2007年07月24日

旅の記録 上越3日目 その1 上越の加賀街道

2005年5月12日 4日目 (上越3日目) 
 北国 (加賀) 街道  を走る

前日は、上越市役所からホテルに戻り風呂に入って、風呂上りでベッドで寝転がっている間に5時間も眠ってしまった。前日ほとんど寝ていなかった反動だ。一旦目が覚めたものの、眠気はまだ続き食事もとらないまままた数時間後に7時間も寝ることになった。
 (この日は、夕日を見に行こうと思っていたのに、果たせなかった。悲しい。)

 朝の目覚めは、いいような悪いような。体調の崩れは極限に達している。食事が取れる状態ではないので、腹はすいているが、まだ食べることは無理だ。

 上越に来て2回目の朝。天気予報では今日の昼から天気が危ないという。それに明日は松本に移動するから、今日中に、しかも雨の降る前に行くべきところに行っておこうと、無理を覚悟で動き始める。

 まずは、小説に書きかけている浄興寺から北国街道への道順を確認しなければいけないことに、昨日気がついたのだ。
 書いていることがどうもウソになっている。浄興寺から北に向かって北国街道(ものの本によると加賀街道ともいうらしい)へ出るのは田んぼ道を走ることになる。しかし、別な走り方がある。寺町の北を東西に走る道があるのだ。私は、この道を北国街道と思っていたので、とりあえず寺町の北の道に踏み切りをわたって入り込む。
 寺町には行かず、右に道をとって進んでいく。途中に浄興寺方面と書いた案内板などがあるが、北国街道への案内はない。つまりは、私は寺町の北を走るのが北国街道と思っているからこれで当然ということになる。
 そのまま走って山麓線の交差点もそのまま直進。 ん?交差点を超えてから、どことなく雰囲気がおかしい。どうも山の中に入っていってしまいそうだ。後になって地図で確認すると「愛の風公園」という方向を向いている。
 とりあえず山麓線まで戻る。山麓線を北に上がると、左に新潟教育大学のキャンパスだ。(山麓線からかなり奥にある.) キャンパスの入り口の道路に車を入れて、教育大の建物の写真を遠いが撮る。キャンパスに入っても何もないだろうなぁ。。。なんて正直自分の気持ちに寂しさを覚えるが、この際無視だ。  教育大

 また山麓線に戻って北上。ここから北国街道までは距離はない。実はこれまで気にしていなかったのだが山麓線と北国街道は斜めに交差しているのだ。私は、北国街道は南北に直進と思っていたが、昨日までの道に迷う原因になっていたのだ。昨日の迷いの反省で今日は確かな道を走ることができるようになった。
 北国街道は、ここからどこをどう折れて海岸に出るのだろう。そこまでは書かれていない。北国街道は、実は高田までということのようで、その先は、加賀街道というのだろうか?加賀百万石前田藩の殿様の参勤交代のための道順のようだ。


**江戸の加賀街道の名残の松並木** 撮影場所

 しかし、加賀藩の参勤交代は、妙高を越えたのだろうか?加賀街道としては、中越の長岡から今の関越自動車方向沿いにまわる道もあるようだ。この高田城を通り、妙高を越えて北国街道を行くのは脇街道ということになっている。
 人間1千人馬5百騎という大行列が、妙高高原を超えただろうか。季節にもよるだろうが、妙高高原は夏でも結構涼しいところだ。そんな大行列の宿泊先(本陣)はあったのか?国道18号を走ったときには、本陣跡は気づかなかったが。もっとも、飯山街道はそれよりも厳しいかもしれない。
**ネット検索では、北国街道の野尻湖近辺に「野尻宿」「柏原宿」などの本陣跡があるようだ。**

** 次回は上杉謙信の居城 春日山城の遺構のある 林泉寺 **

過去の記録
2005年5月9日2005年5月10日
 名古屋から軽井沢 その1 栃木県二宮町の朝
 名古屋から軽井沢 その2 朝のお勤め 高田・専修寺
 軽井沢から達磨寺 高田・専修寺 その2
 達磨寺から高崎・前橋 稲田・西念寺
 前橋から専修寺 R50号線 水戸市河和田 報佛寺
 栃木県真岡市で宿泊 報佛寺 坊守さんのお話
 筑波山麓を走る
 下妻市 小島草庵後
 下妻から長野に
 関越・花園~上信越・佐久
 佐久~黒姫野尻湖PA
 妙高を越え日本海へ
 日本海の夕日


2005年5月9日
 上越2日目 その1
 上越2日目 フェリー乗船場
 上越2日目 市役所
 上越市埋蔵文化財センター
 上越 春日山城址
 上越 五智国分寺
 上越 親鸞聖人上陸記念堂
 上越 寺町浄興寺
 上越 市役所教育委員会
  続きを読む

Posted by 生田 at 00:10Comments(0)TrackBack(0)旅行など

2007年07月23日

お蔭様で2万件

 今日はちょっとびっくり
  カウンターが2万を越している。
  
 1万までよりも早かったものの
   ・・・・・・

 どちらにしても、
  皆さんのご来訪のおかげです。

ありがとうございます。  

Posted by 生田 at 21:44Comments(0)TrackBack(0)その他

2007年07月23日

梅雨前線の雲

 今日は、暑いとはい爽やかだったと思います。

 午前の記事送信の後に出かけて
  某・橋の上から北の空を見たら、下ほうに雲がいっぱい。
  名古屋の上空はすばらしい青空。
   あの北の雲が梅雨前線かもしれないなぁ。。。
   なんて思いながら見てました。
  車を運転していなかったら
   写真に収めたんですが、
   名古屋市内で、しかも橋の上では
   車を止めるわけにも行かず、残念でした。
 
 天気予報のように暑くならずよかった。。
 
 しかし、
  蒸し暑い夏でないと 名古屋の夏ではないのかも。  

Posted by 生田 at 18:13Comments(0)TrackBack(0)その他

2007年07月23日

サボテン 腐る



サボテンが腐ってしまった。
 3日くらい前まではなんともなかったと思うんだけど。
 今朝、写真の左のようになっていた。

 今年は、順調に、子供をたくさんつけて
  鉢の中いっぱいになっていたのに。
  それがいけなかったのかな?


 右は、子供で、昨年株分けしたヤツ。

 育て方知らないから
  こうなったのかなぁ???
  かわいそうなことをしてしまった。
   ごめんなさい。  

Posted by 生田 at 10:07Comments(0)TrackBack(0)庭の花など

2007年07月23日

旅の記録 上越2日目 その9 上越市の歴史

2005年5月11日 3日目 (上越2日目) 
   再び 上越市役所 教育委員会  地図 

 
 ホテルに戻って、チェックイン。部屋に上がろうとエレベータに乗ろうとするところで携帯がなった。市役所の生涯教育の担当者からだ。
 いつ市役所に来るかとのこと。明日ではというと「明日なら時間を遅くしてくれ」というので、それでは今から出かけると。ただ、ホテルに戻ったばかりなので、荷物を置くテイクから少し時間がほしいと伝える。
 部屋に入って、荷物を放り込んで、即、外に飛び出した、どんな話が聞けるか、大いに期待するところだ。

 ホテルは高田駅前、市役所は春日山駅前、JR信越線の駅ひとつ分の距離。そんなに離れているという感覚はないが、こうして急ぐときというものは遠く感じるものだ。
 駅前のとおりを北に向かい、途中で上越大通りに合流する。そして北上して高速道路をくぐり、謙信大通の交差点で左折すると市役所だ。朝来たときに車を入れた入り口とは違う入り口から駐車場に入る。
 教育委員会の棟の前に車を止めて、今朝行った企画課にいく。朝は、電話で今からということで、女性が判断してくれたが、今は皆さん忙しく動いていて、気づいてくれない。カウンタの前にいる男子職員に、企画課の担当者の名前を言うと、取次ぎに行ってくれ、その状態を朝の女性職員が気づいて、担当者に説明している。
 その電話をくれた担当者が、時代を感じさせる本を一冊持って、出てきてくれ、話をする場所をほかの職員と話して確保し、私に座るように促す。名刺をもらう。学芸員の「N」とある。家内のいとこと同姓同名だ。世の中、こういったこともあるのだろう。

 朝、女性職員に訪問の趣旨を話してあるので、それに沿っていろいろとはなしをしてくれる。再度「平安後期から鎌倉にかけての上越付近での地震の記録、古文書の存在は」との質問に対して、「残念ながら一切存在しない」ということだ。つい半年前の中越地震クラスの地震があった可能性はあるだろうが、記録としては何もないという非常に残念な話だ。

 今回の旅行に出かける前にもインターネットで「鎌倉。平安、地震」などをキーワードに検索を何度も試みた、しかし、そのたびに探している目的のデータの存在しないということがわかるだけ、あるのは1500年以降になってしまうのだ。
 この点について、N さんの話もまったく同様なのだ。彼が持ってきた上越(直江津市史)でも、地震などの記述は1500年代以降とのことだ。前日行った埋蔵文化財センターのように、この上越の歴史はかなり古いのだが、記録として残されているものがないということなのだ。

親鸞の話を幾つかしているが、その中のいくつかを箇条書きにしておこう。

1:親鸞の流された場所の選定理由
   親鸞のおじに当たる日野○○の赴任地であった

2:恵信尼について
 恵信尼は、地元豪族の娘であって、親鸞の子供はこの上越で生まれている。ただ、善鸞だけはほかの女性との間に生まれたのだろう。これは、ご当地として、そのようにあってほしいという願望もこめての話だと、正直に語っておられる。
 日野家、三善家という力ある豪族などの庇護の下に親鸞は置かれていたので、いわゆる流人小屋のような環境の中で生活をしたということではなく、かなり裕福に、楽に過ごしたということもいえる。

3:国分寺の位置
 国分寺は最初に建設されたものが海に埋没したのではないかという話については、決まった説はない。逆に現国道18号線のある場所から国分寺後と思われるも伽藍の跡が見つかっている。

4:高田城の変遷
上越の城は、謙信の春日山城の次は直江津の東に「福島城」が一時期存在し、城下町まで作られているが、最終的には高田の地に現在の高田城が築城され、城下町が形成された。

5:居多ヶ浜の名称
 国分寺の草案跡に鎮座する O 氏の説では、「こた」はアイヌ語の「枯淡=村」ではないかという話をしていたことを出したところ、N さんは「ケタ」でしょうという。「けた」とは、能登半島にある「気多神社」の「けた」するのが一般的はないかということだ。
 **ネットで見ると「気多」の語源にはいろいろ説がありますね。** 筆者注釈

6:上越は日本の真ん中である。
上越市にコンパスの新を置き、稚内あたりまでを半径と刷る円を描くとほぼ日本全土を含むことができる。これは、つまりは古代においては日本の文化圏の区分を示している。つまり、都の力の及ぶところの外に位置する。逆に言えば、この値は、すでに都の力の及ばないところで、流罪とする土地の一番都に近い位置である。
 このことは、親鸞が流されたこととも関係があり、当時の都の力が及ばない土地の中で一番近いところを選んで、しかも火の気とのつながりのなるこの地が選ばれたのだろう。


**親鸞伝説の一つ:片葉の葦**
**後ろの海の向うは佐渡なのですが**

7:親鸞伝説
 この上越から中越の地には、数多くの親鸞伝説が存在する。しかし、その多くの伝説は江戸時代になって作られた、流布したものであり、親鸞そのものに関係するとは言いがたいものだ。特に、この地区は本願寺系の寺も多く、真宗を根付かせるための蓮如以降の布教の手段と考えるのが相当であろう。

8:関東にある親鸞ゆかりの地名との相似
 これは、おそらく偶然といっていいのではないか。高田、稲田、板倉、いずれも偶然と考えていいのではないか。この土地のそれらの名前の由来は不明だ。

9:親鸞の関東移住の峠越え
 一般には北国街道ということになるだろうが、この街道も江戸時代の制定であって。判断は難しいだろう。上越から長野への移動は、北国街道、飯山街道、板倉から開山高原を抜けるなど幾つかの道がある。
 現在では、確かに18号線沿い、つまり北国街道が一番人家が多いのは確かである。

10春日山城跡
 春日山に上がってみたが、聞いていたようにな周囲を見渡すことができる要所とはとても思える状態ではなく、本当に要所だったのかという質問に「木が生い茂りすぎているので、目下もとの状態に戻すために伐採中です、あれでもかなり切ったんですが・・・」とのこと。
 現在の春日山城は、確かに何もない。ただ入り口の問だけが林泉寺に移設されている。そのほかは福島城地区上位に際してすべて壊されている。

以上が、 学芸員のNさんから聞いた話の概略だ。

 目的を達する資料のないことがわかり、気分的にはがっかりした。しかしいろいろ親切に説明してくださったことに心からの御礼を言い、ホテルに戻った。
 そして、風呂に入って、横になったら、そのまま寝てしまったのだ。この夜は、まずは5時間、そしてさらに7時間をなんと12時間も寝ることになってしまった。

**次回は 上越3日目 直江津から高田への加賀街道 **

過去の記録
2005年5月9日2005年5月10日
 名古屋から軽井沢 その1 栃木県二宮町の朝
 名古屋から軽井沢 その2 朝のお勤め 高田・専修寺
 軽井沢から達磨寺 高田・専修寺 その2
 達磨寺から高崎・前橋 稲田・西念寺
 前橋から専修寺 R50号線 水戸市河和田 報佛寺
 栃木県真岡市で宿泊 報佛寺 坊守さんのお話
 筑波山麓を走る
 下妻市 小島草庵後
 下妻から長野に
 関越・花園~上信越・佐久
 佐久~黒姫野尻湖PA
 妙高を越え日本海へ
 日本海の夕日


2005年5月11日
 上越2日目 その1
 上越2日目 フェリー乗船場
 上越2日目 市役所
 上越市埋蔵文化財センター
 上越 春日山城址
 上越 五智国分寺
 上越 親鸞聖人上陸記念堂
 上越 寺町浄興寺
  

Posted by 生田 at 00:10Comments(0)TrackBack(0)旅行など

2007年07月22日

地震対策とセミの声

 我が家は、古い建築基準法に対応した物なので、
  耐震壁は少なく。先日の中越沖地震クラスでは
  多分南側が倒壊すると思う。

 ということもあり、以前から屋内の地震対策をやってます。
  何をしているかといえば、タンスなどがひっくり返らないとうにと針金で固定する方法。
   柱や長押そしてタンスなどにもヒ^-トンをうち、それを針金で結びます。
  天井との間に何かツッカイ棒を入れても天井板が割れるだけなので。

 ただ、これまでやっていないところがあった。
 出入り口になる下駄箱がまだ止めていなかった。背の高い下駄箱なので、これが倒れたら出て行くことさえ出来なくなる。そこで、今日やっととめた。ついでにミズヤも。

 やっている最中に 庭で セミ君 が鳴いた。
  今日は上手に鳴いたね。
  梅雨明けかな?
  それにしても蒸し暑い。
   しっかりと水分を含んだ土に 太陽が当たって蒸し暑いのかも。  

Posted by 生田 at 14:11Comments(0)TrackBack(0)その他

2007年07月22日

旅の記録 上越2日目 その8 寺町と浄興寺

2005年5月11日 3日目 (上越2日目) 
   上越市高田寺町の浄興寺 地図

 記念堂でお食事のお邪魔もあまりできないので、退散することにした。
 車を国分別院に向ける。別院の境内に入って、ゆっくり歩いていたら、先ほどのご夫婦にまた出会う。袈裟掛けの松跡の前で記念撮影をも頼まれた。
 このご夫婦、上越の寺町をご存じないようだ。浄興寺に聖人のご真骨があることもご存じないと思う。そこで、教育委員会でもらった寺町の冊子を差し上げ、ぜひ訪問されることをお勧めする。また、この近くにある光源寺には行かれたのかたずねるとまだとのことなので、光源寺には赦免状といわれているものがあることなどをお教えし、訪問されることもお勧めした。(おせっかいが過ぎるなぁ。と後々反省しきりである。)

 ここで私は、北国街道の南進をするべく国分別院から右のコースをとる。国道8号線を超えて、そのまま直進するのだが、どうも昨日から方向感覚に狂いがあるようで、右にとってしまった。何かちがう雰囲気だ。「ものがたりの館」というものがある。女の人は掃除をしているが、誰も観光客らしい人はいない。「毘」の文字の書かれた旗、のぼりが林立している。どうも上杉謙信の春日山城の再現といった感じだ。しかし、なんか変だ。

 すぐにもとの道に戻ることができる。元に戻って道なりに進むと今朝来た春日山町の交差点に行き着く、ここを過ぎたところでまた道が分かれる。またしてもここを右にとってしまう。ここも雰囲気が変。車を止めて元にもどうるが・・・ (実は、右に行くのがこのときは正解だったのだが)
 元に戻したものの高速どおりにぶつかるところでまた気持ちが迷う。この高速道路を私は上信越道と思ったのだが、そうするとこれをくぐると上越市から離れることになる。という勘違い。体調を崩したことで余計にお起きか勘違いを生んでいる。
 心配になって車は高速をくぐらずに高速に沿ったわき道に入る。そして広い道に出たところで左折、そして次の大きな交差点で右折。もう完全に方向感覚をなくしている。どこを向いて走っているのかわかっていない。しばらく走って、橋の中央に黄色いアーチがあることで、やっとどこを走っているのか理解ができた。謙信公通りを東に走り、謙信公大橋にいたのだ。私は知らない道を南に走っていると思っていたのに。
 いる場所がわかったところで、どこに行き着くかはわかっているのでそのまま直進。そして朝行ったJASCOに車を入れて薬屋に行く。実は、最初の2日間の長距離ドライブで完全に体調を崩し、下痢ではなくて便秘になってしまい。昨夜はほとんど眠れないくらい苦しんだのだ。それがこうした方向を狂わせる原因にもなっているのだ。
 薬屋で、便秘薬を買う。飲み薬にして、早く処置をしたいという気持ちが大きい。薬を買ったときが大体1時ころか。ホテルのチェックインは2時なのだ。体調を崩しているので多少早めにインできるように頼んではなるが、そうは甘えられないので、寺町に行くことにした。そこで北国街道に戻り、そこから寺町に入ることにした。

 北国街道へは、上越大通りの途中からこれも右折するのだが、この交差点も間違えて進入したのだ。もっとも、それはそれであってはいたものの、自分の頭の中にはどこをどう走ったのかは記憶に残らないほどである。それにしても、偶然とはいえ北国街道に出たので、何とか寺町に行き着くことができた。

 さてこの寺町なのだが、ここも結構間違いやすいところで、案の定浄興寺に行く道を間違えて、余分な走りをしている。それでも行き着いたのは過去2階の訪問の記憶が多少なりともあったからか。
 正規の駐車場に車を入れたが、どうもそうではなくても大丈夫なようなので、境内に車を移動させた。たまたま空きがあったので、そこに駐車。新しい本堂がここから見えるところだ。何を隠そう、庫裏の前だ。前回は、ここは工事中で歩くのも大変だったのだ。その本堂などの改修工事も昨年終了したはず。親鸞聖人廟も元に戻されているはずだ。


浄興寺本堂


 本堂に上がるのは初めてだ。本道の正面に回り、階段を上がる。これまでいろいろ見てきた真宗寺院のどの建物とも違う。建て方そのものが違うのだ。ここは、真宗九派の中での浄興寺派の本山である。もっとも名古屋あたりには浄興寺派の寺はないだろう。東西の特に東本願寺の力の強い土地柄だから、東西以外の末寺はないのではないかと思う。京都にはあるのだろうかと考えてみるが、まずはないだろうなぁなどと。。。

 元は栃木県の稲田にあったのものが時代の流れとともに長野に移り、さらにこの上越高田に移ってきて、そして最後に寺町建設でこの地に落ち着いたとのことだ。つまりはこの浄興寺は関東真宗教団の流れを汲んでいるのだろう。
 本堂に入って、びっくり。東西本願寺、高田専修寺では親鸞聖人像があるが、ここは阿弥陀如来の立像だ。どちらかといえば、本来ある姿に近いということではないか。親鸞像があるということは、仏教ではなく親鸞教になると思われるが、ここは親鸞像ではないのだ。
 阿弥陀の如来の立像。どちらかといえば、これでも本来の親鸞の教えとは違うのだ。まあ、寺そのものの存在が親鸞の教えとは異なるのだから、どうしようもないのかもしれない。

 親鸞は、あちらこちらの○○字名号を多く残している。これは、国策ではない、しかも貧乏な農民集団に立派な仏像の製作を求めるなどは無理だということから、紙に書いた名号を代わりににさせたのだと私は思っている。寺は持つまい、弟子は持たないといってきた親鸞が、このような寺すら抵抗を感じるのではないかと思う。

 本堂を出て階段を下りようかと思ったら、あのご夫婦がおいでになっている。またご一緒になりましたねと声をかける。このお二人も、中に入られて、ちょっと驚かれているようだ。おそらく本願寺とは違う雰囲気を感じられたのだろう。


親鸞聖人の真骨を収めた廟所


 本堂を出て、ご真骨のある廟へご案内する。ここでも、記念撮影を依頼された。

 この跡、板倉町の恵信尼公廟所へお行きになるとのことだ。



 私は、ホテルに戻る。正直眠いのだ。


** 次回は、再度 上越市役所 **

過去の記録
2005年5月9日2005年5月10日
 名古屋から軽井沢 その1 栃木県二宮町の朝
 名古屋から軽井沢 その2 朝のお勤め 高田・専修寺
 軽井沢から達磨寺 高田・専修寺 その2
 達磨寺から高崎・前橋 稲田・西念寺
 前橋から専修寺 R50号線 水戸市河和田 報佛寺
 栃木県真岡市で宿泊 報佛寺 坊守さんのお話
 筑波山麓を走る
 下妻市 小島草庵後
 下妻から長野に
 関越・花園~上信越・佐久
 佐久~黒姫野尻湖PA
 妙高を越え日本海へ
 日本海の夕日


2005年5月11日
 上越2日目 その1
 上越2日目 フェリー乗船場
 上越2日目 市役所
 上越市埋蔵文化財センター
 上越 春日山城址
 上越 五智国分寺
 上越 親鸞聖人上陸記念堂


   

Posted by 生田 at 00:10Comments(0)TrackBack(0)旅行など

2007年07月21日

サッカー オーストラリア戦 川口 神がかり

目下PK戦の最中
 川口 2人 連続で止めた


 彼はどちらかといえば好きな選手ではないが、
  今回ばかりは・・

 このまま終わってくれ  続きを読む

Posted by 生田 at 22:00Comments(0)TrackBack(0)スポーツ

2007年07月21日

お蕎麦屋さんのお絞り

 昨夜8時過ぎてから夕食。

 久しぶりに蕎麦を食べようと3人で。
 しばらくいっていなかったお蕎麦屋さんに車をむけた。

 閉店に近いから
  どうも私たちが一番最後に入った客のようだ。
  
 注文をとりに来たので、3人がそれぞれのものを注文。
  それらが卓に並ぶまでの間に、
  出されたお絞りでと、封を切り
   駐車場から店内までの数メートルで
   濡れたおでこを拭こうと顔の前にお絞りを。
  あぁ。におうよ、消毒されていないから
   ただ洗って完全に乾燥させていないから
   発酵してしまっている。

 おそばは、まあまあだったのに
   お絞りで完全につや消しですね。

 名古屋のある老舗の料理屋さんでは、
  自分のところで洗って、干した上で
  香料を含ませて・・・・
 と心をこめておいでなるけれど、
  お絞りやさんのものを利用すると、 
  こういうことになりがちなようですね。
 もっとも、そのお絞りやさんの
  営業姿勢が問題なのでしょうが。

 このお蕎麦屋さんには、
  多分この3人は二度と行かないでしょうね。
  それに、多分に口コミで広がりそうです。
   元は、紹介した人がいるので。  

Posted by 生田 at 13:02Comments(0)TrackBack(0)社会性

2007年07月21日

旅の記録 上越2日目 その7 親鸞聖人上陸記念堂

2005年5月11日 3日目 (上越2日目) 
   親鸞聖人上陸記念堂 地図

 国分寺を後に、親鸞聖人上陸記念堂へ向かう。もう何度とこの前に立っているので、ごく当たり前のようにすんなりと車を駐車場にいれる。おお、ここも今日は人が多い。いつもほかには誰もいないのに、どうしたことかと。。。。
 (後でわかったことだが、句会の人々がこの近くの寺を回って俳句を作っておいでのようだ。)

 見晴台に立つが、佐渡は望めない。いや、目を凝らすと水平線に本当に薄く島影が見える。(「様な気がする」が正直なところ。)おそらく間違いないだろうと思うのだが。

 ここで、記念撮影のシャッターを押すことを頼まれた。40代のご夫婦だ。手には数珠をお持ちでいらっしゃる。たぶん真宗の檀家の方であろう。(後でわかったことだが、広島の某寺の住職であられた)

 一人旅をしているとよくシャッターを押すことを頼まれる。なぜ二人連れには頼まないのだろう。不思議だなぁなんて、思いながら、シャッターをあ押して差し上げる。この見晴台では、佐渡が見えると思っておいでではないようだ。こちらに佐渡が見えるはずなんですが。。。なんていいながら。今回は、私も佐渡を背景?にシャッターを押してもらった。こんなことは珍しいことだが。

 見晴台の近くでは、件の句会の人たちが敷地内であちこち座り込むような格好で、まるでメモをとるといった姿で何かを書いておいでになる。実はこのとき句を書いているとは思ってもいなかったのだ。
 それにしてもあのような姿、格好で区が詠めるものだろうか。本当目の前にある日に書かれている文章を写し書きしているという雰囲気なのだが。
 
**碑の後の海の向うは佐渡です**



 そういった人々を尻目に、親鸞聖人の銅像やら片葉の葦やらをみて、見真堂に入る。聖人の坐像にお会いするためだ。何歳のころの姿なのだろうか、だんだん私の歳が近くなってくる。当然なのだが・・・・・・ いや、まだ30年あるぞ。

 見真堂から記念堂に。記念堂の入り口前で、2年前にお話しした女性がおいでになる。本当は最初にここでお会いした記念堂をお守りされていた気品のあるかわいいおばあちゃま(林正寺の先の坊守)にお会いしたいのだが、もう94歳になられ、足を悪くされてこちらにはこれていないことは、前回聞いている。今回は、それに加えて足を折って入院されていると大滝氏が言っていた。

 記念堂に入ってくる人は、あまりいないようだ。わたしはずうずうしくなかに入って、お茶を賜った。前回来たときの話や、坊守さんのはなしをする。坊守さんは、最近記憶が定かではなくなってこられたとか。自分の部屋を記念堂と思い込まれたりするようになってこられたとのことだ。
 ということは、今お会いしてももう以前にお会いしたときの記憶はお持ちではないだろうし、何を話されるかもわからなくなってしまったということなのだろうか。
 しかし、自分の部屋を記念堂と思い込まれるとは、この記念堂に命をかけてこられたのかもしれない。一度お会いしたときのあの気品と、その日は誰も訪問者がいないということでたった一組の私たちの訪問を喜んでいただいたあのかわいい雰囲気は、いまも私の脳裏に焼きついている。いつまでもお元気であられんことを心から祈っております。

 お話をしている間にもうお昼を過ぎた、前回はここの女性はお昼を取りにご自宅に帰っておいでのようだが、今回はなんとご主人がお弁当を持ってこられた。このご主人、私よりひとつ年上で、目下就職活動中とのことだ。いろいろの話の中で、コンピュータに結構入れ込んでいて、しかもそれがマックであって、最近のWindowsについての愚痴も。基本的にMac使いの私にはうれしい話でした。



**次回は、上越市高田寺町の浄興寺**

過去の記録
2005年5月9日2005年5月10日
 名古屋から軽井沢 その1 栃木県二宮町の朝
 名古屋から軽井沢 その2 朝のお勤め 高田・専修寺
 軽井沢から達磨寺 高田・専修寺 その2
 達磨寺から高崎・前橋 稲田・西念寺
 前橋から専修寺 R50号線 水戸市河和田 報佛寺
 栃木県真岡市で宿泊 報佛寺 坊守さんのお話
 筑波山麓を走る
 下妻市 小島草庵後
 下妻から長野に
 関越・花園~上信越・佐久
 佐久~黒姫野尻湖PA
 妙高を越え日本海へ
 日本海の夕日


2005年5月11日
 上越2日目 その1
 上越2日目 フェリー乗船場
 上越2日目 市役所
 上越市埋蔵文化財センター
 上越 春日山城址
 上越 五智国分寺
  

Posted by 生田 at 00:10Comments(2)TrackBack(0)旅行など

2007年07月20日

ミッドランドスクェア

 昨日 珍しく名古屋駅前に行く。

 鉄道忘れ物即売 の会場に行ったら
  私より年を召した人が多かったなぁ。。。

  私は、
   「ひょっとして私のおとしものが売られていないか」
  と思っていっただけのこと。

ついでに、
 ウワサの(もう70日過ぎたカナ) のミッドランドスクェアに
 
 トヨタさんの傲慢さが出てますね。
  ショールームといいながら展示台数4台
  レクサスたるや2台。
   それに、カタログないって言ってたよ。
 
 2階の展示は、「少ないねぇ」って受付のお嬢さんに言ったら
  申し訳なさそうに 「よく言われます」 って。

 何をお考えの展示台数なんだろう?
  もっとも、あの場所代の高いところに
  広い展示ルームを作ることは無駄なんだろうなぁ。


確かに、きれいな建物です。
  天井も高く、お店も立派です。
  そのように構えておいでです。
   しかし、なんとなく冷たさを感じた。
  
 地下街との境界は、
  あまりにもその違いから
  地下街から入るときに
   異次元の空間に入るような錯角さえ感じる。
  
 年間1兆円以上の利益を上げているのなら
  周辺の環境整備にも気を使ってよかったのではないか?
  今の状態では、
   「トヨタだけが勝っているんだよ」
  と自慢しているようにも、見えるだろう。

  
   

Posted by 生田 at 17:10Comments(0)TrackBack(0)社会性

2007年07月20日

旅の記録 上越2日目 その6 五智国分寺

2005年5月11日 3日目 (上越2日目) 
   五智国分寺   地図

 春日山を下りて再度居多ヶ浜に向かう。今度は海岸そのものよりも国分寺と記念堂に行くためだ。春日山町の交差点を左折。とここで、あら・・・ここはこれまでにも走ったことのある北国街道では。なんだなんだ といったところだ。この道は北国街道として知られるだけあり、昔は松並木があったのだろう。8号線との交差点の手前には何本かの太い松が道の両側に見受けられる。この道は山麓線よりも少し海よりに位置する道路だ。といっても北上するときではなく、8号線を超え東にカーブしてからのことだが。

 もう何度も走っているなれた道だ。一気に国分寺に向かう。ここを訪れるのは3回目。最初は雨の中、家内を車に残して私一人で境内に入った。その当時は親鸞のこともさほど知るわけではなく、国分寺も何があるのやらといって程度の知識だった。2回目は、多少なりとも知識は持ったが、この日も雨で親鸞の資料への期待もなく境内に入ったら、O さんという面白い人に出会っていろいろ彼の親鸞への思いを聞いたものだ。そして彼が作っていた流罪小屋などを眺めてこれはないだろうなどと思っていたものだ。
 
 山門の南にある駐車場に車を置いた。山門にむけて写真を撮ろうとしたが、なんやら売店と思しきところの女性がうろうろして写真には不向きだ。ということで、とりあえず写真はなし。この正面から入るのは、最初のとき以来で、そのときは何があったのかまったく記憶にないといってもいいだろう。三重塔があるはずなのだが、2回の訪問での記憶がないのは、2回とも雨だったせいだろうか。今回は雨の心配がないので、ゆっくりと見ることができる。(このために、本来のコースを逆にしたのだから晴れてくれないと困るよな)

 三重塔は何故か感激を覚えない。あちこちで見る塔には、感激を覚えるものと、そうでないものがある。ここの塔はその覚えないほうも部類である。理由はわからない。ひょっとしたら本堂が再建されてきれいになりすぎて、境内が趣をなくしてしまったからかもしれない。聖人の銅像も、ここではなんとなく白々しさすら感じる。

 境内は、今日は人が多い。これまでは人がいたためしがない。やはり雨が降るときは誰も来ないのだろうか?年齢的には、いろいろだ。私の歳の前後という印象が多いのは、退役されてその後に夫婦でご旅行といった人が多いのは確かだ。それに引き換え私は最近一人での旅行。見捨てられている・・・・
 境内の右奥に保育園がある。ここの子供らが先生に引率されて出てきたりしている。一瞬孫のことが頭をよぎる。子供たちは、流人小屋の横を毎日通っているのだろうが、彼らはその記憶をいつまで持つだろう、そしてその思うが大人になってどう影響するのだろう。親鸞という人の記憶がどう残っていくのだろうか。

 O さんの流人小屋は完成しているようだ。作者本人はいかがされているかとお部屋をのぞく。座っておいでだが、どうも雰囲気が違う。一回り丸くなっておられる。それにあの毒気を含んだ印象がないのだ。つまりは覇気が感じられなくなっている。
 「お久しぶり」と声をかける。覚えていらっしゃったようだ。いろいろ話をする。私の今回の上越訪問の目的を話して、彼の考えを聞いてみる。彼は、どうも北国街道を思い浮かべているようだ。話の中で、加賀百万石の参勤交代が、この北国街道に沿って江戸に向かったということを話してくれた。
 しかし、この北国街道はいつごろからの道なのだろう。江戸時代の街道制定で確定したことはわかりきったことだが、平安、鎌倉のときはどうだったのだろう。謙信はどこを越えて千曲川の川中島へ向かったのか。

 謙信は女性との交わりを持たず、子供がいなかった。法然もそうだった。この二人はいろんな意味で清廉潔白な人として名を馳せている人物である。それに引き替え親鸞は多くの子供を残し、さらには現代までその子孫が存在し、多くの問題を起こしている。これは、親鸞本人は、思いもしていなかったことではあろうが。。。。

 O さんは、目下竹とんぼ作りを来る人に奨励しているようだ。私には前回は、彼の書いた本を数冊持って帰れと申されたが、今回は「竹とんぼの材料とカッターナイフを持って返れ」とのこと。いつかはやってみようと思っていたのでありがたくいただいて帰ってきた。
 彼とのはなしは30分以上もしていたのだろうか。この間に何人かの人が部屋をのぞいては通り過ぎていかれる。もうそろそろと腰を上げたときに、その入れ替わりに一組のご夫婦が部屋に向かってこられた。前橋からこられたとのこと。ひょっとしたら、退役された記念旅行かなと思うのだが。

 本堂の如来像に手を合わせ、境内を出る方向に歩いていく。左に売店がある。どうもくるときにうろうろされていたのはここの女主人のようだ。それにしても、境内の山門直後にこうした売店(うどんなども食べられる)を設けるなど、やはりこの寺の格式の軽さを思ってしまう。
 本当は、五智国分寺として、聖武天皇の国分寺建築の流れからは相当時代を後にして、消滅・再建築ということがあったにしても、やはり格式としては国分寺のままであってほしいというのは、旅行者のわがままだろうか。

**次回は、親鸞聖人上陸記念堂**

過去の記録
2005年5月9日2005年5月10日
 名古屋から軽井沢 その1 栃木県二宮町の朝
 名古屋から軽井沢 その2 朝のお勤め 高田・専修寺
 軽井沢から達磨寺 高田・専修寺 その2
 達磨寺から高崎・前橋 稲田・西念寺
 前橋から専修寺 R50号線 水戸市河和田 報佛寺
 栃木県真岡市で宿泊 報佛寺 坊守さんのお話
 筑波山麓を走る
 下妻市 小島草庵後
 下妻から長野に
 関越・花園~上信越・佐久
 佐久~黒姫野尻湖PA
 妙高を越え日本海へ
 日本海の夕日


2005年5月11日
 上越2日目 その1
 上越2日目 フェリー乗船場
 上越2日目 市役所
 上越市埋蔵文化財センター
 上越 春日山城址
  

Posted by 生田 at 00:15Comments(6)TrackBack(0)旅行など
  
2015大津・京都の旅
1泊2日のドライブ旅行
2015北海道・道東の旅
1週間870kmのドライブ旅行
大学OB会と
50年ぶりの鎌倉
OB会の後に鎌倉と横浜に行ってきました
15年年頭 広島宿泊の旅
鞆の浦、竹原、宮島に行きました
14年秋 京都宿泊の旅
久しぶりに新幹線に乗りましたが・・・
13年秋 京都ドライブ旅
京都の紅葉の名所・毘沙門堂に行きました
12年秋 室生寺ドライブ旅
すてきな観音様と再会です
室生寺五重塔
12年秋 京都ドライブ旅
1年ぶりの京都です
三千院
10年秋 平泉ドライブ旅
4泊5日 2000キロの一人旅です
平泉・わんこそば
   
10年夏 室生寺 日帰り旅
素晴らしい観音さんに出会いました
室生寺・五重塔
10年初夏 宇治・長岡 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに黄檗山満福寺・六地蔵・法界寺谷寺・長岡天神
布袋さん
09年秋京都 日帰り旅
09年11月26日久しぶりに 紅葉がきれいな京都
南禅寺の紅葉
08年秋京都 日帰り旅
08年11月25日貧乏・一人・日帰り旅の記録です。
鳳凰堂を望む
観光シーズン 京都の歩き方
京都市・地下鉄 東西線沿線
09年浅草と川越
浅草観音
07年信州の旅
上田城内
アクセスカウンタ
プロフィール
生田
生田
 トップの写真は、我が家の庭で、鳥達につつかれ実もなくなり枯れ果てた柿の枝です。人生も同じで、仕事仕事で突き回されてここまで来て、落ち着いたら、だんだん枯れていくんだという思いです。  
オーナーへメッセージ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 18人
QRコード
QRCODE