2007年07月23日
旅の記録 上越2日目 その9 上越市の歴史
2005年5月11日 3日目 (上越2日目)
再び 上越市役所 教育委員会 地図
ホテルに戻って、チェックイン。部屋に上がろうとエレベータに乗ろうとするところで携帯がなった。市役所の生涯教育の担当者からだ。
いつ市役所に来るかとのこと。明日ではというと「明日なら時間を遅くしてくれ」というので、それでは今から出かけると。ただ、ホテルに戻ったばかりなので、荷物を置くテイクから少し時間がほしいと伝える。
部屋に入って、荷物を放り込んで、即、外に飛び出した、どんな話が聞けるか、大いに期待するところだ。
ホテルは高田駅前、市役所は春日山駅前、JR信越線の駅ひとつ分の距離。そんなに離れているという感覚はないが、こうして急ぐときというものは遠く感じるものだ。
駅前のとおりを北に向かい、途中で上越大通りに合流する。そして北上して高速道路をくぐり、謙信大通の交差点で左折すると市役所だ。朝来たときに車を入れた入り口とは違う入り口から駐車場に入る。
教育委員会の棟の前に車を止めて、今朝行った企画課にいく。朝は、電話で今からということで、女性が判断してくれたが、今は皆さん忙しく動いていて、気づいてくれない。カウンタの前にいる男子職員に、企画課の担当者の名前を言うと、取次ぎに行ってくれ、その状態を朝の女性職員が気づいて、担当者に説明している。
その電話をくれた担当者が、時代を感じさせる本を一冊持って、出てきてくれ、話をする場所をほかの職員と話して確保し、私に座るように促す。名刺をもらう。学芸員の「N」とある。家内のいとこと同姓同名だ。世の中、こういったこともあるのだろう。
朝、女性職員に訪問の趣旨を話してあるので、それに沿っていろいろとはなしをしてくれる。再度「平安後期から鎌倉にかけての上越付近での地震の記録、古文書の存在は」との質問に対して、「残念ながら一切存在しない」ということだ。つい半年前の中越地震クラスの地震があった可能性はあるだろうが、記録としては何もないという非常に残念な話だ。
今回の旅行に出かける前にもインターネットで「鎌倉。平安、地震」などをキーワードに検索を何度も試みた、しかし、そのたびに探している目的のデータの存在しないということがわかるだけ、あるのは1500年以降になってしまうのだ。
この点について、N さんの話もまったく同様なのだ。彼が持ってきた上越(直江津市史)でも、地震などの記述は1500年代以降とのことだ。前日行った埋蔵文化財センターのように、この上越の歴史はかなり古いのだが、記録として残されているものがないということなのだ。
親鸞の話を幾つかしているが、その中のいくつかを箇条書きにしておこう。
1:親鸞の流された場所の選定理由
親鸞のおじに当たる日野○○の赴任地であった
2:恵信尼について
恵信尼は、地元豪族の娘であって、親鸞の子供はこの上越で生まれている。ただ、善鸞だけはほかの女性との間に生まれたのだろう。これは、ご当地として、そのようにあってほしいという願望もこめての話だと、正直に語っておられる。
日野家、三善家という力ある豪族などの庇護の下に親鸞は置かれていたので、いわゆる流人小屋のような環境の中で生活をしたということではなく、かなり裕福に、楽に過ごしたということもいえる。
3:国分寺の位置
国分寺は最初に建設されたものが海に埋没したのではないかという話については、決まった説はない。逆に現国道18号線のある場所から国分寺後と思われるも伽藍の跡が見つかっている。
4:高田城の変遷
上越の城は、謙信の春日山城の次は直江津の東に「福島城」が一時期存在し、城下町まで作られているが、最終的には高田の地に現在の高田城が築城され、城下町が形成された。
5:居多ヶ浜の名称
国分寺の草案跡に鎮座する O 氏の説では、「こた」はアイヌ語の「枯淡=村」ではないかという話をしていたことを出したところ、N さんは「ケタ」でしょうという。「けた」とは、能登半島にある「気多神社」の「けた」するのが一般的はないかということだ。
**ネットで見ると「気多」の語源にはいろいろ説がありますね。** 筆者注釈
6:上越は日本の真ん中である。
上越市にコンパスの新を置き、稚内あたりまでを半径と刷る円を描くとほぼ日本全土を含むことができる。これは、つまりは古代においては日本の文化圏の区分を示している。つまり、都の力の及ぶところの外に位置する。逆に言えば、この値は、すでに都の力の及ばないところで、流罪とする土地の一番都に近い位置である。
このことは、親鸞が流されたこととも関係があり、当時の都の力が及ばない土地の中で一番近いところを選んで、しかも火の気とのつながりのなるこの地が選ばれたのだろう。
**親鸞伝説の一つ:片葉の葦**
**後ろの海の向うは佐渡なのですが**
7:親鸞伝説
この上越から中越の地には、数多くの親鸞伝説が存在する。しかし、その多くの伝説は江戸時代になって作られた、流布したものであり、親鸞そのものに関係するとは言いがたいものだ。特に、この地区は本願寺系の寺も多く、真宗を根付かせるための蓮如以降の布教の手段と考えるのが相当であろう。
8:関東にある親鸞ゆかりの地名との相似
これは、おそらく偶然といっていいのではないか。高田、稲田、板倉、いずれも偶然と考えていいのではないか。この土地のそれらの名前の由来は不明だ。
9:親鸞の関東移住の峠越え
一般には北国街道ということになるだろうが、この街道も江戸時代の制定であって。判断は難しいだろう。上越から長野への移動は、北国街道、飯山街道、板倉から開山高原を抜けるなど幾つかの道がある。
現在では、確かに18号線沿い、つまり北国街道が一番人家が多いのは確かである。
10春日山城跡
春日山に上がってみたが、聞いていたようにな周囲を見渡すことができる要所とはとても思える状態ではなく、本当に要所だったのかという質問に「木が生い茂りすぎているので、目下もとの状態に戻すために伐採中です、あれでもかなり切ったんですが・・・」とのこと。
現在の春日山城は、確かに何もない。ただ入り口の問だけが林泉寺に移設されている。そのほかは福島城地区上位に際してすべて壊されている。
以上が、 学芸員のNさんから聞いた話の概略だ。
目的を達する資料のないことがわかり、気分的にはがっかりした。しかしいろいろ親切に説明してくださったことに心からの御礼を言い、ホテルに戻った。
そして、風呂に入って、横になったら、そのまま寝てしまったのだ。この夜は、まずは5時間、そしてさらに7時間をなんと12時間も寝ることになってしまった。
**次回は 上越3日目 直江津から高田への加賀街道 **
再び 上越市役所 教育委員会 地図
ホテルに戻って、チェックイン。部屋に上がろうとエレベータに乗ろうとするところで携帯がなった。市役所の生涯教育の担当者からだ。
いつ市役所に来るかとのこと。明日ではというと「明日なら時間を遅くしてくれ」というので、それでは今から出かけると。ただ、ホテルに戻ったばかりなので、荷物を置くテイクから少し時間がほしいと伝える。
部屋に入って、荷物を放り込んで、即、外に飛び出した、どんな話が聞けるか、大いに期待するところだ。
ホテルは高田駅前、市役所は春日山駅前、JR信越線の駅ひとつ分の距離。そんなに離れているという感覚はないが、こうして急ぐときというものは遠く感じるものだ。
駅前のとおりを北に向かい、途中で上越大通りに合流する。そして北上して高速道路をくぐり、謙信大通の交差点で左折すると市役所だ。朝来たときに車を入れた入り口とは違う入り口から駐車場に入る。
教育委員会の棟の前に車を止めて、今朝行った企画課にいく。朝は、電話で今からということで、女性が判断してくれたが、今は皆さん忙しく動いていて、気づいてくれない。カウンタの前にいる男子職員に、企画課の担当者の名前を言うと、取次ぎに行ってくれ、その状態を朝の女性職員が気づいて、担当者に説明している。
その電話をくれた担当者が、時代を感じさせる本を一冊持って、出てきてくれ、話をする場所をほかの職員と話して確保し、私に座るように促す。名刺をもらう。学芸員の「N」とある。家内のいとこと同姓同名だ。世の中、こういったこともあるのだろう。
朝、女性職員に訪問の趣旨を話してあるので、それに沿っていろいろとはなしをしてくれる。再度「平安後期から鎌倉にかけての上越付近での地震の記録、古文書の存在は」との質問に対して、「残念ながら一切存在しない」ということだ。つい半年前の中越地震クラスの地震があった可能性はあるだろうが、記録としては何もないという非常に残念な話だ。
今回の旅行に出かける前にもインターネットで「鎌倉。平安、地震」などをキーワードに検索を何度も試みた、しかし、そのたびに探している目的のデータの存在しないということがわかるだけ、あるのは1500年以降になってしまうのだ。
この点について、N さんの話もまったく同様なのだ。彼が持ってきた上越(直江津市史)でも、地震などの記述は1500年代以降とのことだ。前日行った埋蔵文化財センターのように、この上越の歴史はかなり古いのだが、記録として残されているものがないということなのだ。
親鸞の話を幾つかしているが、その中のいくつかを箇条書きにしておこう。
1:親鸞の流された場所の選定理由
親鸞のおじに当たる日野○○の赴任地であった
2:恵信尼について
恵信尼は、地元豪族の娘であって、親鸞の子供はこの上越で生まれている。ただ、善鸞だけはほかの女性との間に生まれたのだろう。これは、ご当地として、そのようにあってほしいという願望もこめての話だと、正直に語っておられる。
日野家、三善家という力ある豪族などの庇護の下に親鸞は置かれていたので、いわゆる流人小屋のような環境の中で生活をしたということではなく、かなり裕福に、楽に過ごしたということもいえる。
3:国分寺の位置
国分寺は最初に建設されたものが海に埋没したのではないかという話については、決まった説はない。逆に現国道18号線のある場所から国分寺後と思われるも伽藍の跡が見つかっている。
4:高田城の変遷
上越の城は、謙信の春日山城の次は直江津の東に「福島城」が一時期存在し、城下町まで作られているが、最終的には高田の地に現在の高田城が築城され、城下町が形成された。
5:居多ヶ浜の名称
国分寺の草案跡に鎮座する O 氏の説では、「こた」はアイヌ語の「枯淡=村」ではないかという話をしていたことを出したところ、N さんは「ケタ」でしょうという。「けた」とは、能登半島にある「気多神社」の「けた」するのが一般的はないかということだ。
**ネットで見ると「気多」の語源にはいろいろ説がありますね。** 筆者注釈
6:上越は日本の真ん中である。
上越市にコンパスの新を置き、稚内あたりまでを半径と刷る円を描くとほぼ日本全土を含むことができる。これは、つまりは古代においては日本の文化圏の区分を示している。つまり、都の力の及ぶところの外に位置する。逆に言えば、この値は、すでに都の力の及ばないところで、流罪とする土地の一番都に近い位置である。
このことは、親鸞が流されたこととも関係があり、当時の都の力が及ばない土地の中で一番近いところを選んで、しかも火の気とのつながりのなるこの地が選ばれたのだろう。
**親鸞伝説の一つ:片葉の葦**
**後ろの海の向うは佐渡なのですが**
7:親鸞伝説
この上越から中越の地には、数多くの親鸞伝説が存在する。しかし、その多くの伝説は江戸時代になって作られた、流布したものであり、親鸞そのものに関係するとは言いがたいものだ。特に、この地区は本願寺系の寺も多く、真宗を根付かせるための蓮如以降の布教の手段と考えるのが相当であろう。
8:関東にある親鸞ゆかりの地名との相似
これは、おそらく偶然といっていいのではないか。高田、稲田、板倉、いずれも偶然と考えていいのではないか。この土地のそれらの名前の由来は不明だ。
9:親鸞の関東移住の峠越え
一般には北国街道ということになるだろうが、この街道も江戸時代の制定であって。判断は難しいだろう。上越から長野への移動は、北国街道、飯山街道、板倉から開山高原を抜けるなど幾つかの道がある。
現在では、確かに18号線沿い、つまり北国街道が一番人家が多いのは確かである。
10春日山城跡
春日山に上がってみたが、聞いていたようにな周囲を見渡すことができる要所とはとても思える状態ではなく、本当に要所だったのかという質問に「木が生い茂りすぎているので、目下もとの状態に戻すために伐採中です、あれでもかなり切ったんですが・・・」とのこと。
現在の春日山城は、確かに何もない。ただ入り口の問だけが林泉寺に移設されている。そのほかは福島城地区上位に際してすべて壊されている。
以上が、 学芸員のNさんから聞いた話の概略だ。
目的を達する資料のないことがわかり、気分的にはがっかりした。しかしいろいろ親切に説明してくださったことに心からの御礼を言い、ホテルに戻った。
そして、風呂に入って、横になったら、そのまま寝てしまったのだ。この夜は、まずは5時間、そしてさらに7時間をなんと12時間も寝ることになってしまった。
**次回は 上越3日目 直江津から高田への加賀街道 **