2010年11月05日
柿の収穫と右往左往の鳥たち
今日は、余りにも頭に来たので、柿のみを全部収穫した。
どうも赤くなった柿を鳥たちが、退去して来て狙い始めたからだ、一つくらいはまだ我慢できるけど、食べ尽くしてはつぎへつぎへといかれてはたまったものではない。
そこで、食べさしのものを覗いて、全部切り取ってしまった。
それから1時間後に、鳥たちは夕飯を食べに来た。ところが目指すものがなくなった。あちこち枝を渡り歩いて、数匹の鳥が「ないない」と言い合っている。残されたものを見つけたものは幸い。見つけられないものは、本当にみんなでエファを渡り歩いていた。
その様を見ていて結構面白かったなぁ。。。
残ったやつを食べて我慢してね。そしてまた来年おいで。
どうも赤くなった柿を鳥たちが、退去して来て狙い始めたからだ、一つくらいはまだ我慢できるけど、食べ尽くしてはつぎへつぎへといかれてはたまったものではない。
そこで、食べさしのものを覗いて、全部切り取ってしまった。
それから1時間後に、鳥たちは夕飯を食べに来た。ところが目指すものがなくなった。あちこち枝を渡り歩いて、数匹の鳥が「ないない」と言い合っている。残されたものを見つけたものは幸い。見つけられないものは、本当にみんなでエファを渡り歩いていた。
その様を見ていて結構面白かったなぁ。。。
残ったやつを食べて我慢してね。そしてまた来年おいで。
2010年11月05日
10年秋の平泉への旅 23 平泉・中尊寺その8
坂を下りながら釈迦堂を左に折れると正面に赤い鳥居が目に入る。なんでお寺に赤い鳥居がと思うのは毎度のこと。昔は仏様も神様の一部で、ゴチャマゼにしてもう出ていたことが原因。明治になって紙差を分離したけど、し切れずに結構たくさん残っている。ここもそんな構図だろうと。
ただ、赤い鳥居の神社の名前は『白山地じゃ』というのだが、、鳥居の前に白い木の柱に「野外能楽殿」とでっかく書かれている。神社の『白山神社』よりも能楽殿の方が中尊寺としてはお勧めしたいということなのだろう。
ここで子供連れの親子3代のグループが。かわいい女の子で、ご先祖さんの思いとは違って周りの建物や遺跡には全く興味を示さず、砂いじりをしたりして。。。。
鳥居をくぐりそのまま直進すると板壁の建物に突き当たる、これが能楽殿らしい。古いには古いが、平安、鎌倉の時代に建てられたものではないだろう。由緒書にもあまり興味がないのでほとんどスルー。
この能楽殿では、昔々薪能でもしたのかと、思うくらいだ。
能楽殿を左に迂回しすると拝殿の前に出る。能楽殿が何の仕切りも持たない建物なので見渡すこともできるが、高床なので全体を見ることができなかった。
拝殿の前には茅の輪がある。昔々、幼少のみぎり学区内の神社『塩釜神社』で「輪くぐり神事」というのを経験したことを思い出した。確か、和をくぐり無病息災を祈ったのではなかったか。その思い出をもう一度とばかりにその輪をくぐってみた。そして拝殿に向かってわが一家の安全と健康の願いを込めて祈る。
この拝殿の右に小さい祠が12もある。へぇ。珍しいと。よく見ると、12はそれぞれの干支の守り神という、羊さんの前で手を合わせて。(写真)
実は、今になって悔やんでいるのだが、この12の祠の背面に見晴らし台があったらしい。平泉の北を一望できたのかもしれないのだが、その見晴らし台があることすら築かなかったことを恥じるだけだが、ただ行ったとして霧で遮られている可能性が大きいことは確か。(いいわけ、負け惜しみ)
さて、ここからは帰路になる。一番奥まで這いこんだのだから。でも、金色堂が目的なら、ここもすでに帰路になるのかな?
鳥居をくぐって左が弁財天堂。通称・弁天さん。恋人同士、夫婦などのカップルで来るとやきもちを焼かれると聞いてはいるが、私は毎度一人なのでその心配はない。
お顔を拝見するのに近くに寄ってみた。ん??今まで見た弁天さんと比べると、おやまぁふっくらとされている。私個人の弁天さんのイメージは妖艶なものなのだが、こちらの弁天さんは「肝っ玉かぁさん」というイメージ。抱かれればさぞかし安心して眠ることができるかも。(まだあちらの世界では眠りたくはありません。念のために)
お隣の阿弥陀堂は往路でもう写真を撮らせてもらったところ。その前を通り月見坂を少し上って行く。来る時になぜ気付かなかったのか分からないが、月見坂の帰る方向の左の高いところに鐘楼がある。しかし、鐘楼というよりもなんとなく牢屋といったイメージの格子である。
由緒書によると800年近く前に作られたもので、長年の打鐘で破損し今は撞かれることはないとのこと。
(そうかぁ。誰も付けないように梵鐘を守るために逆の牢屋にしてあるのかぁ…・書きながら気づくとは、頭の回転がものすごく鈍っている、歳は取りたくないと思う。)
ここからだんだん下り坂になって行ったと思うが、最初はかなり緩やかで、平たんと思うかも。
この先の本堂までの間は前にも書いたと思うが、もう2週間くらい先なら紅葉のトンネルになるだろうと思われる参道だ。まx座、真夏でもこの緑のトンネルはさぞかし涼しい思をさせてもらるところではないだろうか。月見坂をえっちらおっちら汗をかきながら登ってきて、ここで平たんになり涼しさを満喫できるかもしれない。
本堂の前を通過して帰路を急ぐわけではないが、もう次のことが少しずつ頭の中に。
本堂を過ぎると、行く時は扉のしまっていた観音堂に立ち寄り写真を撮らせてもらう。
観音様の立像は、後背はきれいなのに、御本体はかなり金箔が剥がれて無残である。ここでわかったことは、どこのお堂も厨子に入っているのかな?だから御本体が小さいのかと思った。
しかし、なぜ御本体が無残なのだろう?火事にでも会われたのか?
薬師堂をやり過ごし地蔵堂をのぞく。
あらぁ・・・珍しいです。お地蔵さんといえば、衣が乱れることもなく、杖をまっすぐにたててお立ちのお姿がほとんど。ここのお地蔵さまはなぜか着流しといった印象だ。域ではなるが、かなりイメージが違って、親善ともとれるが違和感を覚える人もいるかなぁ?(写真311
この先だんだん下り坂がきつくなるところ。お年を召した方が恐る恐る、障害者の方の車いすはここはちょっとこんなんだろうに。。。
この坂を一気に下りようと下って行ったが、ふと左を見ると遠景が見える。上る時は霧で何も見えなかったから気付かなかったのだろう。一旦下りかけて、あわてて元に戻った、まるで阿弥陀さんに導かれたかのように。
何の知識もなく来た私。ここが見晴らし台、これを『東物見』というらしい。月見坂を下る左側。つまりは崖の方にある。高所恐怖症の私には本来苦手なところだが、この辺りを一望できるのだろうばかりに月見坂を外れて降りてきた。
ほう・・なんやらダム見たいものがあって(地図を見ているけどそんなもの見当たらない)川があって(この川が北上川だそうです)
そして、右の方向=東にはキリにうっすらとして姿を見せている山がある。これはあとで教えられたのだが、『束稲山』といい平泉の寺の配置を考えるときに必要は山と。春分、秋分の日は真東から太陽がでるとも、(記憶違いでなければ)。ひょっとしたら、作治のあの満月はここから上っていた?? 結構いい雰囲気の写真で、阿弥陀さんの導きかなぁ??
ただ、赤い鳥居の神社の名前は『白山地じゃ』というのだが、、鳥居の前に白い木の柱に「野外能楽殿」とでっかく書かれている。神社の『白山神社』よりも能楽殿の方が中尊寺としてはお勧めしたいということなのだろう。
ここで子供連れの親子3代のグループが。かわいい女の子で、ご先祖さんの思いとは違って周りの建物や遺跡には全く興味を示さず、砂いじりをしたりして。。。。
鳥居をくぐりそのまま直進すると板壁の建物に突き当たる、これが能楽殿らしい。古いには古いが、平安、鎌倉の時代に建てられたものではないだろう。由緒書にもあまり興味がないのでほとんどスルー。
この能楽殿では、昔々薪能でもしたのかと、思うくらいだ。
能楽殿を左に迂回しすると拝殿の前に出る。能楽殿が何の仕切りも持たない建物なので見渡すこともできるが、高床なので全体を見ることができなかった。
拝殿の前には茅の輪がある。昔々、幼少のみぎり学区内の神社『塩釜神社』で「輪くぐり神事」というのを経験したことを思い出した。確か、和をくぐり無病息災を祈ったのではなかったか。その思い出をもう一度とばかりにその輪をくぐってみた。そして拝殿に向かってわが一家の安全と健康の願いを込めて祈る。
この拝殿の右に小さい祠が12もある。へぇ。珍しいと。よく見ると、12はそれぞれの干支の守り神という、羊さんの前で手を合わせて。(写真)
実は、今になって悔やんでいるのだが、この12の祠の背面に見晴らし台があったらしい。平泉の北を一望できたのかもしれないのだが、その見晴らし台があることすら築かなかったことを恥じるだけだが、ただ行ったとして霧で遮られている可能性が大きいことは確か。(いいわけ、負け惜しみ)
さて、ここからは帰路になる。一番奥まで這いこんだのだから。でも、金色堂が目的なら、ここもすでに帰路になるのかな?
鳥居をくぐって左が弁財天堂。通称・弁天さん。恋人同士、夫婦などのカップルで来るとやきもちを焼かれると聞いてはいるが、私は毎度一人なのでその心配はない。
お顔を拝見するのに近くに寄ってみた。ん??今まで見た弁天さんと比べると、おやまぁふっくらとされている。私個人の弁天さんのイメージは妖艶なものなのだが、こちらの弁天さんは「肝っ玉かぁさん」というイメージ。抱かれればさぞかし安心して眠ることができるかも。(まだあちらの世界では眠りたくはありません。念のために)
お隣の阿弥陀堂は往路でもう写真を撮らせてもらったところ。その前を通り月見坂を少し上って行く。来る時になぜ気付かなかったのか分からないが、月見坂の帰る方向の左の高いところに鐘楼がある。しかし、鐘楼というよりもなんとなく牢屋といったイメージの格子である。
由緒書によると800年近く前に作られたもので、長年の打鐘で破損し今は撞かれることはないとのこと。
(そうかぁ。誰も付けないように梵鐘を守るために逆の牢屋にしてあるのかぁ…・書きながら気づくとは、頭の回転がものすごく鈍っている、歳は取りたくないと思う。)
ここからだんだん下り坂になって行ったと思うが、最初はかなり緩やかで、平たんと思うかも。
この先の本堂までの間は前にも書いたと思うが、もう2週間くらい先なら紅葉のトンネルになるだろうと思われる参道だ。まx座、真夏でもこの緑のトンネルはさぞかし涼しい思をさせてもらるところではないだろうか。月見坂をえっちらおっちら汗をかきながら登ってきて、ここで平たんになり涼しさを満喫できるかもしれない。
本堂の前を通過して帰路を急ぐわけではないが、もう次のことが少しずつ頭の中に。
本堂を過ぎると、行く時は扉のしまっていた観音堂に立ち寄り写真を撮らせてもらう。
観音様の立像は、後背はきれいなのに、御本体はかなり金箔が剥がれて無残である。ここでわかったことは、どこのお堂も厨子に入っているのかな?だから御本体が小さいのかと思った。
しかし、なぜ御本体が無残なのだろう?火事にでも会われたのか?
薬師堂をやり過ごし地蔵堂をのぞく。
あらぁ・・・珍しいです。お地蔵さんといえば、衣が乱れることもなく、杖をまっすぐにたててお立ちのお姿がほとんど。ここのお地蔵さまはなぜか着流しといった印象だ。域ではなるが、かなりイメージが違って、親善ともとれるが違和感を覚える人もいるかなぁ?(写真311
この先だんだん下り坂がきつくなるところ。お年を召した方が恐る恐る、障害者の方の車いすはここはちょっとこんなんだろうに。。。
この坂を一気に下りようと下って行ったが、ふと左を見ると遠景が見える。上る時は霧で何も見えなかったから気付かなかったのだろう。一旦下りかけて、あわてて元に戻った、まるで阿弥陀さんに導かれたかのように。
何の知識もなく来た私。ここが見晴らし台、これを『東物見』というらしい。月見坂を下る左側。つまりは崖の方にある。高所恐怖症の私には本来苦手なところだが、この辺りを一望できるのだろうばかりに月見坂を外れて降りてきた。
ほう・・なんやらダム見たいものがあって(地図を見ているけどそんなもの見当たらない)川があって(この川が北上川だそうです)
そして、右の方向=東にはキリにうっすらとして姿を見せている山がある。これはあとで教えられたのだが、『束稲山』といい平泉の寺の配置を考えるときに必要は山と。春分、秋分の日は真東から太陽がでるとも、(記憶違いでなければ)。ひょっとしたら、作治のあの満月はここから上っていた?? 結構いい雰囲気の写真で、阿弥陀さんの導きかなぁ??
2010年11月05日
10年秋の平泉への旅 22 平泉・中尊寺その7
金色堂を見て元の広場に戻り、順路としては左に行くのが順当で、先のチャイニーズの団体が先に行っているので抵抗があるが、居たしかたない。左に折れて坂を少し上って行く。
左に経堂がある。多分いろいろの経典を収めた堂なのだろうが、どういった経典が納められていたのか?本来この中尊寺は、平安末期に都と対比されるくらいの文化を持ち栄華を誇ったところで、当時の末法思想待っただかなの浄土思想から行けば、そうした関連の今日を収めていたのだろうとは思うが。今は????
この経堂の先には、金色堂を覆っていた昔の覆堂がある。その手前に芭蕉の銅像が建っている。何でもかんでも、関連の人の銅像を建てたがるのには、正直私は違和感を感じるが、まぁここに来たというアリバイのためにショットしておかなくては。。。
中央に立っているのが芭蕉です。
実は、この芭蕉の銅像にはチャイニーズたちは興味を示さなかったようだが、その右にある旧覆堂はガイドが説明しているからかたむろしていた。そのために、こちらは入ることができなくて… ブツブツ
彼らが立ち去るのを待つことかなり長い時間。やっといなくなったところで旧覆堂の中に入る。
かなり荒れてますね。この中に入っていたのでは、あの金色堂が崩壊寸前にまでボロボロになるのは理解できる。それに、かなりこじんまりしているのは、本当に金色堂に覆いをかけただけだからなのだろう。
この旧覆堂の北に大長寿院という院がある。他に人があまりはいていかないのはなぜと思いながら入って行ったら、そうどなぁ、ここは紅葉にならないと人は入らないだろうと思った。が、一人の女性が正面でお参りをされていた。
写真は、紅葉を想定したものだけど、緑ではねぇ。。。
この隣には、釈迦堂があるが、このショットを見る限りまだ霧の中、霧雨の中といった感じですね。
このショットも色づきがまだなので映えませんね。残念です。
左に経堂がある。多分いろいろの経典を収めた堂なのだろうが、どういった経典が納められていたのか?本来この中尊寺は、平安末期に都と対比されるくらいの文化を持ち栄華を誇ったところで、当時の末法思想待っただかなの浄土思想から行けば、そうした関連の今日を収めていたのだろうとは思うが。今は????
この経堂の先には、金色堂を覆っていた昔の覆堂がある。その手前に芭蕉の銅像が建っている。何でもかんでも、関連の人の銅像を建てたがるのには、正直私は違和感を感じるが、まぁここに来たというアリバイのためにショットしておかなくては。。。
中央に立っているのが芭蕉です。
実は、この芭蕉の銅像にはチャイニーズたちは興味を示さなかったようだが、その右にある旧覆堂はガイドが説明しているからかたむろしていた。そのために、こちらは入ることができなくて… ブツブツ
彼らが立ち去るのを待つことかなり長い時間。やっといなくなったところで旧覆堂の中に入る。
かなり荒れてますね。この中に入っていたのでは、あの金色堂が崩壊寸前にまでボロボロになるのは理解できる。それに、かなりこじんまりしているのは、本当に金色堂に覆いをかけただけだからなのだろう。
この旧覆堂の北に大長寿院という院がある。他に人があまりはいていかないのはなぜと思いながら入って行ったら、そうどなぁ、ここは紅葉にならないと人は入らないだろうと思った。が、一人の女性が正面でお参りをされていた。
写真は、紅葉を想定したものだけど、緑ではねぇ。。。
この隣には、釈迦堂があるが、このショットを見る限りまだ霧の中、霧雨の中といった感じですね。
このショットも色づきがまだなので映えませんね。残念です。
2010年11月05日
10年秋の平泉への旅 21 平泉・中尊寺その6
雨の心配はあるが、傘は必要なさそう。
月見坂の奥にある金色堂覆堂の前に行く。これまで写真やテレビの番組で見てきた金色堂の覆堂が目の前にある。写真を見て描いていたのは、覆堂の前の階段が急で長いと思っていたのだが、そんな私の想像とは違って、ゆるやかで短いものだった。イメージはかなり登るのではないかと思っていたのだ。
団体客が多くなってきているので、この覆堂を人なしで撮影するが結構難しく時間がかかってしまった。
よくあるありふれたポジションからの撮影。しかし、一般人としてはこういったところから取る以外にはないのだろうなぁ。もう少し高い位置から撮影するとかなり違ったイメージの覆い堂を取るkとができると思うのだけど。
写真の位置は、柵がもうけられている。その作の右側に入口がある。入場券をもぎってもらって中に入る。念願の金色堂への階段を上がって行く。そして上がりきったところで、ん??個々の入口からは入れないことが分かった。ここは覆堂の出口、入り口は覆堂の反対側にある。
と、その反対側に歩いて行くところで、団体客が来たらしく、ちらほらその客たちが混じってくる。ん??聞こえてくる言葉、漢字だよ。どうもチャイニーズの団体のようだ。
さて、念願の金色堂のある覆堂の中に足を踏み入れた。
キンキラキンだぁ。。。 ん??しかし、色が重い。そうかぁ。写真は撮影用のライト当ててるものなぁ。今はそのライトがない。だから重い。
しかし、仏様、阿弥陀様が遠い。それに小さい。大体が、金色堂自体が思っていたよりもうんと小さいのだ。そして、あぁ自分の不勉強をのろわねば。須弥壇が3つもある。なんだ??確かに写真でもこれだけを見ていたが、まさか須弥壇が3つとは。一つの須弥壇に阿弥陀さんが一体で、その周辺は脇侍仏が・・・というイメージを描いていたのだ。不勉強もいいところではじである。
この金色堂が、あのマルコポーロの『東方見聞録』に出てくる『黄金の家』なのだろう。確かし、これだけの話を聞けば、家全体が金ででdきていると誤解してもいたしかたないが、それにしてはちいさすぎるかなぁ。
頭の中に、金閣寺のあのでかさがあるから比較の上で小さいと思うのだろうか?
須弥壇が3つということで、ここには阿弥陀如来が三体あるのだ。なんでもこの金色堂には、藤原四代の遺体が安置されていると聞くが、遺体が一つ多いなぁ。なんて思ったりもする。
同じ堂内に阿弥陀如来が複数あるのは、どのくらいの事例があるのだろう。多分一番阿弥陀如来の数が多いのは、京都府の浄瑠璃寺(別名・九体寺)の別名の通りくらいではないかと思うが、こうした3つの須弥壇にあるのは、ほかにあるのだろうか?(勉強しなくては)
ガラスケース越しの阿弥陀仏をじっくりと見たいという気持ちで、たくさんの参拝客の前に出て、膝をつくようにして拝顔する。3つの須弥壇すべてを奏したかったのだが、どうしても右・須弥壇だけは他の人の前に出ることができずに断念。
実は、この金色堂の前には例のチャイニーズの団体がいっぱいいたのだ。マナーが悪くて困ったよ。
さて、金色堂の感想。
正直って幻滅したに近い。というのは、写真では非常にきれいな仕上がりに見えるのだが、どうも過去には崩壊寸前までボロボロになったことがあり、それを修復したうえに金箔をかけたようなのだ。その修復が当初の完成時のきれいな仕上がりとは違って、崩壊寸前を戻したものの戻しきれないままに金箔をはったのではないかと思えるのだ。だから表面がもうでこぼこで。。。。。
仏像に関しては、あまりにも遠く、ガラス越しで詳細を見ることができない。それに思ったよりもうんと小さいので、これも驚きだった。
これまでこうした念願の仏像を見たときのほとんどが、何らかの感動を伴うものなのだが、金色堂では感動を伴うことがなかった。しかし、何としてでも見たいという願望をかなえることができたというある種の達成感だけは持つことができた。
さて、金色堂にいつまでもいるわけにはいかない。チャイニーズの団体が出たあと少しいたが、次の団体も入ってきているので、出口から外に出た。
月見坂の奥にある金色堂覆堂の前に行く。これまで写真やテレビの番組で見てきた金色堂の覆堂が目の前にある。写真を見て描いていたのは、覆堂の前の階段が急で長いと思っていたのだが、そんな私の想像とは違って、ゆるやかで短いものだった。イメージはかなり登るのではないかと思っていたのだ。
団体客が多くなってきているので、この覆堂を人なしで撮影するが結構難しく時間がかかってしまった。
よくあるありふれたポジションからの撮影。しかし、一般人としてはこういったところから取る以外にはないのだろうなぁ。もう少し高い位置から撮影するとかなり違ったイメージの覆い堂を取るkとができると思うのだけど。
写真の位置は、柵がもうけられている。その作の右側に入口がある。入場券をもぎってもらって中に入る。念願の金色堂への階段を上がって行く。そして上がりきったところで、ん??個々の入口からは入れないことが分かった。ここは覆堂の出口、入り口は覆堂の反対側にある。
と、その反対側に歩いて行くところで、団体客が来たらしく、ちらほらその客たちが混じってくる。ん??聞こえてくる言葉、漢字だよ。どうもチャイニーズの団体のようだ。
さて、念願の金色堂のある覆堂の中に足を踏み入れた。
キンキラキンだぁ。。。 ん??しかし、色が重い。そうかぁ。写真は撮影用のライト当ててるものなぁ。今はそのライトがない。だから重い。
しかし、仏様、阿弥陀様が遠い。それに小さい。大体が、金色堂自体が思っていたよりもうんと小さいのだ。そして、あぁ自分の不勉強をのろわねば。須弥壇が3つもある。なんだ??確かに写真でもこれだけを見ていたが、まさか須弥壇が3つとは。一つの須弥壇に阿弥陀さんが一体で、その周辺は脇侍仏が・・・というイメージを描いていたのだ。不勉強もいいところではじである。
この金色堂が、あのマルコポーロの『東方見聞録』に出てくる『黄金の家』なのだろう。確かし、これだけの話を聞けば、家全体が金ででdきていると誤解してもいたしかたないが、それにしてはちいさすぎるかなぁ。
頭の中に、金閣寺のあのでかさがあるから比較の上で小さいと思うのだろうか?
須弥壇が3つということで、ここには阿弥陀如来が三体あるのだ。なんでもこの金色堂には、藤原四代の遺体が安置されていると聞くが、遺体が一つ多いなぁ。なんて思ったりもする。
同じ堂内に阿弥陀如来が複数あるのは、どのくらいの事例があるのだろう。多分一番阿弥陀如来の数が多いのは、京都府の浄瑠璃寺(別名・九体寺)の別名の通りくらいではないかと思うが、こうした3つの須弥壇にあるのは、ほかにあるのだろうか?(勉強しなくては)
ガラスケース越しの阿弥陀仏をじっくりと見たいという気持ちで、たくさんの参拝客の前に出て、膝をつくようにして拝顔する。3つの須弥壇すべてを奏したかったのだが、どうしても右・須弥壇だけは他の人の前に出ることができずに断念。
実は、この金色堂の前には例のチャイニーズの団体がいっぱいいたのだ。マナーが悪くて困ったよ。
さて、金色堂の感想。
正直って幻滅したに近い。というのは、写真では非常にきれいな仕上がりに見えるのだが、どうも過去には崩壊寸前までボロボロになったことがあり、それを修復したうえに金箔をかけたようなのだ。その修復が当初の完成時のきれいな仕上がりとは違って、崩壊寸前を戻したものの戻しきれないままに金箔をはったのではないかと思えるのだ。だから表面がもうでこぼこで。。。。。
仏像に関しては、あまりにも遠く、ガラス越しで詳細を見ることができない。それに思ったよりもうんと小さいので、これも驚きだった。
これまでこうした念願の仏像を見たときのほとんどが、何らかの感動を伴うものなのだが、金色堂では感動を伴うことがなかった。しかし、何としてでも見たいという願望をかなえることができたというある種の達成感だけは持つことができた。
さて、金色堂にいつまでもいるわけにはいかない。チャイニーズの団体が出たあと少しいたが、次の団体も入ってきているので、出口から外に出た。