定のさいに出たけやきの太い枝があったのを思い出した。それで何かと思った時に、節で折れ曲がった枝が円空館の善財童子”にぴったりかと思い彫り始めた。彫り始めたのはいいが、もともと硬い木の上に数年乾燥させていたのでとにかく硬くて硬くてかなりしんどい思いをして彫った。
 しかし、硬いだけに思いっきりのみを叩くので、ちょっとだけ円空さんのあらあらしいさをけいけんできたかなぁ。。。なんて思ったりもした。
 右の写真は、私が彫った善財童子の模刻像です


 祈る」ということは、今の私には抵抗感のない所作。癌宣告されてからというもの、命の尊さを実感したことで、自分の命だけではなく、周りの家族、友人、諸々関係のある人々の健康を祈らずにはいられないのだ。
 と言って宗教心が芽生えた?ということとは違うようだが、もうかなり前から馴染んでしまった阿弥陀さんの悟りの経緯などの話をなんとなく心の中で支えとしているのかな?なんて思うこともあるから、宗教心が芽生えたのかなぁ?でも、浄土宗やら、浄土真宗でいう他力の話は、完全には思い込んでいないし、自分で何かを切り開くという思いもあるから、浄土教を信じているわけでもないのだろう。
 そんな気持ちもあるが、とにか開く何かを祈る、誰に、何に向かって祈るのかなんて考えもしないが、木彫りをするようになってから、特に円空さんの祈りの姿のものを見てからは、よく祈る姿を掘るようになったことは間違いない。その祈る姿の円空仏の一つが、この善財童子である。  

Posted by 生田 at 19:43Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年11月10日

仏さんに惚れ込んで。。。26 泉涌寺 楊貴妃観音

 昨年の今頃、雨男の私は京都で雨の歓迎を受けていた。二日目の朝早く、車に乗って東山の泉涌寺に向かった。泉涌寺は、一度は行っておかねばと思っていた寺だが、あの三門から本堂への下っていくところは、そんなにはない景色、まあ比叡山の根本中堂に降りていく坂にはかなわないが、それでも興味をそそられる坂である。
 到着した時は、雨は降るような降らないような中途半端で、傘を持って持って入ることになったのだが。到着が早すぎた、でもそれで正解だったのだが、開門まで結構待たされて、待つ間にあの坂の写真を撮ったりして。。。。。

 まぁこの話は、昨年記事にしているので割愛です。

 仙遊寺の中を一通り見終えて最後に見るつもりできたのが、この寺の売り物の一つ「楊貴妃観音」だ。正式には単に聖観音像で、重要文化財である。この像の生まれは日本ではない、チャイナである。と行っても今のチャイナではなく、大昔のチャイナで、玄宗皇帝が楊貴妃の死後に冥福を祈って作らせたもので、江戸時代に湛海律師という坊さんが連れてきたんだそうです。


写真は公式ページから拝借してます

 それですかねぇ。日本人ばなれしたお顔です。これが楊貴妃ですか?これが世界三大美人のお一人ですか?フゥ〜〜〜〜私の好みの美人じゃぁないなぁ。。。昔の中国はこう行ったタイプが美人だったんダァと、思うしかないですね。

 この観音さんを見て、あの口元をしげしげ眺めました。今まで仏さんの顔で口元をここまでしげしげ見たことあったかなぁ。。。。なんでしげしげと?写真ごらんになるとお分かりですねぇ。この楊貴妃さん、ヒゲ生えてるんですぅ。女性ですよ、それも美人だって言われているんですよ。そのお人にヒゲですよぉ。
 はい、知らないのか?と笑われますね。あれは髭ではないのです。観音堂の中にも書かれていますが、ヒゲのように見えるのは、話している口の動きを表現しているんですねぇ。。いつ頃からか、仏像にはこの手のヒゲのようなものが描かれていますね。正直私は好きではないですが。。。まぁ、それでも表現の自由、表現の一種ですからしょうがないですね。
 それにしても、この楊貴妃さんは、ものすごく鼻が長いですね。目から口までの頬の広いこと、なので今の私の感性から行くとう〜〜〜〜んとなってしまうのですね。

 まぁ、人それぞれ、この観音さんを見て、いろんな思いがあると思います。京都におい気になったら是非見に行ってください。
  

Posted by 生田 at 17:00Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰

2016年11月08日

仏さんに惚れ込んで。。。25 円成寺 大日如来

 円成寺(正式には園成寺)は、自家用車で行かないと結構面倒なところにある。なら東大寺大仏殿の裏手、平城坂(ならざか)の手前の分岐で柳生街道に入って、どんどこどんどこ東にっ道なりに走り、笠置に抜ける分岐を笠置には行かずまっすぐ行くと左手にあります。結構遠かったなぁ。。。
 
 円成寺は、本当は行く予定をしていなかったのですが、奈良に宿泊旅行した帰りに時間があるからと走っている途中で案内板を見つけて行ってみたのです。
 街中からかなり離れていることで、紅葉などのシーズンでもない限り、参拝客はかなり少ない様です。私が訪れた時も、ほかには1組だったかなぁ。。おかげで坊守さん(だと思う)に朱印をいただきながら色々お話ができました。朱印は本堂でいただいたのですが、ここには阿弥陀如来が安置されていました。それはいずれまた。

 この円成寺は、創建は奈良時代とも言われているほどでかなり歴史のある寺です。そのために行くつかの国宝や重要文化財がありますが、有名なのは運慶作の「大日如来」ではないかと思います。


 大日如来は、本堂などのメインの建物に安置されているのではなく、多宝塔の中にあります。つまりは本尊ではないのでしょう。(本尊は、阿弥陀如来と聞きました)多宝塔の中で、確か東を向いて智拳印を結んでいます。
 実は、私は大日如来が苦手なのです。理由はわかりません。多分、他の多くの如来の様に螺髪の頭ではなく、キンキラキンの宝冠を載せているからかもしれません。それにああなお上から目線の威嚇するかの様な表示には、縁を感じないのです。確かに真言では他の如来の上に立つ身ということらしいので、阿弥陀如来大好きの私としては、なんとなく煙たい存在で、好きになれないなぁ。。。

 とはいえ、仏としてみるのではなく、古美術としてみるのは別物で、この円成寺の大日如来は、当時のそれに比べると大きさも控えめだし、座る位置も目線に近いので、親しみを感じるし、苦手な大日如来の中ではいいなぁ・・・・・です。
 右の写真は、円成寺の公式ページから拝借しました。

 
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 奈良坂については、昔の場所と現在言われている場所とはかなり距離があります。かなり昔は大内裏から多分今の押熊あたりを抜けるところかと思いますが、現在では東大寺裏手、般若寺あたりを経て傷に抜ける道のことを指しています。
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Posted by 生田 at 14:25Comments(0)TrackBack(0)寺と信仰
  
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1泊2日のドライブ旅行
2015北海道・道東の旅
1週間870kmのドライブ旅行
大学OB会と
50年ぶりの鎌倉
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14年秋 京都宿泊の旅
久しぶりに新幹線に乗りましたが・・・
13年秋 京都ドライブ旅
京都の紅葉の名所・毘沙門堂に行きました
12年秋 室生寺ドライブ旅
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12年秋 京都ドライブ旅
1年ぶりの京都です
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平泉・わんこそば
   
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室生寺・五重塔
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09年11月26日久しぶりに黄檗山満福寺・六地蔵・法界寺谷寺・長岡天神
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 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
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