2007年08月01日
旅の記録 松本へ 飯山街道 1
2005年5月13日 5日目
上越市から松本市へ、 飯山街道 その1
親鸞の足跡を訪ねるたびも今日で5日目。一人旅というものは、結構疲れるものである。
体調は前日までよりもかなりいい状態になってきた。といってもまだまだ、完全に戻るまでには時間が必要だ。
体調が優れていないので、食事がまだ満足に取れない。昨夜はかなり無理を承知で取ったが。そのため朝食はホテルのレストランでトーストくらいにしようと思っていた。朝7時半ころにチェックアウト。フロントでレストランにトーストの食事ができるか確認してもらう。できますとの返事をもらったので、ホテルで簡単に済ます予定が、実際にはレストランで取り合ってもらえず、気分は最悪である。
致し方ないのでホテルを出て、コンビニで朝食を買う。
今日は、かねてよりの目的のコース、親鸞はどの街道を通って長野に行ったかについて、見ておく必要のある街道のひとつ、飯山へ抜ける飯山街道=国道292号線を走るのだ。
前回 新井(現・妙高市)から長野には292号線を一部通ったのだが、北国街道と飯山街道の分岐点で北国街道を選択している。そのとき、この分岐点でかなりの数の乗用車やトラック、ダンプカーが飯山街道に入っていった。その印象からこの街道は簡単に飯山に抜けることができるだろうと思ったのだ。
国道としては、3桁国道。いわゆる完全に整備されているかどうか保証はない国道だ。いまどき2桁国道はまずこの心配はないが、3桁はどこかで途切れる可能性がないとはいえないのだ。しかし、あのときの車の量は、飯山まで行くことができると思い込ませたのだ。
上越から長野に抜ける街道は幾つかある。現在の国道で言えば、国道18号線(北国街道)、国道292号線(飯山街道)、国道405号線/国道403号線、国道253号線、このほかに県道で峠越えをする道もあり、思いのほか多いように思う。
今このようにいろいろな道があるが、親鸞の時代=平安後期から鎌倉時代には同じ環境であるなんてことはとても無理な話で、どのようになっていたのかはまったく不明だ。特にこの近辺は鎌倉を含めてそれ以前の資料は皆無に近いとのことだ。そうしたことから、今回のように飯山街道で峠越えをしたとしても、本当に意味のあることではないだろう。しかし、私としては親鸞が関東に移住する際に、子供の手を引くなり、背負うなりして、この連峰の峠をいかにして越えただろうとの思いを少しでも見ておきたいのだ。
学者さんたちは、書かれたものだけからいろいろ書かれるだけで、ほとんどが現地に来ていない。もっとも書かれたものがないだけに、現地すら訪れる必要も彼らは感じていないのかもしれない。
いろいろな意見や思いを書き残すには、その人の生き様が反映されていることがわかっていないのだろうかとさえ思う。特に親鸞の「海」という文字の多用性は居多が浜への上陸と、国分寺付近での流罪生活が大きく影響していることと思われるのだが、学者さんたちはその元となった日本海をどのように見たのだろう。この「海」の話は、上陸記念堂のおばあちゃまはきちんと整理して話してくださった。
同じことはこの峠越えでも言えるのではないか。なぜ親鸞は関東に行く気になったのか、いつ移動したのか、移動した季節は? 現地へ来てみて、峠を越えてみれば、幼い子供づれでこの妙高の麓を越えていく大変さを知ることができるだろう。それを車で超えても親鸞と同じ体験はできないにしても、まったく見もしないでものを論じることとは多少なりともちがように思うのだが。
**次回は、飯山街道の峠越え **
上越市から松本市へ、 飯山街道 その1
親鸞の足跡を訪ねるたびも今日で5日目。一人旅というものは、結構疲れるものである。
体調は前日までよりもかなりいい状態になってきた。といってもまだまだ、完全に戻るまでには時間が必要だ。
体調が優れていないので、食事がまだ満足に取れない。昨夜はかなり無理を承知で取ったが。そのため朝食はホテルのレストランでトーストくらいにしようと思っていた。朝7時半ころにチェックアウト。フロントでレストランにトーストの食事ができるか確認してもらう。できますとの返事をもらったので、ホテルで簡単に済ます予定が、実際にはレストランで取り合ってもらえず、気分は最悪である。
致し方ないのでホテルを出て、コンビニで朝食を買う。
今日は、かねてよりの目的のコース、親鸞はどの街道を通って長野に行ったかについて、見ておく必要のある街道のひとつ、飯山へ抜ける飯山街道=国道292号線を走るのだ。
前回 新井(現・妙高市)から長野には292号線を一部通ったのだが、北国街道と飯山街道の分岐点で北国街道を選択している。そのとき、この分岐点でかなりの数の乗用車やトラック、ダンプカーが飯山街道に入っていった。その印象からこの街道は簡単に飯山に抜けることができるだろうと思ったのだ。
国道としては、3桁国道。いわゆる完全に整備されているかどうか保証はない国道だ。いまどき2桁国道はまずこの心配はないが、3桁はどこかで途切れる可能性がないとはいえないのだ。しかし、あのときの車の量は、飯山まで行くことができると思い込ませたのだ。
上越から長野に抜ける街道は幾つかある。現在の国道で言えば、国道18号線(北国街道)、国道292号線(飯山街道)、国道405号線/国道403号線、国道253号線、このほかに県道で峠越えをする道もあり、思いのほか多いように思う。
今このようにいろいろな道があるが、親鸞の時代=平安後期から鎌倉時代には同じ環境であるなんてことはとても無理な話で、どのようになっていたのかはまったく不明だ。特にこの近辺は鎌倉を含めてそれ以前の資料は皆無に近いとのことだ。そうしたことから、今回のように飯山街道で峠越えをしたとしても、本当に意味のあることではないだろう。しかし、私としては親鸞が関東に移住する際に、子供の手を引くなり、背負うなりして、この連峰の峠をいかにして越えただろうとの思いを少しでも見ておきたいのだ。
学者さんたちは、書かれたものだけからいろいろ書かれるだけで、ほとんどが現地に来ていない。もっとも書かれたものがないだけに、現地すら訪れる必要も彼らは感じていないのかもしれない。
いろいろな意見や思いを書き残すには、その人の生き様が反映されていることがわかっていないのだろうかとさえ思う。特に親鸞の「海」という文字の多用性は居多が浜への上陸と、国分寺付近での流罪生活が大きく影響していることと思われるのだが、学者さんたちはその元となった日本海をどのように見たのだろう。この「海」の話は、上陸記念堂のおばあちゃまはきちんと整理して話してくださった。
同じことはこの峠越えでも言えるのではないか。なぜ親鸞は関東に行く気になったのか、いつ移動したのか、移動した季節は? 現地へ来てみて、峠を越えてみれば、幼い子供づれでこの妙高の麓を越えていく大変さを知ることができるだろう。それを車で超えても親鸞と同じ体験はできないにしても、まったく見もしないでものを論じることとは多少なりともちがように思うのだが。
**次回は、飯山街道の峠越え **