2007年08月05日
旅の記録 松本へ 飯山街道 5
2005年5月13日 5日目
上越市から松本市へ、 飯山街道 その5 JR飯山駅
目の前が開けた、圧迫感のない道を下っていく。山の間を走るにしても、山が迫っている道と、遠くにある盆地を走るときはまったく気分が違うのだ。目の前が広いというのは、本当に気持ちがいい。トンネルを越えてからそんなに時間はかからずに117号線のT字路に来る。
117号線を右折して、千曲川沿いに長野に向かっていく。すぐ飯山駅の案内板が。おそらくこちらが旧道なのだろう。駅に立ち寄ってみる気になったというよりもトイレ休憩をしたいのだ。置きぬけのトイレからここまでトイレなし。そして、この先どのくらいトイレなして走らねばならないかわからないから、できるところでしておくのが長距離ドライブの鉄則。
古い町並みと思いきやそうでもないなぁ。。なんて思いながら駅に着く。時間はまだ8時半を少し回ったところだ。えっ?である。上越からここまでなんと1時間で走ってきているのだ。そんなに近い距離の越後と信濃なのだ。ただ、目でその通行を拒否する高い山が間に存在する。それが文化をも遮断していたといえるだろう。
飯山の駅は、かわいい駅である。駅入り口は寺の入り口を思わせるつくりだ。飯山市は、寺の多い町であることも確かだ。おそらく江戸時代になるのだと思うが、この小さな市にも寺町が存在する。つまりは城下町である。幾つかの寺が散在したところでは、江戸時代に居城築造の際には必ずといっていいほど区画整理をし、寺町が作られている。だから寺町があるところは城下町だと思ってもまず間違いはないのだ。 JR飯山駅
京都市がそうなのだ。河原町通りの数本西の通りに寺町通りがあり、ここにはかなりな寺が集まっている。これは豊臣秀吉が聚楽第(これは一種の城なのだ)を作った折に寺を集めている。実は京都は平安遷都、築造のときの条坊制の通りとは違い、豊臣秀吉の都市計画による聚楽第を城とする城下町と考えるのが妥当ではないかと思っている。それを示すように「土居」という地名も残っている。
大阪もしかりで、これも秀吉の大阪城築城に際して、区画整理を行う寺町を作っている。それに加えて、大阪は実は東西の本願寺がない。これは、信長と石山本願寺の大戦争の後遺症なのだろうと思うが、本願寺は信長によってつぶされているが、秀吉は京都に本願寺を寄進、聚楽第の一部を移築するほどの肩の入れようで、おそらくは今の大阪には北御堂なり南御堂の位置に寺を作らせたと思っている。(これが御堂筋の由来だが)
そういったとことはともかく、飯山は寺が多いと聞いてきた。そういった都市の背景が、鉄道の駅に反映されているものと思う。長野駅がそうだった、善光寺の門前ということで寺をかたどっていた、奈良駅もそうだった、古の時代を思い起こさせる建物だった。今回のたびの上越もそうだ。高田の駅舎は高田の文化を移すものであったし、直江津は港というものテーマにした駅舎だった。
それにしてもかわいい駅舎だ。この市の人口がわかりそうなものだ。平成の合併で市の大きさはみんな大きくなるが、そうした少人口で広い土地を持つ都市は合併しても面積が大きくなるだけで、人口はそんなに増えるものではない。おそらくいの典型が上越市や妙高市ではないかと思う。1時間に1本の電車?。飯山線の電車。これが、この地区の交通機関。これではいくらなんでも今の時代には。。。それに引き換え国道117号線はとんでもなく交通量が多かった。車でなければ生活できないのではないかとすら思うのだ。
駅前には、とめることができる数は少ないが自家車用の駐車場と、その反対側にはタクシー乗り場がある。なにか場違いな印象を感じさせるようにタクシーが何台か止まっている。列車が着いたら、タクシーに乗るのだろうか?もっとも、雪山シーズンなら理解はできる。ここからスキー場までタクシーなんていうこともあるだろうから。しかし、いまどきの若者は車でスキー場へ行くのではないだろうか。それを考えるとやはり場違いなタクシーの数である。
**次回は 長野善光寺に向けて走ります **
上越市から松本市へ、 飯山街道 その5 JR飯山駅
目の前が開けた、圧迫感のない道を下っていく。山の間を走るにしても、山が迫っている道と、遠くにある盆地を走るときはまったく気分が違うのだ。目の前が広いというのは、本当に気持ちがいい。トンネルを越えてからそんなに時間はかからずに117号線のT字路に来る。
117号線を右折して、千曲川沿いに長野に向かっていく。すぐ飯山駅の案内板が。おそらくこちらが旧道なのだろう。駅に立ち寄ってみる気になったというよりもトイレ休憩をしたいのだ。置きぬけのトイレからここまでトイレなし。そして、この先どのくらいトイレなして走らねばならないかわからないから、できるところでしておくのが長距離ドライブの鉄則。
古い町並みと思いきやそうでもないなぁ。。なんて思いながら駅に着く。時間はまだ8時半を少し回ったところだ。えっ?である。上越からここまでなんと1時間で走ってきているのだ。そんなに近い距離の越後と信濃なのだ。ただ、目でその通行を拒否する高い山が間に存在する。それが文化をも遮断していたといえるだろう。
飯山の駅は、かわいい駅である。駅入り口は寺の入り口を思わせるつくりだ。飯山市は、寺の多い町であることも確かだ。おそらく江戸時代になるのだと思うが、この小さな市にも寺町が存在する。つまりは城下町である。幾つかの寺が散在したところでは、江戸時代に居城築造の際には必ずといっていいほど区画整理をし、寺町が作られている。だから寺町があるところは城下町だと思ってもまず間違いはないのだ。 JR飯山駅
京都市がそうなのだ。河原町通りの数本西の通りに寺町通りがあり、ここにはかなりな寺が集まっている。これは豊臣秀吉が聚楽第(これは一種の城なのだ)を作った折に寺を集めている。実は京都は平安遷都、築造のときの条坊制の通りとは違い、豊臣秀吉の都市計画による聚楽第を城とする城下町と考えるのが妥当ではないかと思っている。それを示すように「土居」という地名も残っている。
大阪もしかりで、これも秀吉の大阪城築城に際して、区画整理を行う寺町を作っている。それに加えて、大阪は実は東西の本願寺がない。これは、信長と石山本願寺の大戦争の後遺症なのだろうと思うが、本願寺は信長によってつぶされているが、秀吉は京都に本願寺を寄進、聚楽第の一部を移築するほどの肩の入れようで、おそらくは今の大阪には北御堂なり南御堂の位置に寺を作らせたと思っている。(これが御堂筋の由来だが)
そういったとことはともかく、飯山は寺が多いと聞いてきた。そういった都市の背景が、鉄道の駅に反映されているものと思う。長野駅がそうだった、善光寺の門前ということで寺をかたどっていた、奈良駅もそうだった、古の時代を思い起こさせる建物だった。今回のたびの上越もそうだ。高田の駅舎は高田の文化を移すものであったし、直江津は港というものテーマにした駅舎だった。
それにしてもかわいい駅舎だ。この市の人口がわかりそうなものだ。平成の合併で市の大きさはみんな大きくなるが、そうした少人口で広い土地を持つ都市は合併しても面積が大きくなるだけで、人口はそんなに増えるものではない。おそらくいの典型が上越市や妙高市ではないかと思う。1時間に1本の電車?。飯山線の電車。これが、この地区の交通機関。これではいくらなんでも今の時代には。。。それに引き換え国道117号線はとんでもなく交通量が多かった。車でなければ生活できないのではないかとすら思うのだ。
駅前には、とめることができる数は少ないが自家車用の駐車場と、その反対側にはタクシー乗り場がある。なにか場違いな印象を感じさせるようにタクシーが何台か止まっている。列車が着いたら、タクシーに乗るのだろうか?もっとも、雪山シーズンなら理解はできる。ここからスキー場までタクシーなんていうこともあるだろうから。しかし、いまどきの若者は車でスキー場へ行くのではないだろうか。それを考えるとやはり場違いなタクシーの数である。
**次回は 長野善光寺に向けて走ります **