2007年07月20日
旅の記録 上越2日目 その6 五智国分寺
2005年5月11日 3日目 (上越2日目)
五智国分寺 地図
春日山を下りて再度居多ヶ浜に向かう。今度は海岸そのものよりも国分寺と記念堂に行くためだ。春日山町の交差点を左折。とここで、あら・・・ここはこれまでにも走ったことのある北国街道では。なんだなんだ といったところだ。この道は北国街道として知られるだけあり、昔は松並木があったのだろう。8号線との交差点の手前には何本かの太い松が道の両側に見受けられる。この道は山麓線よりも少し海よりに位置する道路だ。といっても北上するときではなく、8号線を超え東にカーブしてからのことだが。
もう何度も走っているなれた道だ。一気に国分寺に向かう。ここを訪れるのは3回目。最初は雨の中、家内を車に残して私一人で境内に入った。その当時は親鸞のこともさほど知るわけではなく、国分寺も何があるのやらといって程度の知識だった。2回目は、多少なりとも知識は持ったが、この日も雨で親鸞の資料への期待もなく境内に入ったら、O さんという面白い人に出会っていろいろ彼の親鸞への思いを聞いたものだ。そして彼が作っていた流罪小屋などを眺めてこれはないだろうなどと思っていたものだ。
山門の南にある駐車場に車を置いた。山門にむけて写真を撮ろうとしたが、なんやら売店と思しきところの女性がうろうろして写真には不向きだ。ということで、とりあえず写真はなし。この正面から入るのは、最初のとき以来で、そのときは何があったのかまったく記憶にないといってもいいだろう。三重塔があるはずなのだが、2回の訪問での記憶がないのは、2回とも雨だったせいだろうか。今回は雨の心配がないので、ゆっくりと見ることができる。(このために、本来のコースを逆にしたのだから晴れてくれないと困るよな)
三重塔は何故か感激を覚えない。あちこちで見る塔には、感激を覚えるものと、そうでないものがある。ここの塔はその覚えないほうも部類である。理由はわからない。ひょっとしたら本堂が再建されてきれいになりすぎて、境内が趣をなくしてしまったからかもしれない。聖人の銅像も、ここではなんとなく白々しさすら感じる。
境内は、今日は人が多い。これまでは人がいたためしがない。やはり雨が降るときは誰も来ないのだろうか?年齢的には、いろいろだ。私の歳の前後という印象が多いのは、退役されてその後に夫婦でご旅行といった人が多いのは確かだ。それに引き換え私は最近一人での旅行。見捨てられている・・・・
境内の右奥に保育園がある。ここの子供らが先生に引率されて出てきたりしている。一瞬孫のことが頭をよぎる。子供たちは、流人小屋の横を毎日通っているのだろうが、彼らはその記憶をいつまで持つだろう、そしてその思うが大人になってどう影響するのだろう。親鸞という人の記憶がどう残っていくのだろうか。
O さんの流人小屋は完成しているようだ。作者本人はいかがされているかとお部屋をのぞく。座っておいでだが、どうも雰囲気が違う。一回り丸くなっておられる。それにあの毒気を含んだ印象がないのだ。つまりは覇気が感じられなくなっている。
「お久しぶり」と声をかける。覚えていらっしゃったようだ。いろいろ話をする。私の今回の上越訪問の目的を話して、彼の考えを聞いてみる。彼は、どうも北国街道を思い浮かべているようだ。話の中で、加賀百万石の参勤交代が、この北国街道に沿って江戸に向かったということを話してくれた。
しかし、この北国街道はいつごろからの道なのだろう。江戸時代の街道制定で確定したことはわかりきったことだが、平安、鎌倉のときはどうだったのだろう。謙信はどこを越えて千曲川の川中島へ向かったのか。
謙信は女性との交わりを持たず、子供がいなかった。法然もそうだった。この二人はいろんな意味で清廉潔白な人として名を馳せている人物である。それに引き替え親鸞は多くの子供を残し、さらには現代までその子孫が存在し、多くの問題を起こしている。これは、親鸞本人は、思いもしていなかったことではあろうが。。。。
O さんは、目下竹とんぼ作りを来る人に奨励しているようだ。私には前回は、彼の書いた本を数冊持って帰れと申されたが、今回は「竹とんぼの材料とカッターナイフを持って返れ」とのこと。いつかはやってみようと思っていたのでありがたくいただいて帰ってきた。
彼とのはなしは30分以上もしていたのだろうか。この間に何人かの人が部屋をのぞいては通り過ぎていかれる。もうそろそろと腰を上げたときに、その入れ替わりに一組のご夫婦が部屋に向かってこられた。前橋からこられたとのこと。ひょっとしたら、退役された記念旅行かなと思うのだが。
本堂の如来像に手を合わせ、境内を出る方向に歩いていく。左に売店がある。どうもくるときにうろうろされていたのはここの女主人のようだ。それにしても、境内の山門直後にこうした売店(うどんなども食べられる)を設けるなど、やはりこの寺の格式の軽さを思ってしまう。
本当は、五智国分寺として、聖武天皇の国分寺建築の流れからは相当時代を後にして、消滅・再建築ということがあったにしても、やはり格式としては国分寺のままであってほしいというのは、旅行者のわがままだろうか。
**次回は、親鸞聖人上陸記念堂**
五智国分寺 地図
春日山を下りて再度居多ヶ浜に向かう。今度は海岸そのものよりも国分寺と記念堂に行くためだ。春日山町の交差点を左折。とここで、あら・・・ここはこれまでにも走ったことのある北国街道では。なんだなんだ といったところだ。この道は北国街道として知られるだけあり、昔は松並木があったのだろう。8号線との交差点の手前には何本かの太い松が道の両側に見受けられる。この道は山麓線よりも少し海よりに位置する道路だ。といっても北上するときではなく、8号線を超え東にカーブしてからのことだが。
もう何度も走っているなれた道だ。一気に国分寺に向かう。ここを訪れるのは3回目。最初は雨の中、家内を車に残して私一人で境内に入った。その当時は親鸞のこともさほど知るわけではなく、国分寺も何があるのやらといって程度の知識だった。2回目は、多少なりとも知識は持ったが、この日も雨で親鸞の資料への期待もなく境内に入ったら、O さんという面白い人に出会っていろいろ彼の親鸞への思いを聞いたものだ。そして彼が作っていた流罪小屋などを眺めてこれはないだろうなどと思っていたものだ。
山門の南にある駐車場に車を置いた。山門にむけて写真を撮ろうとしたが、なんやら売店と思しきところの女性がうろうろして写真には不向きだ。ということで、とりあえず写真はなし。この正面から入るのは、最初のとき以来で、そのときは何があったのかまったく記憶にないといってもいいだろう。三重塔があるはずなのだが、2回の訪問での記憶がないのは、2回とも雨だったせいだろうか。今回は雨の心配がないので、ゆっくりと見ることができる。(このために、本来のコースを逆にしたのだから晴れてくれないと困るよな)
三重塔は何故か感激を覚えない。あちこちで見る塔には、感激を覚えるものと、そうでないものがある。ここの塔はその覚えないほうも部類である。理由はわからない。ひょっとしたら本堂が再建されてきれいになりすぎて、境内が趣をなくしてしまったからかもしれない。聖人の銅像も、ここではなんとなく白々しさすら感じる。
境内は、今日は人が多い。これまでは人がいたためしがない。やはり雨が降るときは誰も来ないのだろうか?年齢的には、いろいろだ。私の歳の前後という印象が多いのは、退役されてその後に夫婦でご旅行といった人が多いのは確かだ。それに引き換え私は最近一人での旅行。見捨てられている・・・・
境内の右奥に保育園がある。ここの子供らが先生に引率されて出てきたりしている。一瞬孫のことが頭をよぎる。子供たちは、流人小屋の横を毎日通っているのだろうが、彼らはその記憶をいつまで持つだろう、そしてその思うが大人になってどう影響するのだろう。親鸞という人の記憶がどう残っていくのだろうか。
O さんの流人小屋は完成しているようだ。作者本人はいかがされているかとお部屋をのぞく。座っておいでだが、どうも雰囲気が違う。一回り丸くなっておられる。それにあの毒気を含んだ印象がないのだ。つまりは覇気が感じられなくなっている。
「お久しぶり」と声をかける。覚えていらっしゃったようだ。いろいろ話をする。私の今回の上越訪問の目的を話して、彼の考えを聞いてみる。彼は、どうも北国街道を思い浮かべているようだ。話の中で、加賀百万石の参勤交代が、この北国街道に沿って江戸に向かったということを話してくれた。
しかし、この北国街道はいつごろからの道なのだろう。江戸時代の街道制定で確定したことはわかりきったことだが、平安、鎌倉のときはどうだったのだろう。謙信はどこを越えて千曲川の川中島へ向かったのか。
謙信は女性との交わりを持たず、子供がいなかった。法然もそうだった。この二人はいろんな意味で清廉潔白な人として名を馳せている人物である。それに引き替え親鸞は多くの子供を残し、さらには現代までその子孫が存在し、多くの問題を起こしている。これは、親鸞本人は、思いもしていなかったことではあろうが。。。。
O さんは、目下竹とんぼ作りを来る人に奨励しているようだ。私には前回は、彼の書いた本を数冊持って帰れと申されたが、今回は「竹とんぼの材料とカッターナイフを持って返れ」とのこと。いつかはやってみようと思っていたのでありがたくいただいて帰ってきた。
彼とのはなしは30分以上もしていたのだろうか。この間に何人かの人が部屋をのぞいては通り過ぎていかれる。もうそろそろと腰を上げたときに、その入れ替わりに一組のご夫婦が部屋に向かってこられた。前橋からこられたとのこと。ひょっとしたら、退役された記念旅行かなと思うのだが。
本堂の如来像に手を合わせ、境内を出る方向に歩いていく。左に売店がある。どうもくるときにうろうろされていたのはここの女主人のようだ。それにしても、境内の山門直後にこうした売店(うどんなども食べられる)を設けるなど、やはりこの寺の格式の軽さを思ってしまう。
本当は、五智国分寺として、聖武天皇の国分寺建築の流れからは相当時代を後にして、消滅・再建築ということがあったにしても、やはり格式としては国分寺のままであってほしいというのは、旅行者のわがままだろうか。
**次回は、親鸞聖人上陸記念堂**
過去の記録 | |
2005年5月9日 | 2005年5月10日 |
名古屋から軽井沢 その1 | 栃木県二宮町の朝 |
名古屋から軽井沢 その2 | 朝のお勤め 高田・専修寺 |
軽井沢から達磨寺 | 高田・専修寺 その2 |
達磨寺から高崎・前橋 | 稲田・西念寺 |
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栃木県真岡市で宿泊 | 報佛寺 坊守さんのお話 |
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関越・花園~上信越・佐久 | |
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上越2日目 その1 | |
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上越 春日山城址 |
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この記事へのコメント
初めまして。
上越市(直江津)に生まれ育ち、今は群馬に住んでいるものです。懐かしく読ませていただきました。
本文中に信玄と記載されていましたが、これは謙信の間違いですよね。
直江津の海岸から佐渡は天候が良い時(空気がすんでいるとき)にはよく見えるのですが、そのような日は少ないです。冬の天気の良い日などが好適かもしれません。
でも日本海側の冬は荒れている日が多いですから難しいのです。
上越市(直江津)に生まれ育ち、今は群馬に住んでいるものです。懐かしく読ませていただきました。
本文中に信玄と記載されていましたが、これは謙信の間違いですよね。
直江津の海岸から佐渡は天候が良い時(空気がすんでいるとき)にはよく見えるのですが、そのような日は少ないです。冬の天気の良い日などが好適かもしれません。
でも日本海側の冬は荒れている日が多いですから難しいのです。
Posted by Mako at 2007年07月21日 01:26
コメントありがとうございます。 ご出身が上越ですか。もご実家がおありになるのであれば、被害のないことを祈っております。
謙信と信玄の誤記、ご指摘ありがとうございます。修正しました、対戦する相手を頭に描き、これを買いs底舞っていたようです。
佐渡の件は、この後の上陸記念堂前で「うっすらと見えた」と書いていることが正解のかもしれませんね。 土地の人でもいろいろおっしゃられて、 1:高いところでなくぃと 2:柿崎くらいまで行かないと 3:山のように見えると聞いてきたのですが、自分の目に見えなくて。ただ、計算上は、ちょっと佐渡の高い山でないと、地球が丸いので見えないとも。 ところで http://monvil.mediacat-blog.jp/e1769.html の写真をどう思われるでしょう。 (このページの右「マイ旅の写真」右列したから4番目をクリックすると表示されます)
謙信と信玄の誤記、ご指摘ありがとうございます。修正しました、対戦する相手を頭に描き、これを買いs底舞っていたようです。
佐渡の件は、この後の上陸記念堂前で「うっすらと見えた」と書いていることが正解のかもしれませんね。 土地の人でもいろいろおっしゃられて、 1:高いところでなくぃと 2:柿崎くらいまで行かないと 3:山のように見えると聞いてきたのですが、自分の目に見えなくて。ただ、計算上は、ちょっと佐渡の高い山でないと、地球が丸いので見えないとも。 ところで http://monvil.mediacat-blog.jp/e1769.html の写真をどう思われるでしょう。 (このページの右「マイ旅の写真」右列したから4番目をクリックすると表示されます)
Posted by 生田 at 2007年07月21日 07:25
おはようございます。早速のお返事ありがとうございます。地震については直江津あたりになりますと棚のものが落ちる程度ですみました。ご心配ありがとうございます。
http://monvil.mediacat-blog.jp/e1769.htmlの写真の山ですが、米山という上越と柏崎の間の山になります。今回の地震で海岸の信越線のところで崩落が起きておりましたが、この米山の裾野部分にあたります。確か標高は1,000m弱だったと思います。上の雲が晴れてくれると特徴的な山の形が見えてくれると思うのですが。
http://www.exblog.jp/blog_logo.asp?slt=1&imgsrc=200707/11/84/e0065084_0565278.jpg#
に直江津の海岸から直江津港方面の写真が載っていました。ごらんになってください。
佐渡は、私も物心着いた頃から見たい、見たいと思っていましたが、数えるほどしか見たことがありません。さすがに柿崎、柏崎、出雲崎あたりまで行けば距離が近くなるだけよく見えるようになりますが、タイミングが合えば高いところに上らなくても直江津の海岸の砂浜からでもばっちり見えます。
http://yuuraku03.hp.infoseek.co.jp/naoetu19624/img190624.jpg
に佐渡がうつっている写真がありました。
http://monvil.mediacat-blog.jp/e1769.htmlの写真の山ですが、米山という上越と柏崎の間の山になります。今回の地震で海岸の信越線のところで崩落が起きておりましたが、この米山の裾野部分にあたります。確か標高は1,000m弱だったと思います。上の雲が晴れてくれると特徴的な山の形が見えてくれると思うのですが。
http://www.exblog.jp/blog_logo.asp?slt=1&imgsrc=200707/11/84/e0065084_0565278.jpg#
に直江津の海岸から直江津港方面の写真が載っていました。ごらんになってください。
佐渡は、私も物心着いた頃から見たい、見たいと思っていましたが、数えるほどしか見たことがありません。さすがに柿崎、柏崎、出雲崎あたりまで行けば距離が近くなるだけよく見えるようになりますが、タイミングが合えば高いところに上らなくても直江津の海岸の砂浜からでもばっちり見えます。
http://yuuraku03.hp.infoseek.co.jp/naoetu19624/img190624.jpg
に佐渡がうつっている写真がありました。
Posted by Mako at 2007年07月21日 10:42
地震、被害がなくて、何よりと思います。
写真情報をありがとうございます。
これまで探したのですがm、見つからなかったのですが。ありがとうございます。
こんなふうに見えるんですか? この海岸は、居多ヶ浜よりも北に位置しているかと思うのですが、どの辺りなのでしょう?
今度いつ上越に行けるかわからないのですが、次回は是非居多ヶ浜から見たいものと思っています。
私の写真が、今回の地震の場所ですかぁ・・・
何はともあれ、情報をありがとうございました。
写真情報をありがとうございます。
これまで探したのですがm、見つからなかったのですが。ありがとうございます。
こんなふうに見えるんですか? この海岸は、居多ヶ浜よりも北に位置しているかと思うのですが、どの辺りなのでしょう?
今度いつ上越に行けるかわからないのですが、次回は是非居多ヶ浜から見たいものと思っています。
私の写真が、今回の地震の場所ですかぁ・・・
何はともあれ、情報をありがとうございました。
Posted by 生田 at 2007年07月21日 17:29
こんにちは。二重投稿になっていたようですみません。
パノラマ写真の左端のほうの山に風力発電所の風車が見えると思いますが、そこから海岸に降りたところ周辺が居多ヶ浜です(だと思います)。ですので、佐渡の見え方は一緒になります。
パノラマ写真の左端のほうの山に風力発電所の風車が見えると思いますが、そこから海岸に降りたところ周辺が居多ヶ浜です(だと思います)。ですので、佐渡の見え方は一緒になります。
Posted by Mako at 2007年07月22日 10:02
風車のあるところは、8号線のトンネルかな?
居多ヶ浜が見えるということは、水族館だっけ?から関川の間くらいのところですしょうか。ひょっとして、海岸にある公園かな?安寿と厨子王の慰霊碑の少し居多ヶ浜よりの海岸にあった思いますが。
しかし、ここまではっきり見えるものを実際に見たいなぁ。。。 心がけ次第って、 あrちこっちから言われそうですね、 日ごろの心がけが悪いことでは有名なんで。
ありがとうございました。
居多ヶ浜が見えるということは、水族館だっけ?から関川の間くらいのところですしょうか。ひょっとして、海岸にある公園かな?安寿と厨子王の慰霊碑の少し居多ヶ浜よりの海岸にあった思いますが。
しかし、ここまではっきり見えるものを実際に見たいなぁ。。。 心がけ次第って、 あrちこっちから言われそうですね、 日ごろの心がけが悪いことでは有名なんで。
ありがとうございました。
Posted by 生田 at 2007年07月22日 11:15